大自然#7

 カナリアは、逃げていた道を世界樹タワーへ向けて引き返していた。

 このままでは埒があかない。

 頑丈そうな建物も見つけられないし、甲虫ヘラクレスの体当たりに耐えられそうな路地も見つけられない。


「ハッ――、は――」


 唯一記憶の中にあるあいつの攻撃に耐えられそうな構造物と言えば、見上げるほどのタワーだけ。

 あの偉容ならば間違いなく、この怪獣の体当たりにだって耐えられる。

 背後、振り返れば然程の距離を置かずに猛追してくる甲虫の姿がある。

 わざと枝や幹の多い場所を通っているせいで、巨体は少し歩くだけでも様々な障害物をはじき飛ばしていた。

 その度に少しばかり速度が遅れては、また上がるのくり返し。

 声も上げずに開けられた口は、どことなく涎が滴っているように見える。

 それが、食欲によるものなのか、度し難い苛立ちによるものなのか。

 深くは考えまいと頭を振って、カナリアは逃げることに専念する。


 ――何より、自分はこれから一つのことを覚悟しなければならない。


「ッ――、見えた――!」


 つい先ほどまでいた世界樹タワー前の広場に帰り着く。

 そこには先ほどまでと変わらぬ偉容。

 そして、先ほどまでと変わらずひしめく、有象無象の蟻の群。

 そう、逃げるにしろ、甲虫をぶつけるにしろ、自分はこれからあの蟻の中に飛び込まなければならないのだ。


「――――。」


 生理的悪寒に一瞬、吐き気が込み上げる。

 背筋の裏側をぞわぞわと虫が這いずり回る感覚に、すぐさまその場でのたうち回りたい衝動に襲われる。

 脂汗だってさっきからひっきりなしに湧いていて、運動でかいた汗とは別の嫌なべたつきを全身にもたらしている。

 つまるところ、体中のありとあらゆる機能があの蟻の群に飛び込むという行為に対して警鐘を投げかけている。

 それはもう、ほとんどが自殺行為みたいなものだと人間の、すり減ってしまった本能の奥深いところが告げているのだ。


「――――。」


 急かすように背後からは破砕音が聞こえている。

 このまま立っていても甲虫に食われるだけ。

 それならば、と。


「――ええい、ままよ!」


 あらゆる体中の悲鳴をねじ伏せ、カナリアは一息に蟻の群の中に飛び込んだ。

 そこからは地獄絵図だ。

 目の前には蟻。足下には蟻。走れば足にまとわりつきく蟻に、足の裏には踏み潰されてひしゃげた蟻。

 腕に飛びかかってくる蟻もいれば、ヘルメットに張り付いてくる蟻もいる。

 それらを全て無視して向かうべきは目の前の世界樹タワー

 たどり着くまでは残り200メートル。

 こちらが蟻の海に飛び込み走り出してから十秒ほど。

 背後では、なんだか形容しがたい音が聞こえ始めている。

 振り向き見やれば、ブルドーザーも斯くやという勢いで疾走する甲虫の姿。

 道中にいた蟻は逸れこそ木っ葉のように飛び散っていて、なんだかいっそ、笑えるほどの怪物映画ぶりだ。

 たどり着くまで残り150メートル。


「ハッ――、――!」


 息は既に上がっている。

 呼吸は制御できないほどに早く、拍動はエネルギー変換を行うための酸素を求めて暴れ回っている。

 それでも決して走りは止めない。

 足は今までこんな動きをさせたことがないくらいの回転数。

 視線はまっすぐ――


「づ――、あぁ――――!」


 ――100メートル先の絶望を見つめている!


 世界樹タワーの根元、カナリアが目を付けていたのはそこに空いている真っ暗で巨大な一穴。

 この有象無象の蟻達が、忙しく出入りを繰り返している人間サイズの巣穴いりぐちだ。

 甲虫の突進をかわすためにはタワーで押さえ込むしかない。

 だが、タワーにぶつかるように誘導するには全周が余りにも大きすぎる。

 裏に回り込んで待ち構えるには自分の足は遅すぎる。

 ならば、と、カナリアは判断したのだ。

 蟻がこれだけ群がっているならば、どこかに巣穴への入り口があるだろうと。

 50メートル先、激しく揺れるケミカルライトの光に照らし出される形で果たしてそこに、巣穴はある。

 大量の蟻達が蠢いている一穴の奥は、ケミカルライトの光だって照らし出せない暗闇だ。

 いや、訂正しよう。暗闇ではない。

 暗闇に見えるほどに大量の蟻が、そこには壁を作ってるって――ただそれだけの話だ!


「――ハ」


 込み上げたのは苦笑に近い笑い声。

 巣穴に飛び込めば、当然のことながら雑食の蟻の中に飛び込む未来が待ち受ける。

 それは背後から迫る甲虫に食われるのとどれ程の違いがあるのかと、理性はずっと問いを投げている。

 取り返しの付かない、引き返しのようのないこの状況になってもなお、頭の冷静な部分は手足の端から蟻に啄まれる未来を拒み続けてる。

 それでも、自分が生き残りうる未来を考え抜いた末、カナリアである自分にはこれしか思い浮かばなかった。

 この森の中、行方不明の2人の若者を探しに来た顛末がこれとは本当に笑えない話ではあるけれど。

 今となっては自分が生き残ることでさえままならない有様で、未熟な二人組を全く以て笑えない始末だが。


「ハハ――」


 それら全部をひっくるめて、笑い飛ばしたいくらいに自分はまだ何もかも諦めていなかった。

 だから巣穴に飛び込む。

 生き残るために。

 甲虫から逃げ切るために。

 飛び込んだ後のことは、――蟻にでも聞いてくれ!


「ッ――!」


 巣穴への距離は10メートル。

 カナリアは右膝を曲げ、前傾姿勢になると眼前の暗闇巣穴を凝視して、その中央に――


「ナムサン――!」


 意味も分からない呪文と共に、渾身のヘッドスライディング。

 蟻達をはじき飛ばして自分は巣穴の奥へ吸い込まれる。

 背後、聞こえてくるのは耳障りなの潰れる無数の音。

 そして、走る衝撃は、甲虫をおさえた世界樹タワーの軋む炸裂音。

 地面をも揺らすその衝撃に吹き飛ばされて、カナリアは巣穴の奥へ、奥へと転がっていく。


 回転する体に視界。

 そのままに30秒ほどの滑走を経てカナリアはその場でうつ伏せに倒れ伏していた。

 遠く、甲虫のもたらした破壊の音は瓦礫の落ちる雨音と、それに潰される蟻の断末魔に切り替わりつつある。

 うつ伏せになって1分ほど。

 ようやく両腕に力を入れてカナリアは起き上がる。


「死ぬかと思った――」

「――え、死んでなかったの?」


 思わずといった呟きに、予想外に声がかかる。

 驚き、声の方を見ればそこには自分以上に重武装に身を包んだ人間の姿。

 フルフェイスのマスクに、宇宙服。背中には酸素タンクを積んで、手には化学発光の大型懐中電灯。


「てっきり、起き上がらないから死んだのかと思ったわ」


 マスク越しに見えるのは、数時間前、案内人ボン・ボヤージュに見せられた写真に瓜二つの女性の顔。

 そう。探し求めていた、行方不明な二人の若者。

 その片割れがここに居た。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る