大自然#2

 ――古来より、人にとって森というのは人の世界ではない。


 境界論という考え方がある。

 例えば家という構造物はどこからが家の中と言えるのか。

 ドアもなく、窓もなく。

 屋根と、壁と、出入り口だけが存在する建造物があるとした場合、内と外を隔てるものはなにか。

 境界論の考えでいうと、それは敷居。あるいは框と呼ばれる横木がそれに当たることになる。

 たった一本の横木をまたぐことで、人は外から家という構造物へ空間を移動したことになる。

 これは何も家の話に限らず、神社の設計における空間演出の考えや、仏教における結界の概念などに繋がっていく話なのだが、その辺りは割愛する。

 ここでいう境界とは人の世界と、人以外の世界を隔てる敷居の話。

 俺の目の前には今、鬱蒼とした森が広がっている。

 太陽の光が真っ赤に染まり、地平線の向こう側へ消えようとしている今、木々に遮られた向こう側は一切なにもみえない暗闇に等しい。

 街へと通じる道から外れて5分ほど歩いた地点が、ただ今の現在地。


 ここから一歩を踏み出せば、境界論でいう所の神の世界に踏み入ることになる。


『――どうだい、カナリアくん。行けそう?』

「無理だと伝えても、行くしかないんだろう」


 通信機越しに聞こえたウィルヘルムの声に悪態をつく。

 背中には救助用の物資を詰め込んだ重装備のバックを背負い込み、体は宇宙服に似た銀色の光沢を放つジャケットと、分厚く頑丈な軍用ズボン。

 頭にはフルフェイスのヘルメットを装着しており、ウィルヘルムの声が聞こえた通信機もヘルメットの耳の部分に仕込まれたものだ。


『うん、そうだね。森に迷い込んだよう救助者を助け出すのは数少ない君の仕事だ。投げ出してもらうわけには行かない』


 深いため息をつき、一瞬、ヘルメット内が真っ白に曇る。


『じゃあ、要救助者について説明しよう』


 ウィルヘルムの言う所によると、要救助者の数は二名。

 いずれも、宇宙からの観光客とのことだった。

 どちらもティーンエイジャーの男女で身分は学生。

 休暇を利用しての社会見学が主な目的で、自分達の人類という種のルーツである地球を体験しようという学生らしい向学意識からこの星に降り立ったらしい。

 しかし、若者達は事前に申請された滞在日数の期限日に果たして宇宙港に現れなかった。

 怪訝に思った航空局の人間が街で話を聞いたところ、二人は二日前に自然を見たいと口にして森の場所を聞いて回っていたという。


「安全な場所しか教えてないよ」


 と航空局の調査員に答えたのは、よりにもよって街の住人ではなく二人と同じ観光客。

 2週間ほど前に観光ガイド付きで森を探索してきた彼は、僅か1時間ばかりの経験から森のエキスパートになった気分でいたらしい。

 結果、今より一日前の朝に宿泊施設を出発したのをホテルマンが確認したのが年若い男女、二人組に関する目撃例の最後。

 その後の足取りはぱったりとこれ以上ないほど分かりやすく途切れている。


『――で、いまカナリアくんが立っている場所が件の森の狩人エキスパートが証言した「安全な場所」だってさ。笑えるだろう?』


 今度はため息を吐く気力も起きず、膝に手をつきたい脱力感を堪えるのに必死だった。


「ここが安全な場所、か」


 目の前に広がる鬱蒼とした森。見れば確かに道のようなものの痕跡があり、遥か昔には車が4台ほど通れるスペースが舗装されていた痕跡もある。

 だがそれも、森が広がる前の話。この場所が安全だったのは今から数世紀も前の話だ。

 現在の基準でいうと、この先は熟練者であれ足を踏み入れるのを躊躇する難所、というのが正しい認識である。

 木々に遮られてほとんどの光は届かず、繁茂する葉のせいで空が見えないため現在位置を確認する術が乏しい。

 コンパスや衛星情報に頼りたいところだが、前者は磁気異常が頻繁に発生するためあてに出来ず、後者は磁場を避けて位置情報を正確に送信する手段が乏しく現実的ではない。

 結果として頼れるのは人間性能だけという、安全とは真逆に位置するのがこの地点、この森である。


「日が暮れてきたな」

『時刻は午後6時。ちょうど寒くなってくる頃合いだ、森の中だと一層厳しいかもね』

「いっそ、気絶していてくれた方が楽なんだが」

『それはそれで、低体温で死んでしまうよ』


 ウィルヘルムの言うとおりである。


『しかし、鳥なのに森に入るのが嫌だなんて、なかなかに面白い状況だと思わないかい?』

「生憎と、カナリアは愛玩用だ。自然とおさらばして長いんだよ」


 なので、本来は森になど入りたくない。カナリアとは名ばかりの、人間ならばなおのことだ。

 それでも、人命救助がかかっている以上、残された時間も僅かであれば、躊躇している余裕なんてどこにも残されていない。

 ため息交じりに装備品を一式確認すると、俺は森へと一歩を踏み出す。

 人の世界から、神の世界へ。

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