宙の女#2

 もう一人の男はどこにいるのか、と宙の女ヴィヴィアンに尋ねたところ、案内されたのは出入り口の右手側にある開けたスペースだった。

 かつては写真やパネルが飾られていた名残がそこ頭に散らばっている空間の端に、男は寝かされていた。


「彼、森の中で転んで怪我をしちゃったのよね」


 ヴィヴィアンと同じく、彼は宇宙服に身を包んでいる。

 酸素タンクは背中から取り外され、今は管だけをつながれ脇に置かれた状態だ。


「最初は大丈夫って言っていたけれど――見るからに動きづらそうだったから。それで、ここに逃げ込んだってわけね」

「それで2日間もここに?」

「そ。幸い食料はそれなりに持ち込んでいたし、この場所は探究心をそそるものに溢れていたし」


 暇を潰す材料には事欠かなかったわ、とヴィヴィアンは語る。

 彼女曰く、ここには数世紀にわたる歴史が堆積していたのだという。

 見たこともない調理器具や料理の写真にロッカー。

 いつの時代に放送されていたのかも定かではないアニメーション作品のポスター群に、映画のワンシーンを模したであろうセクション。


「この星で――地球という場所で花開いた文化の名残と言うだけで、それはもう、素晴らしいの一言よ」


 なにしろこれらは、遠い祖先が楽しみ、慈しみ、しかし星の外へと持ち出せなかった文化なのだ。

 彼らの籠めた純粋な憧憬や、込められた思い出が愛しさとして、この瓦礫から漏れ出している。

 今住んでいる惑星も、それはそれは素晴らしい星だけれど。

 科学技術だって地球にいた頃とは雲泥の差だけれど。

 けれど、無重力を渡る必死さの内に、どうしても取りこぼしてしまった贅沢がここにはあって。


「宇宙空間に持ち出せなかった、猫にだって罵られるような彼らの贅物ぜいぶつにこそ、彼らの人類としての嗜好が眠っているのよ」


 と、学生らしい自分の興味に対する執着を彼女は延々と語って見せた。


「まぁ、それというのも彼が全く起き上がらなかったからなんだけれど」


 さすがに2日間もここで研究発掘に明け暮れるつもりはわたしにだってなかったのよ、とヴィヴィアンは言い訳してみせる。

 俺はその言葉を聞いて、愼重に宇宙服に身を包んだ"彼"に触れる。

 外側からは目立った外傷はない。

 血がにじみ出ている様子もなければ、服に穴の一つだって空いてはいない。

 酸素タンクの余裕もまだまだ十二分で、外気を吸った様子もない。


 ただ一つ。致命的なことがあるとすれば。

 彼は既に息をしていなかった。


「いつからだ」

「たぶん、あなたが来る3時間くらい前ね」


 なんだか、虚空に手を伸ばしている様子だからそれを握ってやったのが3時間ほど前の話。

 それきり彼はうんともすんとも言わなくなってしまったのだとヴィヴィアンは語る。

 語り口はあっけらかんとしたものだったが、その口調は今までと違ってどことなく重たげだ。

 ソラの女というあだ名がつけられいても、人並みに情念には囚われるらしい。


「せめて、彼の名前くらい覚えてあげれば良かったわ」


 ただ、常識からはほど遠いからこそのソラなのだろう。

 彼女の悼みは彼が死んでしまった事よりも、彼の名前をついぞ覚えられなかったという後悔ないめんに向いているようだった。


 俺は追加で簡単な触診を終えると、彼から少し離れて手を合わせる。

 遠い昔、地球のこの辺りに住んでいた人類の作法らしい。

 形骸化したものであれ、人の死には相応の礼を払うべきと言う観念から。

 俺は仕事の上で死に立ち会ったときはできうる限りこの行いをするようにしてきた。

 ヴィヴィアンはこちらの様子を神妙そうに眺めた後、同じように手を合わせることにしたらしい。

 俺の隣に並んで両の手を合わせ始めた。

 意味の失われて久しい合掌を一分。

 名前も知らない青年に対する別れをすませる。


「彼、連れて帰れるのかしら」

「いや、森の中で死んだ人、その場に置いてくるのが慣習だ」


 だから連れ帰るのは諦めて欲しいと告げると、ヴィヴィアンは簡単な頷きのあと、遺体の側に座り、手を一握りした。

 そして、立ち上がった時には人の死に相対した殊勝さなど、どこにやったのか。


「――さて、帰らなくっちゃならないわね」


 視線は遥か上。

 世界樹タワーの外へと向けられている。

 その見つめる先は、きっと宇宙なのだろうと俺は思った。

 なるほど確かに、このヴィヴィアンという女はソラの女だ。

 宇宙速度で思考するとはよくも嘯いたもの。

 彼女の立ち直りと、自分の未来に対する力強さは彼方に栄える星々のような輝ききらめきだった。

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