第8話 連続殺人犯の常識
廊下に出たキースは、相も変わらず豪華すぎるシティ・アカデミアの内装に眉をしかめた。レイチェルたちを出し抜いて、ここを手に入れることができたら、真っ先に廊下を普通の床張りに換えてやるんだ。なんて事を考えながら、アトリエに向かうと、廊下の向こうに黒い礼服を着た神父の姿が見えてきた。
ちぇっ、また、怪しげなエクソシストのご来校かよ。あいつが、グレン男爵にいらぬことを言うから、俺がおかしなことに巻き込まれるんじゃないか。
変に関わるとうっとうしいんで、知らぬ顔でアトリエに入ろうとする。だが、そんなキースの前に、神父が立ちふさがってきたのだ。
「何だよ」
「お前のアトリエから何やら不穏な空気が流れ出しているんだ。放っておくと、よくない事が起こるぞ。だから、わしをこの中に入れろ!」
その傲慢な口調にむっとすると同時に、キースの頭の中に、昨晩、ミルドレッドの体を使って現れたアンナの幽霊の姿が浮かび上がってきた。この神父はインチキ臭い奴だが、確かに霊感はもっている。アトリエには、アンナの肖像画だって置いてある。まずいぞ、こいつはあの娘の天敵みたいなもんだから。
「駄目、駄目っ! これから俺は仕事なのっ。誰も中に入れるわけにはゆかない」
だが、そんなキースを押しのけて、エクソシストの神父はアトリエの中に、づかづかと入り込んでしまったのだ。
すると……
「お前、誰だ……こんな所で何してるっ!」
アトリエの窓の横に立てかけてあった、”ヴァージナルの前に座る婦人”の絵の前に、黒いジャケットを羽織った長身の男が立っていた。振り返った彼の赤みかかった瞳を、窓の外から差し込んでくる西日が、冷ややかに煌かせている。
イヴァン・クロウ……?
こいつって、医務室を出て、とっくに帰っていったと思っていたのに。
幸い、アンナの肖像画の方は、パトラッシュがどかんとその前に座り込んで見えなくしてくれていたが、食い入るようにイヴァンを見つめているエクソシストの神父に、キースの心臓はどきどきと高鳴った。クセモノ同志の二人が顔を合わせるなんて、絶対に悪いことが起きるに決まってる。
「お、俺の知り合いっ。この絵が見たいって言うもんだから、ここに通したんだ……で、もういい? もう満足した?」
それなのに、イヴァンは、
「おかしな話もあったものだな。この少年……どう見ても、この絵の中の女に魅せられてる」
何でこの男に、そんなことが分るんだ……と、キースは眉をしかめる。おまけに、神父が首をひねって、彼の言葉を頭の中で反芻している。ヤバイ、ややこしい奴に、ただでさえ複雑な話をもっと、ややこしくされるのはご免だ。
青年画家の内心を知ってか知らでか、キャンバスの前の男はくすりと笑うと、
「用はもう終わったんで、俺はもう帰るよ。聖堂美術館の前にバイクを止めっ放しにしてきてしまった。交通監視官に取り締まられると色々と面倒だから」
……が、足元にいたパトラッシュの頭を一撫でしながら、出口の方へ歩き出そうとした、イヴァンの腕を神父はぐいと掴み、
「待て! お前から妙なオーラを感じるぞ。ちょっと、私の教会に来ないか。もし、おかしなモノに取りつかれてるようなら、格安で除霊してやるが」
「……町のエクソシストふぜいが、俺に気安く触るな」
「まあ、まあ、悪い事は言わない。診断だけでも受けてゆかないか。時間は取らせない。忙しいなら簡単に済ませるし」
彼の腕に再び手を掛けた神父は、いい客を見つけたとばかりに手を離そうとしない。そのしつこい口調は、傍で聞いていても気分が悪くなりそうなものだった。
「おぃ、もういい加減に止めろよ。そいつだって、嫌がってるじゃな……」
ところが、たまりかねたキースが、その台詞を言い終わらないうちに、
「触るなと言ったのが、聞こえなかったのか!」
突然、イヴァンが、ブーツに装着してあったナイフを引き抜き、神父の下あごに突きつけたのだ。
「ひぃぃっ……!!」
氷の刃みたいに冷たく光るハンティングナイフが、神父の咽喉を狙っている。
わおん!
と、アトリエにいたパトラッシュが、床を勢いよく蹴り上げたのはその時だった。
殺人犯の振るったナイフの刃が、神父の首筋に食い込もうとした寸前に、彼の体を壁の方へ押し倒した中型犬。
「いいぞ、パトラッシュ! そのまま、その男を抑えとけっ!」
中型犬といっても、相棒の懐具合が以前より改善されたせいで、彼は少々肥満ぎみだ。その体重まかせに、イヴァンの上に馬乗りになったパトラッシュの上に、さらにキースが覆いかぶさる。
ほうほうの体で、ナイフの刃から逃げ出した神父は、腰が抜けたように床を這ってアトリエの戸口の方へ逃げていった。そんなエクソシストに向かって、キースは、
「とっとと、ここから出てゆけ! けど、ここでの事は他言は無用だぞ! そんな事をしたら、今度は間違いなく、お前は、この男に命を取られるぞ!」
……が、息を継いだのもつかの間、
「あの……止めてくれよ」
今度は、自分の咽喉もとにあてがわれた冷たいナイフの感触に、全身から血の気が遠のいてゆくような気がした。
「なぜ、止めなきゃならないんだ。お前は俺の邪魔をした。今の俺には止める理由はどこにも見当たらないが」
「だ、だって、人の咽喉を切っちゃ、や、やっぱり駄目だろうっ」
「俺にとっては、それが日常だが」
あああ……やっぱり、”連続殺人犯の常識”は、一般人とは違うんだ~。
床に倒れながらも、彼の背中側から今にもナイフを突き立ててきそうなイヴァンの台詞に、キースは頭が大混乱する。頼みのパトラッシュといえば、あまりに接近しすぎている殺人犯 → ナイフ → 相棒の距離に、手がだせぬ状態になっている。
背中越しにイヴァンの殺気を滅茶苦茶に感じる。ヤバイ、ヤバイ、ヤバイっ! 何とかしなくっちゃ、このままじゃ咽喉を切り裂かれる。
その時、キースの頭の中に、今朝、聖堂美術館の中で、この男が見ていた一枚の肖像画が浮かび上がってきたのだ。
「ま、待ってくれ。あんたはあの”聖ミカエルの肖像画”が欲しいんだろ。それも、きちんとした正規のルートで。お、俺だったら、それを可能にできるかもしれない」
一瞬、連続殺人犯はナイフの柄を握る力を弱めた。
「……」
「だから、俺と契約しよう」
その時に言ってしまった台詞を、キースは、何で言ってしまったか、自分でも理解ができなかった。けれども、言ってしまったものは、もうどうしようもないじゃないか。
「契約?」
「俺は将来、いや、もうすぐ、この学園と聖堂美術館の経営権を手にいれる男だ。そうなったら、あの”聖ミカエルの肖像画”だって、自由に取引する権利を得ることになる。でも、そのためには、ここの学園を取り仕切ってる、あのレイチェルって強欲で凄腕の女を出し抜かなきゃならないんだ。でも、お前も見た通り、この学園にはチャイニーズ・マフィアとか変なエクソシストとか、また、生徒たちの金持ちの親にだって、グレン男爵並のおかしな輩が沢山いる。俺は、学園の生徒と自分を守りながら、これから、そいつらと戦わなくちゃいけないんだよ」
「……で、それが俺と何の関係があるんだ」
「それは、これから話すから、とりあえず、そのナイフを下に下ろしてくれないか」
意外に素直にナイフを下ろしたイヴァンを見据えて、“危ない事は駄目だよ!”とばかりに、彼らの間にパトラッシュが割り込んでくる。
キースは、その背中越しに、
「見ての通り、俺は力にはちっとも自信がないんだ。お前、かなり修羅場を潜り抜けてる感じだし……東洋マフィア相手にも、全然動じないし……で、簡単にいえば、俺との契約っていうのは、その……俺たちを守る……用心棒になってくれないか」
「用心棒! この俺が!」
その瞬間、イヴァンは堰が切れたように笑い出した。
「……で、お前がこの学園を手に入れた暁には、その代価にあの“聖ミカエルの肖像画”俺にをくれるっていうのか」
キースは頷き、
「ただし、条件がある」
「条件?」
「人を殺すな」
「あの凶悪なチャイニーズ・マフィアを相手に、殺さずに守れとは、随分と難しいことを言うんだな」
「……なら、あの肖像画は絶対にお前には渡さない」
「強引に奪い取るって手もあるんだぜ」
「お前は、そんな事はやらない。だって、お前があの絵を見る眼の直向さ……他の事は別にしても、あんな眼をした奴が、汚い方法で、あの絵を奪ってゆくなんて俺には考えられない」
それに、あの”聖ミカエルの肖像画”を後ろにすると、この男は聖者にかしづく使徒みたいに微笑むんだ。本当に、殺人犯だなんて思えないくらいに優しげに。
「……まぁ、勝手にそう思うのは自由だが、例えば、お前とその契約したとして、こちらの命が危なくなった場合はどうなんだ? そんな時でも、殺しはご法度ってことなのか」
「……うーんと、それは、その時で……その状況に応じて……えーと、どうしようかぁ」
口元でぶつぶつと迷っているキースに目をやり、イヴァンは可笑しくてたまらないといった表情をした。その後、ゆっくりと立ち上がり、手にしたナイフの切っ先をもう一度、彼に向ける。
ぴしりと、アトリエの窓に突然、亀裂が入り、割れたガラスの欠片がイヴァンの頬向けて飛んで来たのはその瞬間だった。
「……!」
寸でのところで、それを避けた彼の鋭い視線が、アトリエの窓の下を睨めつける。……が、その場所に置いてあった、少女の肖像画を見据えると、
「まったく、おかしな者にばかり好かれる奴なんだな」
気が萎えたように、ナイフをブーツに装着した鞘に収めた。
「じゃあな、俺はもう帰るから」
キースは、
「待てよ! 契約の話は?」
けれども、イヴァンは、無言のまま扉を開き、外に出て行ってしまった。
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