最終章 ドゥーガの火床<1>

 下へ、下へと降りてゆく身体、水音。暗い。そんなに深く、どこへ行くのか。それとももう死んでいこうとしているのだろうか。その瞬間、意識が急浮上し覚醒する。


「ここ……は?」

「湖の真ん中、聖なる島の浜辺よ。さあ、もう起きて」

「……イズーは。あの子に何かしたんじゃないだろうな……!」

「安心して。置き去りよ。人間にはそのほうがこたえるわ……」

 冷ややかにクスクス笑う声に促されエルリフは体を起こした。ぐっしょりと濡れた衣服が、重たく冷たい。思わず、くしゃみをした。

 小さな島に居るようだ。濃い霧が漂い、あたりは奇妙に薄暗く、対岸も空も見えない。

 改めて、傍らに立つ少女を見やったエルリフは、あんぐりと口を開けた。

「ザ……ザラスカヤ?!」

 そこに立っているのは、二十歳ぐらいの大人の娘になった彼女、だったのだ。

 エルリフの混乱を全て見透かしたように嫣然と微笑み、“娘”は手招きをした。

 島を成す岩山の麓に小さな木の小屋があった。ザラスカヤはそこへふわりと入っていった。驚いたことに鎖も小屋の中から続いている。エルリフも続く。奥の壁には洞窟がぽっかりと口をあけ、ひゅうひゅうと、地下からの冷たい冷気を吹き出していた。小屋は洞窟の入り口を隠すためのものに過ぎないようだ。

「貴方ったら夜目も”人並み”になっちゃってるでしょ、わたしを頼りにしてね!」

“成長”したのに、幼女の喋り方はやめないようだ。

 彼女の体が不思議な銀光を放ち始めた。洞窟の先は地下への階段につながっている。長い長い螺旋階段だ。気が遠のきそうになった頃、ようやく半開きの鉄扉が現れた。

 ザラスカヤが押し開けた。

 その向こうを白く素早いものが横切る。エルリフは、ぞっとするあまり声も出せない。

「……少し、暗すぎるわ。もっと明るくして!」

 ザラスカヤが手を打つと、岩場のあちこちに明かりが灯った。カチャカチャと硬い殻が擦れるような音がして、青白い甲殻人間たちが、そこらじゅうを動き回る。ざっとみかけただけで数十匹以上は居た。ザラスカヤの命令に忠実に従うらしい。

「ここが、かつてのドゥーガ文明の跡よ。地上の楽園は消え去ったけれど、地下にはまだ名残りがある……」

 いかなる仕掛けなのか、天井を、壁づたいを、炎が線条に走っていく。ぼんやり浮かびあがる地下世界の広大さを前に、エルリフがあげた感嘆の声がどこまでも反響していく。

 信じられないほどの広さだった。円形のドーム型天井は山のような高さで、壁面がすべて同一の大きさの不思議なタイル面で覆われている。

 ドドドド……という激しい水音の方角には、地下水が滝のように流れ下っていた。

 巨大な地底湖とその中に点在する巨石群。かつてここに人々が住み、栄えてきた過去を思わせる家々や階段、回廊、かつては美しかったであろう前面(ファザード)を持つ神殿風の建物、区画同士をつなぐ優雅な石橋などが、数え切れないほど見て取れる。

 もう人が住まなくなった都は、滅びと沈黙を閉じ込めた牢獄のように生者を圧倒する。

 湖の上には鉄橋がかかっており、対岸の区画につながっていた。

 と。背後で金属の軋む音がした……はっと息を飲む。

 じっと側に潜んでいた黒狼の熾き火色の両眼が、薄闇ごしにエルリフを見据えていた。

(……陛下)

 ザラスカヤについて橋を渡り出すと、黒狼もその後に続いた。

 この鋼鉄の橋ひとつとっても想像を絶する技術だ。好奇心に負け、水面下を見下ろしたエルリフは、水中にぞっとするほど巨大な影を見出した。

「なんだっ、あの、でかいものは……!」

 地底湖のそこかしこに沈み、あるいは半身を突き出したもの、爪を振り上げる獣や翼を水中から重々しく上げた猛禽、そして……尾を振り上げ、天井を睨み上げた怪物たちだ。

 そのどれもこれもが、半身、あるいは全身を“水”につけ、赤錆るままになっている。

「古代ドゥーガの鉄獣たちよ、あと少しでみんな動き出すところだったのに、炉の一つが壊れちゃったの。予定通り完成していたら今頃地上(うえ)は全部われらが支配する王国になっていたでしょうに! 人間って、どんくさくて、すぐに死んでばかりいるくせに怖いものしらずなんだから。でも人間は愚かだからおっきくて強いもののことはやっぱり怖がるの。自分たちと似て非なる亜人たちのことも、ね……」

「亜人って……人間以外の種族のことだよな……?」

「そうよ。“楽園”では色んなことを試したのよ。鉄じゃなくて銅を使ってみたり、動物の血を混ぜてみたり……青い血の不浄な不死人や、野獣(いぬ)みたいに不潔な獣人になっちゃったりしたけれど。半妖人だけはね、わたしたちの血を分けて綺麗に造ったものだったから側に仕えさせたの。半分は地下用の妖魔にしちゃったけど! どっちにしてもね、半妖人たちはわたしの子供みたいなものなの! だから言うことをきくのは当然なの」

 愉しげなザラスカヤを、エルリフは理解しがたい感情を押し殺して睨む。

 そのうちエルリフはもはや、自分は魔法の国に足を踏み入れたに違いないと思った。

 橋を進んでいくうち、彼女が妙齢の美女へとさらに“成長”していくではないか。

「あんたは、なぜ、だんだん……“満ちて”いくんだ?」

「“おろかな月の娘の半身”のある場所が、近くにきたからよ!」

「じゃあ、その鉄の鎖は……?」

「これ? その場所から延びているのよ」

 いまや成熟した姿態も艶かしいばかりになった彼女は魔法の鉄鎖を爪の先で弾く。

 あたりに広がっていた赤色光が、次第に青褪めたものに変わる。まるで溶岩の宮から、氷河の宮へ来たようだ。

 橋を渡りきった区画は、様子が一変していた。剣を前に掲げ持った青銅の騎士像が守護するようにずらりと並んでいる。その造形は北方の戦士を思わせた。

 前を通るとき、これらが動き出すのではないかとびくびくした。青銅の騎士たちは兜の面貌の下、虚ろな黒い穴の目で通過者を見下ろすだけだった。

 奥に広がった工房は玉座の間のように厳かだった。岩天井いっぱいまで巨大な管や炉が複雑怪奇に密集している。

 その中央に。天から誰かが投げ下ろしたように、わずかに斜めになって立つ柱がある。

 遠くから見ていた時には周囲の広大さに埋没していて分からなかったが、接近するうちに、圧倒された。セヴェルグラドの聖堂なみに大きい。二十ミーツァはくだらない。

「ここが、ドゥーガ文明の心臓部。そしてこれが“星の鉄柱”よ」

 円柱の巨大さにめまいを起こしつつ、エルリフはふらふらと近づく。

 太さは大人二人が腕を伸ばして取り囲めるぐらいだろうか。表面はわずかに黒ずんでいるが、焼き入れをしたばかりのようにみずみずしく、硬質な輝きを放っている。よく目を凝らせばびっしりとたがねで付けたのかも定かではない謎めいた文字紋様が連ねてある。

「太古の昔、この地に墜ちた巨大な鉄隕石……製錬の必要がない最高純度の鉄塊、この星系における金属(かね)の王よ。わらわたちはこれを追ってきたの。昔はもっと大きかったのだけれど、魔鉄の原料に使い過ぎちゃって。この世で最も純粋な鉄に、魔法までかけて護ってあるのだもの。人間も、時間も、錆だって跳ね除けちゃう!」

「……そんなことを俺に教えて、いいのか?」

「ふふ……この仕事をしたのは初代の妖精鍛冶師……そう、“エルリフ”よ。それから、これに触ってもいいのは彼の血を引く第一の妖精鍛冶師だけにしたの。千と五百年の間、それが決まり。エリンったらどういうつもりで貴方にそんな古い名前を授けたのかしら?まあいいけれど。ねえねえ、後ろを見てみて!」

 言われるがまま背後に回り込んで、目をみはる。

一カ所、斜めの切れ込みのような削り跡がある。柱の傾斜角度から見てもこの傷が付けられた時の衝撃で傾いだのだろう。

「それが、ゴルダの“仕事”。黒狼を復活させるときに、特別に削ることを許してあげたの。おかげでわたしの意思もあれを操れるようになって、便利になったわ! ゴルダったら、この仕事のためにほとんどただの人間になり果てるほど、魔力を使い切ったのよ」

(鉄を削り取るために、自分のもてる力を全て、出し尽くした……?)

 エルリフの中で違和感が高まった。立ち竦んでいると先へと促された。

「あちらが溶鉱炉……かつて隕鉄から魔鉄を産み、鉄獣を生み出した炉、よ」

 ザラスカヤが指さした先の壁面に、巨大な神像めいた黒い影が立ちはだかっていた。

 まるで鎌首をあげた蛇に睨みおろされたような気分になって見上げ、よろめく。

 竜、だ。まるで今にも動き出しそうだ。邪神像のように立ち上がり、こちらに牙を剥き、鉤のある腕を突き出している。土台は耐火煉瓦で造られ、鉄皮で竜形に整えたのだ。開いた口から原料を流し込み、”体内”で燃やす仕組みらしい。竜の炉の後ろからは管が壁づたいに延び、地下水脈の奥にある水車とつながっていた。送風のための機構だろう。

「大きな炉はね、昔は二つあったの。この主炉の“血の炎(ザラージラ)”と、転炉の“星の炎(ウグレーシャ)”。星の炎はもう、遠い昔に壊れちゃった。けれどほら、天井に、大きな鍋が吊り下がったままでしょ?」

 鍋などという生易しい大きさではなかった。小屋ぐらいの大きさだ。

「もしかして、取鍋? 溶かした鉄をあれで汲んで……」

「そう! 昔はあれが毎日、炉と炉の間を行き来してたのになあ」

 鉄柱と竜の炉は対照に向かい合い、その間には堅牢な石で囲われた巨大な火床が横たわっていた。敷き詰められたままの燃料は相当に古そうだ。もちろん火の気はない。

 鉄柱、火床、そして溶鉱炉。ここはまさしく妖精鍛冶師たちが巨神とみまごう鋼鉄の獣たちを想像した鍛冶場だったのだ。

 高炉であろうと野鍛冶の窯と原理は同じだ。火を起こすには燃料、そして風が必要だ。

 二頭の“竜炉”が熱した溶解鉄が朱金色の川となって型に流れこみ、巨竜の肺のようなフイゴが風を産むかたわら、燃え盛る火床に集う妖精鍛冶師らによって魔鉄が鍛錬されていく様は、さぞかし壮観であったろう。

「ね、すごいでしょう、見て見たいでしょ? ここが一生、貴方の仕事場になるのよ?」

 まるでエルリフの想念を読み、からめとるように女神が囁きかける。

「もうそろそろ始めましょ! あの竜の口の中にあなたの血を入れるの。でも、鉄が打てなくなったら大変でしょ? 耳にしましょうね。大丈夫、少し欠けるだけだから!」

 甲殻生物の一匹が、黒金の短剣と小皿をザラスカヤに運んできた。

 本能的に後退ったエルリフを、短剣を振り上げたザラスカヤの瞳が呪縛する。刃のきらめきに目を閉じた瞬間、耳が灼熱の激痛に燃え、温いものが溢れ出た。

 悲鳴をあげ、耳を押さえて倒れこんだエルリフの横で鉄の小皿に血塗られたものが載せられ、運ばれていった。

「ああ、この血の味……! 本当においしいわ。この星の海水と同じ味がする……」

 ザラスカヤが短剣についた血をねっとりと、味わっている横で。

「あ……ああっ……」

 痛みと、真っ赤にそまる自分の手と、心を深く抉られたような喪失感と。

 言葉も発せずに背を丸めて震えるエルリフの欠けた耳にザラスカヤが手を伸べた。

 すると、流血がまるで水が凍るようにぴしぴしと固まり出す。

「もう、弱虫ねえ。ほら、触ってご覧なさい!」

 震えながら耳に触れた。金属片のようなもので“修復”されており、痛みも消えていく。

「あなたたち生物は、海から陸に上がるときに“殻”をつくり、そして自分自身を閉じこめた。そうすることで世界を拒絶し、自立し、死を内包した……鉄獣を作り上げている魔鉄も同じ。世界に散った鉄と、生命(いのち)の血の中の鉄が結合し、“境界”という殻を作っているのよ」

 すうっと、ザラスカヤの体が鎖を引きずって浮き上がり、高みからエルリフを見下した。

 彼女は竜の口の中に、エルリフの血を皿ごと、放り込んだ。

 が。何の反応も起きなかった。

 得体の知れない怖気が、やってきた。


 正気を失った母に似たザラスカヤの目つきが、氷柱のようにこちらの魂を貫く。

《……何たること。これぞ身からでた錆、ってものね。お前はやはりザヴィツァの息子か!》

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