第七章 踊る炎<3>
北側の対岸にはまだ緑が見て取れた。
ただ乱雑に掘り出された切り株ばかりが、かつての森の広がりを物語る。水辺に遊ぶ水鳥の姿もない。ただ、汚れた雪だまりから重たげに立ち上がった蒲の群生が、もやわれた小舟の間で風に揺れるばかりである。
「……ここが、半妖人の故郷?」
道中、意識を取り戻したイズーが遠慮がちに言った。ダニーラが丁重に宥めすかしながら与える水や食料も遠慮なく食べ、笑顔こそ見せないが体調に問題はなさそうだ。
まるで騎士とお姫様だ。しかし、本当は違う。イズーがあんな恐ろしい殺人者の腕の中にあるのはエルリフも気が気ではない。彼が女を殺さないという保証はどこにもない。
そのダニーラが、かつての穏やかな物腰のままに語り始めた。
「ヴァルーシの王は長く、この森には手を触れなかった。例の呪いの話があったからね。しかしザヴィツァ王が掟を破り、森そのものを後退させようとした……ウリンド河岸の勝利まで、ここでは対東蛮戦争の武器製造が行われていた。戦乱の終結と同時期に燃やすものがなくなったとみえる。それで砦として存続させた。北側に残る森はユーリク聖堂があるために手つかずというだけだ」
「言ってくれれば送ってあげたのに。燃料を……」
慰めとも本気ともつかない声でイズーが言い添えた。ダニーラがかぶりを振った。
「石炭も燃やしすぎれば煤で大気を穢す。多すぎる鉄の需要は、そうして世界じゅうから精霊の住処を奪っていくのだろう。巫女姫の住まいだった塔はあちらだ。入って無事に戻った“人間”はザヴィツァ王のみだというが」
対岸の砦を目に入れながら、ダニーラはそちらへと馬首を向ける。
岸辺の集落を通りかかった。魚介類も乏しそうなこの湖でまだ暮らしているらしい。
ちょうど朝の井戸汲みに出てきた人影を見て、エルリフは胸を突かれた。
(あれは……あれは! 半妖人(フェヤーン)、じゃないか!)
彼らはエルリフたちと目が合うや、さっと屋内に引っ込んだ。
半月形の湖の下端部にあたる水辺に辿りついた。エルリフはそこかしこに炭と焦げの臭いを嗅ぎ取った。ここにかつて、自分の母が住んでいた塔があったというのである。
古い石の廃墟の中に、門扉か墓所の入り口を思わせる石柱が立っている。二本の列柱の上にさらに巨大な横石が差し渡すように置かれている。
シルヴェンを止め、エルリフは真上を見上げた。こんなに重いものをどうやって持ち上げたのだろう。横石には古く謎めいた様式の模様が描かれていた。
見つめるうちに、それは地に向かって尾を引く流れ星の絵だと分かった。
「この湖は、星が落ちて出来た円形の窪地が由来だと昔話にあったな。ヴァルーシの子供なら、皆聞かされる話だが」
ダニーラが懐かしむような、怪しむような声で言う。
どれほど高い塔だったのか知る由もないが、そこから母が見下ろしていた頃は森が満ちていただろう。円形の緩やかな窪地の名残すら一望出来たかもしれない。
「そう。俺たちは、星の世界から落ちてきたんだって……」
無意識に呟くと、ダニーラとイズーの顔が少し強張った。沈んだ声のまま、続けた。
「俺たちの祖先は、空から落ちてきた……目的は、鉄だ。何か特別な鉄をここまで探しに来た。来たけれど、何かの理由で帰れなくなったんだ。人間の、せいで……!」
思わず、ぎょっとなった。それが自分の本音であるとは認めたくなかった。
イズーがこちらを見て、自分を元気づけようとしているのに気づいた。
「エルリフ、貴方の言葉で思い出したのだけれど、あたし、随分前から一つ、素朴な疑問に思ってることがあるのよ」
しかし、彼女が疑問とやらを口にしようとした時だった。
彼女が胸元に隠してるペンダントが、何かに反応しはじめた。彼女の手振りで、分かる。
エルリフは無表情を保ちながらも、迷った。
この危機をダニーラに知らせるべきか。それとも危機を利用してイズーを取り戻す、か……。
迷う間はあまりに短かった。
湖の方角から銃声がした。
ダニーラが栗毛を駆け足にした。エルリフは騎乗したまま戦うことなど一つも出来ない。ましてや彼女を守って、ここから逃げ出すことも……歯を食いしばって、追いかけるだけだ。
冬雲と同じ暗い灰色をした石の砦の円錐屋根から煙と炎があがっている。砦の周囲は先端を尖らせた厚い木の柵で囲まれ、湖岸に沿って多角形を成し、角ごとに高く見通しの効く物見櫓を備えた立派なものだった。
エルリフたちは開け放たれた門扉を走り抜けた。
砦内は兵舎に、貴賓を迎えるための館と石作りの聖堂まであった。あちこちで火の手が上がり、ぴくりとも動かない将兵たちが倒れ伏している。イズーが恐々と見つめて言った。
「なっ、な、なにあれ?!」
行く手に、鉄の鎧めいた光沢を放つ異様な人影が現れた。
人、といっても人らしいのは二本足で立ち、槍を構えている姿だけで、魚を思わせるヒレや鱗に覆われた顔は小魚を丸飲みにしようと口を開いた魚そっくりだった。鉄の鎧に見えるのは彼らの鱗のようだ。
「妖魔(メリガン)の一種が、湖から這いだしてきたとみえる」
ダニーラが呟いた直後、はっと顔色を変えた彼が手綱を絞りながらとある方向を見つめた。馬たちも、怯え始める。エルリフもその時気がついた。
「エルスラン様……!」
目線の先、展開している残兵たちの前に唸りをあげて現れた……黒狼が。
こちらに疾走してくる鋼鉄の獣を前に、冷静に踏み止まれる歩兵などまず居ない。騎兵であればなおさら、馬を駆って逃げるほうを選ぶだろう。
ましてや味方だったはずの“兵器”に襲われては……
「司令官はいずこに。砦の指揮官のラウルス大佐は無事か? 中隊長」
ダニーラは逃走中の一人の前に巧みに回りこむと、馬上から詰問した。中隊長は一瞬ぎょっとしたように立ち竦んだが、ダニーラを見て主馬頭様?! とかしこまる。
「そ、それが。ラウルス大佐は、さきほどの戦闘でお亡くなりになってしまい……!」
「そうか……だが怯むことはない。黒狼は、小回りがきかない。降り立った所を一斉射撃し横倒しにせよ! カローリ=エルスランは危険な遺物となったあれを湖へ追い落とすことをお望みになり、この私を遣わした。列を立て直せ。所詮ははりぼての細工、恐れるに足らず。止めは、この私が刺す!」
兵士たちは詐欺師も逃げ出しそうなほど滑らかなダニーラの口上をエルスラン王の代弁だと信じて疑わない。
勇ましく兵士らを激励してみせたダニーラに鞍前にいるイズーだけが猛然と反論した。
「何言ってるの、こんなしみったれた火力で勝てるわけないでしょ、巻き込まれる兵隊の身になって考えてみたらどうなの! 大体、止めっていったいどうするおつもり? 次に雷が落ちるとすれば、冠をかぶった貴方の頭でしょうね!」
「電光石火の君の機知こそ賞賛に値する。すがりついてくるだけの淑女よりも」
そもそも女性であるにも関わらずイズーを雇いあげたヴァルーシ王国側の責任者はダニーラだ。彼の声には、自らが招いた皮肉な成り行きを愉しむような響きさえあった。
「火が効かぬのも、雷に頼れぬのも君に言われるまでもない。黒狼がなぜ東蛮軍に無敵足り得たのか……戦いの場が、遮るもののない草原だったからだ。砦の中におびき寄せたのは好都合。あの中に追い込んでやる……聖なる檻の中へな」
後背の石の聖堂を見やるダニーラの揺ぎ無い冷徹さに、イズーも青褪めて黙り込む。
ダニーラは、戦闘に備えてイズーの身を引き寄せながら片手ですらりと抜刀した。
金属音を上げながら黒狼がすぐ間近に迫る。重さを感じさせないほど優雅な動きだ。
兵士たちに言っても信じないだろう、あれが、よもやエルスラン王の化身であろうとは。
かつて戦場で、黒狼を操っていたのは王だった。
では今は、誰の意識下にあるというのか。
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