最終章 ドゥーガの火床<2>

「……なに……?」


 立ち尽くすエルリフを、鷹のように旋回してきたザラスカヤが突き飛ばした。抵抗する気力もなく倒れ伏す。苛立ちとあざけり混じりに見下す彼女が、がらりと口調を変えた。

《わらわの命令に逆らったエリンが愚かだったのじゃ。ゴルダに火を入れさせろ、鉄獣たちを復活させ討って出よ、セヴェルグラドを灰燼にしてやれと“お告げ”してやったのに、あの女ときたら“もはや滅びるべきは貴女のほう”といったのよ、たわけが! ならば王に一人で立ち向かってみろ、非力な女の惨めさを思い知れ、と……!》

 彼女は嗤った。いつしかぞろりと爪の延びた指先が胸元の鏡のペンダントに触れる。

《逆らおうと逆らうまいと、巫女たちは魂の火をわらわに捧げるのが宿命。御覧、これは割られた魔法の鏡……すっかり元通りになったのよ、だからわらわは美しくいられるの。彼女らの力を少しずつ少しずつ、それこそ鍾乳石をつくる雫のように結集させてね……エリンのを取り損ねたことだけが口惜しや……!》

 その時。闇の中で円陣を描くようにこちらを取り巻いていた甲殻生物たちが、甲高く鳴き声をあげた。ドン、ドドン……というような低い爆発音がした

 竜の炉の、紅玉が埋め込まれていたと見える瞳が輝き始めた。中で炎が揺らめき出している。

エルリフより、ザラスカヤが先にうろたえた。

 ゆっくりと、エルリフを振り返った。しまった、という目つきで。

《くそ。なぜ点くのに時間がかかった? ……そうか! お前は肉食らいだったな……! いやそれとも、エリンの血だけが反応したのか……?》

「全部白状してくれて礼を言いたい気分だよ。お前は逆らった母さんを貶めるためにわざとザヴィツァ王の手引きをして、取り返しもつかないほど傷つけたな! だから母さんは、狂った。それを知って父さんは……ゴルダは鉄柱を削ろうとしたんじゃない、倒そうとしたんだ、お前ごと!」

 あの断裂の角度を思いだし、いまこそ理解した。父も壊したかったのだ。創造の時代から続く鉄のくさびを。

 ザラスカヤは沈黙を守っている。しかし、エルリフはもう容赦しなかった。

「でも、力が及ばなかった。削れただけだった。結局お前に逆らえずに黒狼を造って、せめてザヴィツァ王にだけは復讐しようとしたんだ!」

 しかしその悲壮な決断の瞬間、父自身と幾人もの運命の輪も、狂い始めていたのだ。

「それでもあんたは女神なんかじゃない、もう、邪悪な何かだ!」

 やはり、今度もイズーは正しかった。彼女の側を離れるべきではなかった。

 本当に、自分はなんと愚かだったのだろう。

《まあ、ただのボンクラかと思えばなかなかに辛らつじゃないかい……おかしなことだね。お前はなんの武器も、力も、権力ももたぬのに。そうよ、わらわこそ地上に投げおろされた“月の娘”。鉄造りの下僕を得るために“女神”になったのよ》

 ザラスカヤの神々しいまでの美貌の中、目に宿る老獪なまでの冷たい光が凄味を増す。

《この工房に再び火さえ点けば、今度こそ人間どもをひれ伏させることが出来る。やっと捕えた人間の王の魂、それも“あの男”と同じ名前の! こやつをお前が鍛えた鉄獣らの頭目にし、人間世界を壊してしまうこと、それだけが我が望みよ……!》

「そんなことのために、何百年も、半妖人たちを利用してきたのか……! お前の恨みなんか、知るものか! 怖いんだ……あんたは、死ぬのが怖いだけなんだ!」

《恐怖などわらわは忘れてしまったよ、エリンの小倅。お前の父親が誰だろうと、火は、入った……! 者共、飛び込め、魔鉄の一部となり、永遠の生を得るがよいわ……!》

 突如、甲殻生物たちが輪になって踊り始めた。竜の口の中によじ登っては次々と身を投じていく……彼らはかつての半妖人たち。ザラスカヤの呪縛に逆らえないのだ。

「やめろ。彼らを支配するな!」

《うるさい”王子様”だこと。エルスラン、こやつを消し炭にしておしまい!》

 ザラスカヤの命令で、じっと後背で従っていた黒狼が動き出してしまう。

 エルスラン。自分を導いてきたその名が、エルリフの意識を、再び強く揺さぶった。

 いよいよ燃え盛り鈍色だった”竜”を中心に、熱の流れが不可思議な紋様を描きながら徐々に地下空間全体を血潮の色に染め上げていく。巨大な無人工房が息を吹き返そうとしていた。ごうごうと熱風が席巻し、冷え切っていたはずの火床が赤黒く燃え出した。

 その炎を越えて、エルリフは、エリンのこわれた魂の声が吹き寄せるのを確かに聴いた。

 そうだ。母は粉々になった自らの魂の欠片を集めて、間違えることなく、この自分にかけがえのない贈り物を与えてくれていたではないか。


“エルリフ……エーリャ、われらの息子。全ての鉄を司った天の鍛冶師の名を継ぐ者よ”


 そう、自分は、エルリフなのだ。ただその名にふさわしく、在ればよい。

「母さん……父さん、俺は、俺がすべき仕事をする……! エルスラン様を、取り返す!」

 ザラスカヤは、拳を握りこんだエルリフを火床と黒狼越しに睨み、ただ冷笑で応えた。低くうなりながら鋼鉄の魔狼が近づいてくる。目を逸らしたが最後飛びかかられそうだ。 

 意思ある黒い鉄塊が跳躍した。悲鳴をあげて飛び退いた。寸出で圧死を免れる。

「エルスラン様、目を覚まして!」

 黒狼の前足が、エルリフが数瞬間前まで居た場所の岩盤を薄氷のように打ち砕く。

 イズーと踊った晩のように、続く攻撃もなんとか足をさばいて避けきった。

 が、均衡を崩して、転んでしまう。肩に黒狼の前肢がかかり、凄まじい重みと激痛が圧し掛かる。絶叫した。黒狼の両眼に燃える火床の色が激しく揺らめいている。

 組み敷かれたまま、エルリフはなおも声が嗄れるまで叫び続けた。

「陛下、お願いです、エルスランさま……エルスラン、さま!」

 引き裂かれる痛みを待ち受け、固く目を閉じた。が。

 不意に重みが消えた。涙と汗で濡れそぼったまぶたを開く。

 黒狼がエルリフから前足を離し、そっと、引き下がったではないか。

《どうした、けだもの。さっさとその用済みの金属(かね)集めを食らわぬか》

 黒狼がゆっくりとその鼻面の先端を向けた……憤るザラスカヤへと。

 エルリフは飛び起き、鋼鉄の獣にすがりつき、陛下! と再び呼びかけた。

《魔鉄が、わらわの命令よりぬしに懐いている……なぜだ》

「お前の呪いよりも、俺たちがこの鉄にこめた思いのほうが強いからだ! 俺たちのやったことは、無駄じゃなかったんだ!」

 エリンの顔をした妖女がすうっと無表情になり、腕をふるった。すると。

 突如黒狼の体が軋みをあげ、苦痛の咆哮をあげはじめた。

 不正なる方法で壊されてしまったら、今度こそエルスランの魂も割れてしまう。

「やめろっ、やめろ……!」

 飛びかかったエルリフの喉が、見えない手で掴まれたように締め付けられる。脈が乱れ空気を求めて肺が暴れる。あまりの激痛に気が遠くなる。

《お前の大事な腕を一本ずつ、ねじ切ってやろう。ほれ!》

 自分の意思に反して、右腕がゆらりと上がろうとする。脂汗が噴出した。

《いやに効きが悪いね……これだから、人界の水で育った半妖は》

「そこまでにしてもらおうか」

 突然起こった凄烈な声にザラスヤカの注意が逸れ、エルリフはどさりと降ろされた。


 鉄橋の中ほどに立つ声の主を見た瞬間、我が目を疑った。

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