第一章

カナリア

 その日は、久々に監視所を離れて街へ出かけた。

 前に街へ買い出しに出たのは一月以上も前になるから、消費した日常雑貨の補給が主な目的だ。

 まだ陽の昇りきっていない時間。濃厚な朝靄あさもやが静かに散り始める頃合い。静かに、窓を開ける音や、朝食を作る忙しなさが街を目覚めさせていく。

 日常の穏やかな始まり。

 俺は、この感触が大好きだった。

 わざわざ未明の時間に家を出たのもこの空気と、静かな喧噪を味わうためだ。

 俺にはないもの。俺には馴染めなかったがここにある。

 やがて、街に活気が溢れ、いよいよ本格的に目覚め始めたところで俺は目当ての店へと足を運んだ。

 雑貨店アムリタ。

 店舗はこじんまりとした一軒家を改装したもので、大きな扉とショーウィンドウ。そして一回の半分ほどを占める棚と、中程にあるカウンター。

 家の二階が店主の居住スペースとなっており、カウンターの奥からは商品の在庫が収められた倉庫へと続いている。


「らっしゃい。今日辺り来ると思ってたよ」


 ベルと共に扉をくぐれば、カイゼル髭を生やした店主が出迎えてくれる。

 上下にプレス機を掛けられたようなしわくちゃな顔で、髭だけがふざけた愛嬌を主張している人物だ。


「いつも通りの品を。ただ、コーヒーはこの前のとは違う銘柄が良い」


 棚に収められた代わり映えのしない商品。いつのものかも知れない缶詰や電機部品。何に使うのかも分からないガラクタの山が棚の下のコンテナに収められている。


「なんだ、あのコーヒーがあわなかったのか。結構良いものなんだぞ? ちゃんと焙煎や温度に気を使っているか?」

「俺には酸っぱすぎる。この際、味は薄くても良いが匂いだけはしっかりしたものがいい。コーヒーなんてのは大半が匂いで決まるんだろう」


 やれやれ、と首を振りながら店主は倉庫スペースへと引っ込んでいった。

 俺はそれを憮然と見送る。コーヒーなんて嗜好品なんだから、自分の楽しめるものを、楽しめる形で飲めばいいと言うのが俺の自論だ。

 やれ焙煎だ、抽出だとどれ程の手間暇を掛けられるかなんて、熱意の有り余った人間のすること。

 かかった時間の分だけ楽しみが減っていく人間にとっては、インスタントな味わいが費用対効果的に最大に美味しいと言えるのだ。


「まったく。このご時世にコーヒーを飲めるだけでも贅沢なんだぞ。

 その中でも厳選されたものをわざわざ仕入れてやったってのに。

 ――ほら、リストだ。足りないもんがあったら他に言え。あるもんは売ってやる」


 カウンターに置かれた細長いリストを受け取るとさっと目を通す。

 書かれているのは食料品を始めとした数品目に、下着を始めとする衣服に、酒、煙草といった嗜好品。コーヒーの項目には乱雑に書き直された跡がある。


「酒はこの前のが飲み切れてないから半分でいい。

 代わりに菓子を増やしてくれ」

「なんだ、甘党に主旨替えか?」

「監視所は高台だから冷えるんだよ。酒は温まるが、酔った跡が地獄だ。

 カナリヤが凍えてました、なんて笑い話にもならんだろ」


 違いない、と店主は笑いながらリストの項目を書き換えている。

 ペンを持った店主の右腕には大ぶりな時計が一つ。

 古いアナログ時計式だが、分厚く、側面には端末と接続する端子が覗いている。


 チクタク。ちくたく――


 時刻は10時過ぎを表していた。


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