第七章 踊る炎<4>

 黒狼が屋根の上で四肢を跳躍前のようにしならせた。中隊長がダニーラの命令通り号令の息を吸い込んだその時。

 伸びあがって口を開いた黒狼の喉の奥で、熱した窯の色をした光熱が燃え盛った。

 危険を感じたダニーラが素早く馬首を巡らし、シルヴェンも不吉な予感に驚いて飛び上がった。

エルリフが地面に投げ落とされた瞬間、炎の塊が視界の真ん前を横切った。

 爆風、そして、巻き込まれた兵士たちの断末魔が立て続けに耳を打つ。

 ダニーラも暴れる馬から投げ出されていた。イズーを庇って受身の体勢をとったせいで軽い脳震盪を起こしたようだ。気絶した彼の腕の中から身をよじり、イズーが迷うことなくエルリフに駆け寄り、さあ立って! と急き立てた。

「シルヴェンが居ない!」

「あの子なら大丈夫、ちょっと驚いて逃げちゃっただけ、近くに居るわ。でも聞いてないわよ、あれが炎の遠距離攻撃までぶっ放すなんて!」

「お、俺だって……! 黒狼を操っている奴が近くにいるはずなんだけど……!」

 エルリフとイズーは手を取り合い、逃げ出す。砦の外の、緩く長い弧を描く湖岸の道に走り出た。

がその時、背後にぞっとする気配を感じ、振り返った。

 もうもうたる煙を割き、黒狼が頭上の楼閣上からこちらを見張っているではないか。

 ”生き物”めいた動きをみせながら、金属音まじりの雄叫びをあげ始める。イズーが耳をふさぎ、エルリフも身をすくませた。

(俺たちを追って……誰かを、呼んでる?!)

 黒狼が飛びかかる姿勢になった。跳躍した巨体がまっすぐにねらいをつけて、降り立つ……イズーの眼前に。驚いて、彼女が倒れ込む。イズーの喉笛に食らいつこうとするように黒狼が顎を突き出す。やめろ! と叫び、エルリフは体当たりをした。魔鉄の胴体はびくりともせず、逆にエルリフは巨体の一振りで弾き飛ばされた。

 イズーが身体を反転させて、爪の下を逃れた。辛くも彼女の身体を引き寄せ、エルリフも地面を転がった。

「君を狙っているんだ、ペンダントを外せ!」

 怒鳴りつけた。やめてよ! とイズーが抵抗したがやめなかった。

(こんな魔鉄(もの)があるから……こんなものを、欲しがるから!)

 憎しみのまま、強引に外した魔鉄のペンダントを餌のように黒狼に放り投げる。牙にひっかけた黒狼は丸飲みにした。その時。

痛っ……と洩れた声があった。

 はっと、我に返る。イズーが、右の頬を押さえていた。血が一筋、流れていた。

 思わずエルリフが伸ばした手をイズーが振り払う。

 彼女が自分を見返す目に一瞬、はっきりと怯えが走った。

 無理矢理奪ったせいだ。目の前が闇色に沈む。

震え始めた、自分の所業に。

「お、俺……いま、俺はなんてことを……!」

 それでも、彼女一人が気丈だった。

「……呪いのせいよ。びっくりしたけど、こんなの大したことないわ」

 イズーは指先で自分の血を拭い取りながら、しっかりと、重ねて言った。

 本当に呪いのせいだろうか? 自分の中の“憎悪”のせいではなかったのか。

 その時、二人の間隙を突くように静まりかえっていた湖面にさざ波が立ち始めた。

 湖面がゆっくりと渦を巻き始めた。そして噴水のように盛り上がる。それが、人型をとりながら、徐々に岸辺に近づいてくる。

さあっと水のヴェールが退いていく。打ち捨てられたように残ったのは……


 真珠飾りのついた白い衣をまとった、十二、三歳の少女、と見えた。


 抜けるように青白い肌、慎ましくとがった耳の先端……半妖人の姿だ。

 恐ろしいほどに整った美しい顔は清らかな微笑を浮かべつつ、暗い金目は冷然と、どこか蛇の目のようだ。

 さあっと血の気が引く。誰かに似ている……と。

「エーリャ……! ずっと待っていたの! やっと、やっと来てくれたのね」

 少女が数歩、進み出た。胸元に、銀色の円い鏡のペンダントを下げている。腰にはベルトのように細い鎖が巻きついている。鎖の先は湖の中へと続いて、水中に没していた。 

「お前がずっと、黒狼を操っている……いや、魔鉄の中に潜んでいたやつだな」

「そうよ。わたし、ザラスカヤ……妖精女神よ」

 口調はひどく幼く、傍らに寄り添う黒狼の頭を撫でる手つきは柔らかい。

「自分のことを神と呼ばせたがるものほどインチキに決まってる。用心しなさいよ!」

「エーリャ、あなたに会えて本当に嬉しいわ……!」

 ザラスカヤはイズーを無視して微笑んだ。それだけで光が弾けるようだった。そのあどけないほどの美しさのせいで、語られている言葉すらも綺麗に聞こえてしまう。

「雪の日にあなたに壊されちゃって、溶かされちゃった時はもうだめかと思ったの。わたしの大切な、“二人のエーリャ”を失くしたくないのにって。でもね、でもね、人間ってギラギラしてるの、いつでもそう、王様の怒りと、憎しみの弾丸(たま)がわたしを甦らせてくれたの。まるで凍えた手にようやく生き血が通ったみたいな気分だったわ」

「何だか、冷血漢(ダニーラ)と話が合いそうなやつね……」

 エルリフもイズーの冷ややかな苦言に同感だったが、相づちを打ったりはしない。ただ、頑是無い子供を相手に、大人気ないようなことをしている気分になってしまう。

「ねえ、どうしてそんな娘と一緒にいるの? わたし、世界で一番可愛いでしょ?」

「う、うぬぼれるな! 正直言ってお前より、俺の友達のほうが何倍も可愛いぞ!」

「……そんなことないもん! わたしよりも可愛いものが、肉喰らいにいるはず、ないもん! エリン母さんだって思ってるはずよ、そんなことを言うような子を産んだ覚えはない、“お前を産んだのは間違いだった”って……」

 エルリフは、思わず凍りついた。この姿……この話し方。

認めたくはなかった。

(母さんに、似ている……!)

 その時、イズーが我慢の限界とばかりに飛び出し、嘘よ! と叫んだ。

「全部、嘘よ。エルリフのお母さんが、そんなこと思うはずないでしょ!」

 一瞬、無邪気を装った妖精女神の顔に冷気が差した。その波動に反応したように湖岸をあらう波が大きく引き、戻る一瞬で盛り上がった。巨大な水球となって千切れ、飛来したかとおもうと驚愕するイズーの頭を包み込んでしまったではないか。

 彼女が、水球の中で溺れている。

見つめる恐怖の瞳が、エルリフの心臓を貫いた。

「やめろ、やめてくれ!」

 エルリフは怒鳴り、イズーを抱きしめた。もがく彼女の腕から力が抜けた。瞬間、水球が弾け飛んだ。ずぶぬれになり、激しく咳き込むイズーの身体がエルリフの腕の中に倒れ込む。呼吸はしているが、意識は朦朧としているようだ。

「おしおきよ、女神を侮辱するなんて……これだから人間の娘って、嫌」

「絶対に許さない! イズーをよくも、よくも……!」

「エーリャ、貴方の居場所はここじゃないの、妖精でも人間でもないんだから!」

 血の気が退いていった。それをザラスカヤはしてやったりと眺めていた。

「ねえ、わたしと一緒に来て、ドゥーガの炉に火をつけて遊びましょ。それには貴方の血が必要なの。だってね、選ばれた妖精の認証(みとめ)がないと動かない仕組みなの。誰もいいってわけじゃない、巫女姫の血筋、ドゥーガの一族……つまり、貴方なの、エーリャ。さもないとここにいる人間たち、みんな湖の中に引きずり込んじゃうんだから!」

 無邪気な邪視にからめとられ、エルリフは目の前の責任から逃げ出したくなった。

(……どこへ、だ?)

 セヴェルグラドか? ウーロムか? どの面(つら)下げて戻る気か。 

 それとも大森林の奥、か。人間の居ない湖の底、か。

 ザラスカヤはエルリフの迷いを慈しむように……取り込むように、手を取った。

「貴方はかわいそうな子。本当は選ばれし者なのに、人間につまらなくされてしまって。そんな人間の娘の為に本当の自分をおし殺して……自由にしてあげたい……」

 確かに、もうたくさんだ。

自分が彼女のそばにいるだけで彼女を傷つけてしまう。 

(俺は、邪悪だ……自分で、わかってたはずなのに)

「人間の娘なんて、薄情よ。男が愛せば愛するほど、逃げてからかうのよ。それよりもっといいものがあるのよ、恋なんかよりも素晴らしい仕事、妖精鍛冶師の力、星と鉄のことが、全部分かるようになるのよ! それを捨てちゃうつもり?」

 妖精女神の密かやに熱い声が、エルリフの中の別種の欲望の在り処を探り当てていた。


 エルリフはぐったりとしたイズーを平らな場所に寝かせた。

 彼女の血の滲む頬の傷がやるせなく、ぽたぽたと自分の目からこぼれる涙がふりかかった。唇に唇で触れたいという激情を押し殺す。

そっと彼女の頬の傷に近づけて、舌先で、狼の仔がするように舐めた。初めて知る彼女の味に、自分が本当の獣になった気がした。

「さようなら、イズムルード……傷つけてごめん。約束、守れなくて、ごめん……!」

 彼女の手元に、そっと火護りの刀を委ねる。

 彼女に背を向けたエルリフをザラスカヤが満足げに手招いた。

「さあ、行きましょエルリフ、秘密の王国へ。湖の真ん中の島が、入り口なの!」

 もう一度だけ、振り返る。もうもうと黒煙をあげる砦を背景に黒衣をはためかせた青年が独り、こちらを見つめていた。警戒しているのか、近づいては来ない。

「……誰かが追いかけてきたら、どうするんだ」

「大丈夫。濁った人間の目には見えないようになっているから」

 黒狼が“主人”の命令を汲み取ったように水中に躊躇うことなく進んでいく。

「昔は半妖人も水の上を歩けたのに。仕方ないったら。息、出来るようにしてあげる……」

 近づいてくるザラスカヤの作り物めいた美貌が一瞬、淫蕩なほどに歪んで見えた。止める間もなかった。

 がっと、少女の手がエルリフの顎を掴み、ぞっとするほど冷たい唇がエルリフのそれを覆い、生き物めいた舌が口蓋の中をまさぐって唾液を混ぜた。エルリフの内なる芯が熱くなる。きっと端からみたら接吻によって水精霊(ルースカ)に幻惑され、入水しようとしている若者に見えるだろう。

どうしようもなく、快楽の渦に呑まれる……!

「やめ……なさい、よっ、この、バケモノ、女……!」 

 その時、意識を取り戻したイズーが、這いつくばるようにザラスカヤの脚に両腕でしがみ付いた。キッと、ザラスカヤが目を剥いた。

エルリフは、ザラスカヤの手に稲妻めいた薄紫の光が生まれ、それがイズーに投げつけられようとしているのを見た。

 やめろ! と飛び込んだ。イズーの悲鳴と、頭を割られたと思うほどの凄まじい音が意識を吹き飛ばした。 

 誰かに助けを求めたかった。でも、何を頼ればいいのか、わからなかった。

 もがき、混乱しながら、エルリフは意識を失っていった。

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