最終章 ドゥーガの火床<3>

「ダニーラ……様?!」

 水と炎渦巻く地下に敢然と姿を現した黒衣の青年貴族が、まっすぐにこちらを見返した。

「エルリフ。無事だったか」

 エルリフ! と叫んで黒衣の青年の後ろから、燃える髪の少女も飛び出した。

 だが、ダニーラはイズーの手を掴んで、引きとめたままだった。

 いや、彼女を連れていることを忘れ果てたように凝然としている……変わり果てた鋼鉄の主君、それも、異形の女神に“犬”のように押さえつけられた姿に、心奪われて。

 彼の只ならぬ気配にイズーも身動きが取れずにいる。

 ザラスカヤが、目を細めた。ダニーラの姿を吟味するように唇をぺろりと舐める。

《どうやってここまで来たんだえ。入り口は、人間には見えないはず……!》

「貴様の目くらましなど、私の目を曇らせることすら出来ない。こんな恐ろしい場所で、ヴァルーシ王が屈服させられているなど、誰が想像しただろう……!」

 黒狼は、自由を奪われてもなお燃える紅玉色の眼を“臣下”に据えていた。

 ダニーラが、まるで懺悔する人のように瞳を濡らし、黒狼に向けて静かに独白し始めた。

「貴方様の臣下であることを止めたこの数日ばかり、私の心は少しも高揚しなかった。いま、この胸を焼いている悲嘆は姉上を喪った夜以来のこと……けれどあの夜も私は、慟哭する貴方様を見てこうして涙していた……まさか自分以上の悲しみに、世の無情に身を切り裂かれている”他人“がいるとは、と。あの時、棺の前で誓ったはずだったのに。姉上の意思を継ぐ者として、一生、貴方様をお助けしようと。なのに……いつしか、私は」

 ダニーラの光る目が、ドゥーガの火床を背に立つこちらを射抜く。

《ほんに佳(い)い男じゃ。その通り、敵の敵は味方というではないか。どうだえ、ヴァルーシ王として同盟を結ぼう、あの言うことをきかぬ見苦しき黒狼など、廃棄じゃ! 新しき王朝を開こうぞ!》

 まさか。ここで、ザラスカヤとダニーラが手を結ぶというのか。

 そうなれば、もうヴァルーシ王国は……いや、地上世界は、御終いだ。

 ダニーラが軽蔑混じりの冷笑を返した……ザラスカヤへと。

「お前が少しでも美しいのであれば、その浅はかさに同情ぐらいはしたかも知れない。が……私は王の敵にはなっても恥知らずになった覚えはなくてね」

 女神を絶句させた青年は冷ややかな表情を和らげ、自分の連れに向き直った。

「ここで待っていなさい。君の彼を捕らえている醜女を退治してくる。分かったね?」

 そっと手を離しながらイズーに微笑みかけたダニーラの表情は、場違いなほどに高潔だった。彼女も、気圧されたように黙って頷く。

 自分の心は壊れ易い陶器だと、ダニーラはエルリフに告白した。けれど、この半日あまりの間に彼は自らを変えたのだ……多大な、そして過酷な代償を伴って。

 陶器よりも、金属(かね)よりも、強くしなやかなもの。

 炎も水も暴力も、魔力ですらも壊せない強度の心をまとう人間へと。

 一時は憎たらしいほどだったダニーラの冷静沈着さが、火傷を洗う水のようにいっそ心地よくエルリフの焦げ付きかけていた心にも沁みていった。

「ダニーラ様、もう、陛下を滅ぼしたいとは、お考えじゃないんですね……!」

「私の敵は、カローリでも、レグロナの影でもなかった。私自身の心の脆さ、だったのだ。王国の敵、この地に生けるもの全てにとっての敵……森の奥に眠っていた邪悪なモノを、先君がいたずらに目覚めさせたせいで。なんと、醜い……」

 決然とザラスカヤに睨みをつけた灰青色の目には氷原の極光(オーロラ)さながらの義憤が燃えている。けれどそれは、内なる彼自身に対するものでもあった。

「そのために陛下、それに君の運命も狂わされたのだとようやく分かった。姉上は夢の中で悲しんでいたのではなかった……憂いておられた。今になって、我が主君の温情を悟るとは愚かの極み……エルリフ、それにイズー、すまなかった。我が家族、それに……ミーリュカにも……許しなどは請わぬ。ただ心から詫びたい」

「俺はあの柱をぶっ倒します! そうすればザラスカヤも倒せるはずなんです!」

「君にしか出来ない仕事だ。我がカレイアの剣にかけて、加勢いたす!」

 彼はヴァルーシの戦士の得物たる両刃剣(パラシュ)を抜き、ザラスカヤを睨んだ。

 その時。工房と橋の間に立ち並んでいた青銅の騎士二体が、ギシギシと音を立てて動き出したではないか。

 ちらりとそちらに目を向けたダニーラの鋼の剣が目にも止まらぬ速さで一閃し、攻撃態勢に移る寸前の青銅の騎士の首頭を次々に跳ね飛ばした。ギギギ……と音を立てて、首なし騎士は傾いて停止した。 

 ダニーラの黒い長靴(ブーツ)が砕け散った青銅の欠片を踏みしだいてなおも進む。

 そうしながら喉元の留め具を外し、マントをゆっくりと挑発的に放り捨てる。

《やってくれるじゃないか。氷のような男だけれど、熱く燃え立っているね……溜まらなく……欲しいよ! さあお見せ、お前の中にたぎる深紅を、早く、このわらわに!》

 迎えうつザラスカヤの胸で”鏡”がきらめき、鎖が蛇のようにひとりでくねりだす。ザラスカヤのしなやかだった腕や肩が、突如魚身のようにきらめく鉄の鱗へと姿を変えていく。鋼鉄の女妖の指先には黒金の鉤爪が光る。

 並の人間であれば、残酷なまでに美しく魔的な姿を眼にしただけで心を喪うことだろう。

 だが挑む騎士は、長年非情を内に秘め、非人間的なまでに研ぎ澄まされた青年だった。

 かつてエルリフに言ったことを、彼は命を賭し、全霊をもって証明しようとしている。

 勇気を持つことは恥ではない、自分が無力であると知ることも。

 白炎を霧のようにまといながらダニーラとの距離をつめるザラスカヤ。その豊満な胸の真ん中で、鏡の円盤が妖しの月のように輝く。

 ダニーラは剣を顔の高さに構えた。攻撃にも、防御にも優れた構えだ。これぞ、まごうことなき騎士の戦いぶりだった。

《お前の心が見えるぞ。そう……お前もエルスランと同じあの女を愛していたのだね……あの女! あの女がエルスランの魂を円(まる)くしてしまったせいで黒狼の中のわらわの呪力もずっと遠ざけられていたのよ。殺されたあとはせいせいしたね……!》

 口から炎と暴言吐いたザラスヤカが、その一瞬、はっきりと顔を強張らせた。

 ダニーラの気配が無になったのだ。そこに存在するのに、つかみどころの無いほどに。

 彼の怒りが人の身の限度を超えさせたのだ。

 激烈に繰り出される剣戟にザラスカヤは鉄槍を構え、防御にまわった。激しい打ち込みは止まない。だが槍の方が長いために、ダニーラはなかなか懐に入り込めない。槍の切っ先を避けながら剣で叩き、払いながらも果敢に突きを繰り出す。しかし相手の魔鉄の装甲は火花を時々散らすのみで、全て跳ね返してしまう。

 でああっ! と叫び、槍に長剣をからめるように激しく突き、ダニーラは一気に撥ね上げた。鉄槍が回転しながら湖面を割って、沈んでいった。武器を失ったザラスカヤは激怒し、針山と化した髪が逆立った。

《……おのれええ、よくも!》

 飛びかかる蛇の速度で跳躍するや、ダニーラに痛烈な体当りを見舞う。鉄橋の手すりに彼を押し付け、肩口に深々と牙を埋めた。溢れ出した血潮を、喉を鳴らして飲み干す。彼の血の中の鉄を味わっているのだ。橋のたもとで立ち尽くしていたイズーがいやああ! と絶叫した。顔を覆って、火傷を負った女児のように泣き出す声がこだまする。

「がっ……あ…がはッ……ッ!」

 噛みつかれたまま痙攣するダニーラの手から、がらん、と音を立てて剣が落ちる。生ぬるい音を立てて鋼の上にも鮮血が降り注ぐ。ついに、彼の身体ががくりと傾いだ。

 恐怖を忘れ、エルリフは飛びかかった。黒狼も同調したように跳躍した。が、エルリフも黒狼も、見えない壁にはじかれたようにもんどりうって倒れる。

《愚か者ども、無駄だよ! さあ、お前の嫌いな醜女にとくと食われる時が来……》

 振り向いた女妖が哄笑し、いよいよダニーラの首を食いちぎろうと顔を戻した、その時。 

 女の肩を、まるで愛しい者を呼び止めるかのように血の気のない手が掴み寄せた。

 瞬間、もう一方の手が、胸の“円(まる)い月”に何かを突き立てた。

 暗殺刀だった。

 まだ意識を保っているのが奇跡に思えるダニーラを、わななく女の瞳が愕然と見返す。凍える彼の眼差しと柄がさらにねじ込まれる。小さな亀裂が入り、それが呼び覚まされたように大きなヒビとなる。あえかな光を発しながら、ついに鏡は砕け散った。

 身の毛もよだつ絶叫が妖女の喉から迸る。鉄の鱗が急激に赤錆び、剥がれ落ちていく。

 萎びた老女と化した小さな影が転がって、芋虫のようにのたうつ。

 力を失い、湖へ落ちかけるダニーラの体を飛び出したエルリフの腕が掴み止めた。

 涙で息を乱しながら、血まみれのその身を鉄橋の上に横たえてやる。

「行け……エルリフ。私に出来る、これがすべて……陛下を、ヴァルーシを、どうか救って、くれ……!」

「ダニーラ様、ダニーラ様ぁ!」

「姉上……、義兄(あに)上、お許し……を!」

 エルリフの腕の中、冷え込んでいくダニーラの白い貌が、まるで透明な光に包まれたように見えた瞬間……凍える海の色をした瞳は光を失い、永遠に静止した。

 温かな青をした青玉石の指輪が彼自身の鮮血で濡れ光っていた。

 うな垂れるエルリフの背後で見守っていたイズーが、血の海の中から、おののきながらも何かを拾いあげた。ザラスカヤの鏡の、おそらく唯一残った大きな破片だった。

「返せ、小娘、それがありゃまだ間に合うぅぅ……それを、かえせえええ!」

 妖婆が、しわがれ力を喪失した声で身悶える。いまだつながっている鎖を命綱のように握り、よろめきながら必死に這い進んでくる。“女神”は、不死ではあれども不老ではなかったようだ。老化を繕うのに歴代の巫女姫たちの魂を使っていたのだ。

 鎮痛だったイズーの頬が紅潮し、緑の瞳が冷徹な怒りを燃料に燃え出した。

「……へえ、大事なものなのね。じゃああげないわ、絶対! エルリフ、あたし、あの妖怪ババアを引きつける。あんたはやるべきことをやって!」

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