第9話 天才贋作師の完全なる手法

 自分以外は誰もいなくなってしまったアトリエは、ひどく、がらんとしていて、先ほどまでの騒ぎが嘘のようだった。窓の下に置いてある肖像画の中の少女“アンナ”のはにかんだような微笑だけがやけに、眩しく見える。キースはその肖像画に向かって、心の底から感謝を込めて、


「ありがとう。さっき、ガラスを割って、俺を助けてくれたのは“アンナ”ったんだろ」


 肖像画の少女は何も語らなかったが、あれは、どう考えてみても、幽霊のアンナがお得意の”ポルターガイスト”だ。


 あのエクソシストの神父がいたら、涙を流して喜びそうなもんだがと、キースは苦い笑いを浮かべたが、同時にこうも思った。


 イヴァン・クロウは、突然割れたガラスにも、少しも驚かずに平然としてやがった。あいつ、やっぱり普通と違う。

 っていうか、”連続切り裂き殺人犯”ってこと自体が、もう普通じゃないのか……。


 でも、怖い気持ちはたっぷりとあるが、なぜだか、イヴァンの事が嫌いになれなかった。

 後悔とは少し違った、”諦めてるのに期待を捨てきれない” みたいな妙な感情が胸に湧き上がってくる。


 やっぱり用心棒になってくれなんて依頼するんじゃなかったかも。それに、もし、そうなったとしても、あんな危険な奴を俺が上手く扱えるわけないんだろうし。


 まったく、前途多難って言葉がぴったりな今の状況。けれども、取り合えず今日のところは、


「殺されなくて良かったあ……」


 と、キースは安堵の息を吐いたのだった。


* *


 その翌日、

 聖堂美術館に、昨日の騒ぎで持ち帰れなかった資料を取りに行った道すがら、昔、根城にしていた露店近くのカフェで、キースは、昔なじみのマスターと話をしていた。

 聖堂美術館に続く大通りの両端に、点々と出された露店と露店の間にあるカフェ。といっても、狭くて古くて、今にも壁紙がはがれおちそうなこの店には、馴染み客以外は好んで入る客などいなかった。だから、ここは、豪華な学園の雰囲気にどうしても馴染めない彼にとっての安全地帯みたいなものだったのだ。


 足元でパンをほおばっているパトラッシュの頭をなぜながら、昔馴染みのマスターは、キースが空の席に積み上げた資料の束に目をやって笑う。


「随分と大量の資料を借りてきたもんだな。でも、その疲れた顔! お前、あの名門校の中で、けっこう神経使ってんじゃないのか」

「……まぁね」

「おぃ、おぃ、ここじゃ、隠し事はなしだぜ。悩みがあるなら、全部、言っちまえよ」


 キースは、一旦、口を噤んだ。けれども、いくら気のおけない仲間でも、今は真実をすべて話すわけにはゆかない。

 その時、店のすぐ横に続く街路樹の向こうから耳障りなしゃがれ声が聞こえてきたのだ。


 “父と子と聖霊の名において、父なる神へ信仰の告白をせよ!

 心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、神である主を愛せよ!“


 聞き覚えのある声に、うんざりと眉をしかめて、キースは窓の外に目をやった。案の定、懲りもせずに、昨日、会ったばかりの神父が、寄付金の箱を手にして町を練り歩いている。背中には『悪魔祓い、いつでも承ります』なんて、おかしな看板までつけて。


「あの野郎、また、エクソシストなんて胡散臭いことをやってやがる。昨日、イヴァンに散々な目に合わされたっていうのに」

「あの神父もこの界隈では有名人だけどなぁ、あいつの説教って、同じフレーズしか聞いた事がねぇな」

 昔馴染みのマスターは、そう笑った後で、

「それより、キース、お前も知ってるだろうが、今の巷の話題は、連続切り裂き魔のことで持ちきりだ。咽喉を切り裂いてくる殺人鬼。ここのところ、ロンドンの街は大変な騒ぎだぜ。切り裂きジャックの再来かってね」


 そいつの事なら、よぅく知ってるよと、思わず口から出そうになり、キースは言葉をぐっと飲み込んだ。何てったって、自分は昨夜、そいつに咽喉を切り裂かれそうになったんだから。


「その切り裂きジャックって、ゼファー1100に乗ってるんじゃないか」

「ゼファー? カワサキのバイクか? キース、お前、もしかして、そいつを見たのか」

 仲間の男は、興味津々の目をして、にやりと笑った。


「そりゃ、すげえ。大型バイクに乗った切り裂き魔って、それって、ヤバイんじゃないのか。ロンドン中のイカレた若者がこぞって、真似したがるかもな」


* *


 シティ・アカデミアへの帰り道、キースは足元の相棒に言う。


「なあ、お前ってイヴァンにけっこう懐いていたけど、あいつが怖くなかったのか」


 けれども、パトラッシュは、ただ嬉しそうに尾を振って、彼についてくるだけなのだ。

 それにしても……と、キースは思った。


 あの絵に入り込んでしまったという少年は、どう見ても贋作の絵の中の女に魅せられてるって、イヴァンも言ってた。そんな理由で彼がこちらの世界に帰ってこないのだとしたら、やっぱり、どうにかして、外に出してやらないと。


 手に持ったフェルメールの図版を眺める青年画家。その足元に歩く相棒の”何を考えているの? ”的な瞳を見据えて彼は尋ねる。


「なぁ、パトラッシュ、俺って画家としての才能があるんだろうか」


 くわんと鳴いて頷くパトラッシュ。


「でも、それって、贋作を描くためのもんじゃないよな」


 じっと見つめ合う一人と一匹。


「でも、今はそんなこと言ってる場合じゃないのか」


 分かっているけど、やはり釈然としない思いは心に残る。

 そうこうしているうちに、彼らはピータバロ・シティ・アカデミアの正門に辿り着いた。そして、正門を入ったところで、教室を移動中のミルドレッドと出くわしたのだ。


「キース! パトラッシュ!」


 元気な声で彼らの名を呼ぶ黒い瞳の小学生に、キースは少しばかり心が軽くなった。


 小生意気な口ばかり聞くし、俺をこの学園に引き込んだのはこの娘なんだけど、こいつの顔を見ると、難しい事でも何とかしなきゃって気分になってくる。


「ねぇ、聞いてよ! 私、昨日ね、ロンドンのナショナル・ギャラリーに行ってたのよ!」

「ナショナル・ギャラリー?」

「でね、そこで、私……」


 その言葉は、うんざりとした、キースの声にかき消されてしまった。


「ああ、次の絵を盗むための下見に行ってきだんだろ。そういや、レイチェルに指示されてる、すり替え用の贋作ってまだ仕上げてねぇや」


「そうじゃなくって、私はねっ」


 ミルドレッドは、どうしても、自分が見てきた“ヴァージナルの前に座る婦人”のオリジナルの話を彼にしたかったのだ。だが、そんなことに露も気づかず、


「会えて、ちょうど良かった。ちょっと、聞きたいんだけど、お前のセレブな友人たちの中に宝石商の子どもっている?」


「宝石商? そりゃ、いるにはいるけど、それがどうしたっていうのよ」


 唐突な彼の質問に怪訝な表情をしたミルドレッド。すると、


「なら、その宝石商の子の親に頼んで、ラピス・ラズリをカスでいいから、できるだけ集めてきてくれないか。お金は俺の契約金から出すから。あ、それと、顔料とか布とか道具とか、色々と他に必要な物があるんだ。だから、俺の指示通りに集めてくれる? それも、なるべく早く」


 すると、ミルドレッドは、彼が資料と一緒に抱えた四角い荷物を見やり、その中を覗き込みに来た。


「やっぱり思った通りだ。これって、聖堂美術館で展示されずに、倉庫にしまってあった古い絵でしょ。時代は17世紀あたりの。それに、宝石のラピス・ラズリを集めるってことはやっぱり、キースは、あのフェルメールの贋作をどうにかしてやろうって思ってるのね」


「へぇ、やっぱり分かった? さすがは、”歩く美術薀蓄”のミリーだな。あの少年が入り込んでる贋作と、ちょっと勝負してやろうと思ってね」


 ミルドレッドは漆黒の瞳を輝かせた。


「わぁ、その話、私も乗らせてよ!」


 けれども、好奇心満々で瞳を輝かすミルドレッドを手で制すと、キースは軽く笑みを浮かべて首を横に振った。


「悪いけど、これは俺一人でやりたい仕事なんだ。ミリーは、頼んだ品物を早く集めて。俺はアトリエにいるから」


 そして、少女をそこに残したまま、パトラッシュを伴って、アトリエの方へ歩いて行ってしまうのだった。


* *

 ”ヴァージナルの前に座る婦人”


 それは、1675年頃に描かれた現存するフェルメールの最後の作品と言われている油絵だ。


 鍵盤にそっと手をかけた若い婦人のたおやかなポーズと、鑑賞者の方向に向けられた蠱惑的な眼差し。画面の左下から差す柔らかな光は、青のドレスの襞を波のように画面に浮かび上がらせている。


 この”フェルメール・ブルー”とも呼ばれる、高貴な輝きをもつ青の正体は、宝石のラピス・ラズリを砕いて作られた顔料の”ウルトラマリンブルー”であり「星のきらめく天空の破片」とまで称されるラピス・ラズリを、当時は大変な高値だったにもかからわず、フェルメールは惜しみなく、一枚の絵画を描きあげるのに使っていたという。

 

 シティ・アカデミアのアトリエのイーゼルの前に立ち、キースは、その上に置かれた真作と見紛うほどに良く描かれた ― 贋作 ― をじっと見つめていた。ただ、そこに描かれた婦人の後ろには、追慕の瞳で彼女を見る少年の姿があったのだけれど。

 

 この”贋作”よりも優れた……いや、今、ロンドンのナショナルギャラリーが所蔵している、本物の”ヴァージナルの前に座る婦人”とまるで変わらない“贋作”をつくるには、一体、どうしたらいいんだろう?


 キースの脳裏に、かつて、フェルメールの贋作を何点もこの世に真作として認めさせた、オランダの画家で天才贋作師、ハン・ファン・メーヘレンの名前が浮かび上がってくる。


「なぁ、パトラッシュ」


 キースは、彼の横にちょこんと座って一緒に絵を眺めている相棒の中型犬に、半ば、独り言のように言った。


「メーヘレンって画家は、自分のオリジナルの作品をフェルメールの手法で描きあげて、それを真作として、ナチス・ドイツの高官に売りさばいちまうくらいに凄腕の贋作師だったんだ」


 小首を傾げる、パトラッシュ。すると、 


「……別に俺は、そんな贋作師に憧れてるわけでも何でもないし、あの絵の中の少年を外に出してやりたいだけなんだけど、描くと決めた限りは頂点を極めたいっていうのが、画家の心意気ってもんだよな」


 それきり口を噤むと、キースは、先ほど、シティ・アカデミアの正門で、ミルドレッドに覗かれた四角い荷物を手に取り、その包み紙をばりばりと破り始めたのだ。

 彼女が指摘したように、それは、17世紀頃に描かれた無名画家の油絵だった。 キースは、その油絵の表面の絵の具を、パレットナイフでごしごしと削り落としだした。

 ふぅと吐息を吐くと、そのキャンバスの汚れを丁寧に下に落とし、


「この絵を描いた画家には申し訳ないけど、これで、17世紀風のキャンバスができあがるってわけだ」


 フェルメールの作品の贋作を数多く、手がけた天才贋作師ハン・ファン・メーヘレンがとった完璧な手法。

 それに、俺は自分なりの手を加えて、このアトリエで、完璧な“ヴァージナルの前に座る婦人”の贋作を描きあげてやるんだ!


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