大自然#6

 人間がいなくなって永らく。

 海の底のような静けさにあった廃墟に喧噪が戻っていた。

 一つは男の疾駆する足音。大地を蹴り出し、草木を蹴り飛ばし、枝も葉も蹴り込んで進む人間らしい力強さのもたらす喧噪。

 一つは虫の跳駆する怪音。森林を跳ね飛ばし、廃墟を跳ね上げ、ありとあらゆる障害を跳ね返して進む怪獣さながらの巨躯が生み出す破壊の喧噪。

 かつて、日常的にこの場所で行われていた営みの起こす音にしては余りにも物騒極まりないが、長い歴史の中、道路で日常的に騒音を鳴らさなかった存在がいなかったわけではない。

 それこそ、夜が訪れる度に道路の上で暴走を繰り返していた郎党のように。

 人間が生みだしていた華やかな生命の音が、この森林まちに再びもたらされたのだ。


「――ああくそ、想定外にも程がある!」


 凹凸の激しい足場を不明瞭な視界の中、必死に逃げ惑いながらカナリアは悲鳴を上げる。

 行方不明者を二人捜索して、説教をしながら帰るだけの予定が、どうして巨大生物なんかに追いかけ回されているのか。

 古めかしいモンスターパニック映画もかくやと入った光景に、再び失いかける現実感。

 脳みそが勝手にこれは現実じゃないと喚き立てているのを無視し続けるのは、思っている以上に精神を消耗する。

 いっそのこと、夢だと思い込めればどれだけ楽か。

 理性が選択する眠り現実逃避に誘われて気を失えば、それで終わり。

 こんなB級映画の真似事を切り上げて、自分はねぐらのベッドで目を覚ます――。


 ブィィィィィン――。


 だが、そんな妄想も、急に聞こえた羽音に振り向けばすぐさま生理的悪寒に蹴飛ばされて霧散した。

 巨大な甲虫は羽を広げて宙に浮かぶと、こちらに角を突きつけながら、お互いの距離を一瞬で飛翔する。


「――ッ!!」


 咄嗟に地面を蹴り出しカナリアは横っ飛びをかます。

 巨体故に失われた小回りは、羽虫カナリアの急な動きには付いていけない。

 間一髪、地面を転がりながら甲虫をかわしたカナリアは、勢いをそのままに、大樹ビルへと突っ込んで行く甲虫を目で追いかける。

 轟音の連なり。

 樹木の繊維が断ちきれる音に、コンクリートの崩れ落ちる破砕音が重なり響く。

 小回りはなくても、5メートルの砲弾からだが生み出す破壊力はそれだけで兵器に等しい。

 かすればビルを粉々にする力が柔らかな人体に放たれる。

 そうなれば、温かなベッドで目を覚ますどころか、この真っ暗な森で冷たくなるのを待つしかない。


「はっ――!」


 萎えかけた体に呼吸を一息。酸素燃料を取り込んで逃走を再開する。

 元はビル街だったこの場所に、建物は無数に乱立している。

 だが、樹皮が覆っているため人間が入り込むだけの余地を残しているものは少ない。

 あの巨体だからこそ、路地や建物に逃げ込めればこの逃走はそれで終わる。


「――、っ」


 だが、この暗闇ではそれも容易じゃない。

 そもそもケミカルライトだけしか光源がないというのに、走っているからそれだって定まらない。

 ヘルメットにつけられたライトは、顔の上下動に合わせて不安定に揺れ続けている。

 風景はまるで影絵で彩られたスライドショーのよう。

 いつか、資料映像で見た幻燈機のようだとカナリアは思った。

 不鮮明な映像が後方へ、後方へ。追いかけてくるのは怪獣じみた甲虫で、なるほどいくら理性を正したってこれを現実だと思えという方が難しい。

 ならばいっそ、映画の中に取り込まれた登場人物のつもりで逃げよう、と。

 開き直りに似た気持ちを新たに、目に付いた路地にカナリアは咄嗟に飛び込む。

 道幅は5メートルほど。おそらくは一車線ほどの幅しかない。建物と建物の間隙。

 甲虫の幅ならギリギリだろう。

 藁にもすがる気持ちで飛び込んだ路地は、しかし、淡い希望ごと甲虫の怪力によって砕かれる。


 メキメキと。


 破砕される両脇の大樹ビルが崩れ落ちる。

 逃げ出しながら考えるのは、どれほどの建物ならばあの怪獣モンスターを防ぎきれるか。

 単なる建物が木っ葉の役割すら果たさないのは自明の通り。

 足止めにもならないのであれば、建物に逃げ込むのも考え物だ。

 体当たりをされたら最後、生き埋めになるのが目に見えている。


「頑丈で、それでいて狭い道――!」


 だがそんな場所、この森のどこを探せばたどり着ける――!

 大樹ビルが崩されたのに合わせて、通り過ぎてきた道がメキメキと押しつぶされている。

 それを跳ね飛ばしながら突き進む甲虫のあんまりな理不尽しょくよくさに、カナリアは目も覆いたくなる心地でいた。


 この役職に就いている以上、カナリアが自然の前に人類が滅び去る未来を幻視しなかったことはない。

 当然だ。

 その役割は人間の生存圏がどれほど狭まっているかの監視なのだからして、畢竟、その住処は安全圏の中心からは一番かけ離れた位置になる。

 寝床は何時だって自然の隣で、異常成長した木々のさざめきに眠りを起こされた経験は1度や2度じゃすまされない。

 慣れない頃はそれこそ毎日。

 葉音が擦れる音に、自分が植物に飲み込まれて死ぬ未来悪夢を見てしまい、眠れない日が幾夜も続いた。

 人間は、強くなりすぎた自然にいつかは滅ぼされる。

 この地球という星は既に人の手を離れて等しい。

 このの有様を見てみるがいい。

 あれほど所狭しと住んでいた人類は、今や誰一人として残っちゃいない。

 あるのは溢れるほどの木々と、環境に適応できた虫たちだけ。

 自分はこの星の住民などではなく、今や異物に過ぎないのだ。


 だが、だからといって甲虫に轢き殺されるのは違うだろうと、カナリアの心の中で必死に今を否定していた

 自然に淘汰されるのは確かに人類の未来かも知れないが、それはたぶん、もっと穏やかな結末だ。

 まかり間違っても、虫に食い殺されるようなグロテスク極まる死に方エンディングなんかじゃない。


「はっ――、くっ――」


 既に心臓は張り裂けんばかりに限界まで拍動している。

 足はこの暗闇でもつれていないのが奇跡だし、不明瞭な視界の中で、行き止まりを選んでいないだけでも幸運だ。

 こんな状況はいつまでも続かない。続けられない。

 まるで切れかけた糸の上を目隠しで走っているような頼りない現状。まるで不慣れなピエロのようだ。

 だけど、だからといって、人である限り、今みたいな終わりを認めるわけにはいかないのだ、と。

 カナリアは、安全性の保証など微塵もない、破れかぶれの曲芸サーカスを続ける覚悟を決めた。

 

 

 

 

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