遁走
「あ……あ……」
シャナンは震えて声が出ない。折角逃げ出したのに、またこの“バケモノ”と対峙する羽目になった恐怖に声が詰まる。
周りを見まわすとセシルとカタリナが目を見開いたまま、ヨダレを垂らして痙攣している。近くにトーマスとルディの姿が見当たらない。だが、その二人も決して喜ばしい状況になっていないだろうことは、目の前のセシルとカタリナを見れば明白だった。
「ジャジャーン。これで揃ったわね。あら?あなた、怯えているの?」
応える必要も無いのにシャナンはコクコクと頷く。脳吸いはその表情を見て、嬉しそうな声をあげる。
「……いい!いいわ!いいわよ、その顔!とっても美味しそう!」
「ヒッ……!」
脳吸いの悪意に満ちた歓喜の声がシャナンの精神を蝕む。シャナンは階段から落ちた痛みも忘れて、脳吸いの元から急いで逃げ出した。
「あ、待って!……もう!
脳吸いルサッルカの足元から白い霧が湧き出す。その霧がルサッルカの指差す方に向けて一斉に襲い掛かる。シャナンが霧に巻かれる姿を見て、ルサッルカはニヤリと笑みを浮かべる。
だが、シャナンには何事も起こらず、そのまま地下の闇に消えていった。
「あら?なんで
ルサッルカが首を傾げる。魔法の威力が足りなかったのか?だが、足元に転がる二体の人間を見て考えを改める。
だが、実際にはシャナンが持つスキル“異常耐性”によるものであった。“恐慌”状態でなければ、シャナンはあらゆる状態異常を無効にする効果がある。
しばし考えた後、ルサッルカは頭にピンと思いついた。
「あの娘……ただのガキにしか見えないけど、なんでこんな連中と一緒にいるのかしら。それに、コイツらはあの娘を命に代えても逃がそうとしたわ。……もしかして
もし
ルサッルカにとってシャナンは今や最高のご馳走に過ぎない。胸を躍らせてルサッルカがシャナンの消えた方向に駆け出していった。
─
──
───
「イヤ……イヤ…イヤ……」
少女は暗闇の中を必死に走る。辺りにはゴブリンたちが灯していたのだろうか微妙に照らす松明が煌々と火を上げていた。
だが、光は心許ない。シャナンの行く末を暗示するかの様に点々とした箇所しか照らし出してくれなかった。
しかし、その様な状況でもシャナンは逃げ続けるしかない。覚束ない光のせいで途中で何度も転んだ。しかし、その度に立ち上がり痛みを堪えて走り続ける。
途中でトーマスとルディが血を流して倒れている姿を目にしたが、気に留める余裕はなかった。
シャナンは行く先も分からず、ただ地下を駆ける。この先に行けば助かる保証など何もない。だが、逃げなくては……
「あ…イタ……!」
何かに
柔らかい。人のようだ。だが、冷たい。
──死んでいる──
死んでいる者は
その時、シャナンの手に冷たい液体が触れた。
「ヒッ……!」
急いで引っ込めた後、マジマジと自身の手を見る。薄ぼんやりとした灯には灯されたシャナンの手には…………べっとりとした血が着いていた。
──次は自分──
シャナンの心に強い恐怖が覆う。
その時……
「待って〜お嬢ちゃん。待ちなさーい。何もしないからおいで〜」
ルサッルカの甘ったるい声が聞こえ、シャナンはハッとして立ち上がる。
”何もしない訳がない”、シャナンはそう思い、必死で逃げだした。
息が切れる……
肺が熱い……
でも、歩みを止められない。止めるとあの化け物がやって来る……
───
──
─
どれくらい走っただろうか。シャナンは道の行き止まりに辿り着いた。
「そ……そんな……ど、どうしよう……」
オロオロして辺りを見回す。すると、視界の先に扉があることが見て取れた。
戻る訳にはいかない。もうここに逃げ込むしかない。シャナンは扉まで駆け出して、無我夢中で扉を開ける。
「え……?」
扉を開けると想像だにしていない光景が広がっていた。部屋の中央には、多くの人が積み重なって倒れている。生きているのか死んでいるのか分からない。だが、異様な光景であることは間違いない。
その山の中から突如自分を呼ぶ声がした。
「シャ……シャナ……ン……か……」
自分の名前を呼ばれ、ビクンと体が反応する。恐る恐るシャナンが声の先を見ると、見知った顔がいた。
ディークだ。
屈強な身体を持つ男が口を開け、呆けた目で自分を見ている。その異様な光景にシャナンが更に恐怖を募らせる。そのディークは覚束ない口調で必死にシャナンに語りかけて来た。
「に……げ……ろ……」
辿々しい言葉で危機を告げる。逃げたいのは山々だが、どこに逃げればいいのかとシャナンは思った。
だが、ディークはシャナンの戸惑いも他所に言葉を続ける。
「ここ…は…貯蔵…庫……だ…奴の……餌場……だ」
“餌場”…言葉の意味は分からなかったが、響きから良くない単語であると理解した。だが、部屋から出れば脳吸いと鉢合わせになる。行く当てもないシャナンは隠れる場所が無いかと必死に周りを見渡す。
ふと見ると部屋の隅に木箱があった。自分程度なら入れそうだ、とシャナンは思う。そう考えると他のことに思考がいかない。いや、いったとしてもどうすれば良いのだろうか。シャナンは唯一の希望に向かって部屋の隅に駆け出す。
「ち…が……う……ここ……から……に…げ……ろ」
ディークの忠告は理解できるが、シャナンにはどうしていいか分からない。外に出てどうすれば良いのだ。あのバケモノに出会しても勝ち目などない。ならば、少ない確率でも身を隠してやり過ごそうとシャナンは考えた。
「シャ……ナ……ン…」
ディークの絶望に満ちた声を聞きつつ、シャナンは木箱に身を隠す。
───
──
─
“ガチャリ”
しばらくすると扉を開く音がした。心臓が跳ね上がる。手足が痺れる。
──あの時と同じだ──
────あの男が───帰って来た時と────
少女は願う。願いはひとつ。
そう、ただひとつ──来ないで──と。
だが、またしても少女の渇望をあざ笑うかのように足音は徐々に近づいている。
足音は木箱の前で止まった。心臓が激しく波打つ。目を閉じ必死で祈る。
“キィ”
木箱の開く音がした。
「見〜つけた〜☆」
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