笹乃秋亜



〈空〉の返済期限が間近に迫った。

 玄関扉の手紙受けには、既に数ヶ月前からの返済催促の手紙が大量に詰まっている。そして、今日、最終通告の手紙が届いた。〈太陽〉は何としてでも〈空〉を取り返しに来るだろう。きっと、手段なんて選ばない。

 兄は玄関扉の内側で、最終通告の手紙を握り締め、決断を下そうとしていた。


「 〈空〉は自由だ。何でも描きなさい。この〈空〉は君のものだ。 」


 兄が生まれた時、間違いなく〈太陽〉は兄にそう言って微笑んだ。兄は〈空〉が自由なものと信じて、無論、自分のものなのだと信じて、何でも描いては消して、描いては消して、そうやって〈空〉にクレヨンを走らせて、〈絵〉を描いていた。

 いつからだったか。

〈太陽〉が〈設計図〉を手渡してくるようになったのは。気付けば、〈太陽〉の〈設計図〉通りにクレヨンを走らせて、それを自分の〈絵〉だと信じていたのだ。

 疑問を抱かなかった訳じゃない。ただ、疑問を抱きながらも〈太陽〉に導かれるままに〈絵〉を描いて、そうする事以外の方法を知らなかったのだ。そうする以外の方法を知ろうとすることを、〈太陽〉は許さなかった。


「 誰のおかげで〈空〉に描けると思っているんだ? 君は。 」


 そう言って、大人しく〈設計図〉通りに描けと、言うのだ。ああ、その時〈太陽〉に歯向かっていたら、どうなっただろうか。自分の自由を貫いたなら、どうだっただろうか。今となっては後の祭りだ。結局、自分本位にクレヨンで描き殴っていた、幼い頃の自分がずっと頭の端に蹲っているのを見ていただけだったのだ。見ていただけで、何もしなかったのだ。従順だったのだ。


「 自由だったじゃないか。散々、お前の望む様に絵空事を描かせてやっただろう。

 そろそろ潮時だ。〈空〉を返してもらうよ。 」


 ああ、扉越しに声が聞こえる。

 兄は決断しなければならない。

 最奥の部屋には幼い弟がいる。弟はまだ何も知らない。〈空〉が限りなく自由なものなのだと思っていない程に、彼は無知だ。だから、兄は弟を守らなければならない。せめて、弟が、自分のようにならないように。

〈太陽〉が取り立てに来る前に、弟を連れて逃げてしまおうか。否、それでもきっと〈太陽〉は来てしまうだろう。どこに逃げたって、どこに隠れたって、〈太陽〉からは逃げられないのだ。


「 おにいちゃん。 」


 振り返ると、弟が自分の後ろに立っていた。


「 ああ、来ちゃ駄目だよ。どうやって部屋の鍵を開けたんだ? とにかく、早く部屋に──」


「 やだ、ぼく、こわくないよ。 」


 弟は無邪気に笑っている。

 ああ、それはきっとお前が何も知らないからだ。何も知らないから強くいられるのだ。だから、傷付く前に、どうか部屋に──


「 だいじょぶ。ぼくがいるよ。」


 そう言って、弟はすたすたと拙く歩み寄って来て、そのまま玄関扉の取手に手を掛けた。兄が慌てて弟を抱きかかえ、部屋に戻そうとすると、弟は「いや!いや!」と今まで見たことないような力で兄の腕を振り解いて、叫んだ。


「 にげちゃだめ! 」


 弟が遂に、勢い良く玄関の扉を開け放った。

 直視出来ない程の眩い光が差し込んで、白く発光する世界の中、〈太陽〉の無機質な声だけがはっきりと聞こえた。


「 さあ、時間だ。返してもらうぞ。 」


 微かに開けた瞼の隙間から、〈太陽〉が弟に手を伸ばしているのが見えた。

 弟が連れていかれてしまう焦燥と、弟に手を掛ける〈太陽〉への怒りで、弾かれる様に兄は駆け出し、弟の腕を掴んで力任せに抱き寄せる。


「 やめろ!誰にも手出しはさせない!〈空〉は御前のものじゃない!僕のだ!」


 拳を振り翳し、目の前の〈太陽〉を出鱈目に、思い切り殴り飛ばした。〈太陽〉は一瞬悔しげに表情を歪ませ、そして、風船が割れる様に、いとも簡単に砕け散ってしまった。

 兄が呆気に取られていると、弟はにこにこ笑いながら、兄を見上げた。


「 ふふ、だいじょぶだったでしょ?」


「 …知っていたのか?」


「 おにいちゃんのことならなんでも知ってるんだよ。僕はかつての君なんだから。 」


 強く抱き締めた腕の中で、弟──片隅で蹲っていたかつての幼い自分が、屈託なく笑っていた。


「 ねえ。もう一度、お絵描きしようよ。お兄ちゃん。 」


 開け放たれた玄関から見えたのは、あの時と同じ、雲一つない快晴の〈空〉と、それを背に兄に笑いかける弟の無垢な笑顔 。




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