大自然#3

 フルフェイスのマスクの中、聞こえるのは自分のくぐもった呼吸音だけ。

 かつては4車線の道路だった道を行く。

 アスファルトはその跡形も無く、地面には至るところを植物の根が這い回っている。

 それによって出来た凹凸の合間に腐葉土が堆積し、そこに植物の種が芽吹き、新たな根と幹と葉を生やす。

 そのくり返し。循環する生命によって形成される新たな地面。

 いま、俺が踏みしめているのは植物の地層だ。

 見上げれば頭上より遙かに高く木々は伸びている。

 高さにして30メートルはあるだろうか。道の両脇にあった10階建て程度の高層建築は、その全てが植物の幹の一部となっている。

 木々の種類は様々で、針葉樹から広葉樹に至るまでバラエティ豊かに取りそろえてある。

 植物が強くなりすぎた結果、育つ環境を選ばなくなったのだ。

 まるで、人種という垣根が無くなるほどに混雑したかつての大国のようだ。

 今では人よりも、植物の方が星を意のままに行き来しているというだけの話で、なるほど、視点を変えたら人間と植物をそっくりそのまま入れ替えたに過ぎないのかも知れない。

 ならば、高層建築を飲み込んだ大樹というのも、彼らにとっての都市に等しい。


 ――自分は、植物が造り出した新たな都市の胎内なかを行く。


 フルフェイスのマスクの真ん中。丁度額の辺りから弱々しい緑色の光が伸びて周囲を照らしている。

 化学反応によって光を放つケミカルライトだ。カートリッジ一つ当たりの耐久時間は十時間も保たない。

 光源に乏しい植物の都市まちの中では、この光だけが唯一の頼りに他ならない。


「歩き始めて10分か」


 HUDヘッドアップディスプレイとなっているマスクのスクリーンには森に突入してからの経過時間が正確に刻まれている。

 他に表示されているのは各種アンテナによって観測される外気の状況。


 経過時刻:00:10:11:12

 気温:-1.2度

 酸素濃度:88%


「中心からこれだけ離れているのに、この濃さか」


 酸素濃度の高さにカナリアという職業柄から、必然的な愚痴が漏れる。

 いずれ、この星を花が覆う日。

 この星の大気組成は人どころか、植物以外の生存を一切許さない世界となる。

 示された酸素濃度の数値は、遠からず、そんな未来が訪れることを否が応でも俺自身へと突きつけるものだった。


 ――酸素というのは、元来、生物にとって猛毒である。


 強力な酸化能力を持ったこの気体は、あらゆる生物の劣化を引き起こす元凶だ。

 本来ならば敬遠されるべきこの気体を、生物は、しかし、進化の過程でエネルギーとする術を得た。

 それが呼吸である。

 細胞中をめぐり、グルコースからエネルギーを取り出すというメカニズムは、おおよそ地球上に溢れかえった生物における呼吸の基本原則である。

 炭水化物から反応によってエネルギーを取り出すことにより、おおよその生物は活動するための力を得ている。

 その最たる例が人間だった。

 人間は活動するために呼吸をする。

 食事によって蓄えられた炭水化物に含まれたグルコースを酸素と反応させ、エネルギーとし、その巨大な脳を働かせ、手や足を素早く動かす力となる。

 科学と化学。人間の知識が深まるにつれて、この肉体の内側で行われる反応は常識となり、人々の間に普遍的な知識として蓄えられるに至った。


 酸素とは力だ。

 呼吸とは力を取り入れる行動に他ならない。


 二酸化炭素の増加による地球の温暖化が、酸素の重要性をより一層、人々の脳裏に植え付けた。

 21世紀の始まりから続いた地球の異常気象が、人々の不安を煽り、酸素を増やさなければと言う意識を駆り立てていった。 

 結果として、人類は地球から二酸化炭素を減らし、酸素を増やそうという決定をする。

 地球の未来のため。

 人類がより永く繁栄するため。


「結果が、ご覧のありさまだけどな」


 今は完全に無人となったビル群を見上げながら一人、ごちる。

 永く繁栄しようと願った過去から数世紀。

 今、この街を歩いている人類は自分一人だけしかいない。


「いや、少し前にもう二人ほどいたかも知れないんだったか」


 かつてに比べると余りにも寂しい結末に、当時の人々へこの事実を伝えたらどのような答えが返るだろうと少しだけ想像した。


 悲しむだろうか、怒るだろうか。

 どうしてくれたのだと、叫ぶだろうか。

 どうしてしまったのだと、嘆くだろうか。

 どちらにしろ、詮無い想像で、妄想だ。


「単純な話、秩序バランスが大切だったんだけどな」


 人間が、後に大気を占めるあらゆる大気の割合と気圧こそが大切だという当たり前のことを思い出したとき。

 人々は、呼吸する度に酸素によって体を毒されるようになっていた。

 失われた秩序バランスを取り戻そうとした結果、生み出されたのは新しい、植物のための秩序カタストロフだったとは、なんとも笑えない結果である。


「まぁ、それも当然か。せめて火やライトでも使えればましなんだけどな」


 薄暗い視界に嫌気が差しながら、牛歩のような歩みを森の中で繰り返す。

 濃すぎる酸素は人間が火を使うことを極端に難しくしてしまった。

 生存領域ならばまだしも、ここは森の中。酸素がそこら中に満ちた機雷原キリングゾーンである。

 マッチ一つでも擦ろうものなら、果たして、どれ程の燃焼が発生するか。

 懐中電灯どころか、電動で動くバッテリーの扱いにまで細心の注意を払う必要がある。

 神話の世界に置いて、火とは人間の文明を表すとされる。

 文明を奪われた人類が衰退するのはむべなるかな、当然のこと。

 なるべくして、人類は今の状況に陥ったのだ。


「ただ――」


 ――それでも、人はこの星で生きている。


 なら、歩みを止める必要もなかろうと、俺はかつてのまちの中を行く。

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