第七章 踊る炎<2>
「イズー!」
「名を呼ぶだけでは助けられないぞ、エルリフ。どうにも妙な気配がすると思えば」
現れた男……ダニーラが、イズーをそっと足元に寝かせながら穏やかに諭した。
闇を忍ぶ高貴の者らしく、黒貂毛皮の縁取りある黒ビロードのマントと黒の上着(コート)で長身をおし包み、装飾のない黒鞘の短剣と両刃剣(パラシュ)を佩いている。
背後では随伴してきたらしい三人の騎士も下馬しようとしていた。いずれも貴族階級らしく、ダニーラよりもよほど装飾過多な出で立ちをしている。
「何やら、邪魔をしたような気分だな。彼女の命が惜しければ我が命に従うことだ」
「イズーを巻き込むなんて……! 陛下の命を狙う人に、従えるもんか!」
“妖精の輪”を見破るとは、ダニーラは只者ではなかった。破れかぶれになったエルリフの言葉が、背後に居た三人の騎士たちに波紋を広げた。
「陛下のお命を狙う? どういうことか、“公爵”よ。親衛隊共の裏をかく計画だと……」
「心正しいこの若者は、エルスランめがまだ存命だと信じたいのですよ。どうしました……今頃になってその酒びたりの頭に血が巡ってきたかのようなお顔ですよ、叔父上?」
ダニーラが苦笑まじりの半顔を向けると、貴族たちが顔色を変えていく。
「我が名を出すな! ことが上手く運びすぎると思ったぞ。そちの謀りごとか!」
「そうとも言えるし、天命とも申せます」
「その傲慢な言い分、馬脚を現したな、このカレイアの槍持ち風情が! 玉座を狙うのなら、なにもモルフの手など借りずともやり果せるわ!」
「我らの全てが気に入らなかったくせに、“お前たち”は。そうやって、何の罪もない姉上までも駒を捨てるように……」
「あんな堅物女! 姉弟ともども少しばかり見栄えがよいからと。陛下から、いや我が一族にも多くを負いながら、なんたる薄情、痴れ者が!」
「愚かなのはお前たち下種のほうだ。今の言、命をもって詫びてもらおうか……姉上に」
侮蔑もあらわに吐き捨てられたダニーラの声に、彼の妻の親族たちはますます色めきだつ。勝負せよ! と口上と共に剣の柄に手をかける。
が、ダニーラは長剣を抜くと見せかけて、短剣を抜き放ちながら影色の風となって地を蹴った。
地走る稲妻を見るように、闇の中でダニーラの剣光が三度疾り、絶命の声とゴボッ……という溺れるような身の毛もよだつ声だけがしばらくして、それもどさっと、草地に沈む。
ダニーラの栗毛とシルヴェン以外の三頭は、凄まじい殺気に逃げ出していった。
わずか数秒の間に三人の騎士を屠った青年は、死体を長靴のつま先で確かめて回る。今の動きはどうみても騎士の戦い方ではなく、暗闘が身に染みている者の奇襲戦法であった。
闇討ちというわけではなかった。しかし騎士に求められる戦い方でもなかった。
返り血も浴びず、平然とした貌(かお)が恐怖に竦んでいるエルリフを見返す。
「己をわきまえず、口を滑らせるとこういう代償を払うことになるのだ。覚えておくとよい、友よ。一歩間違えれば次に流されるのは愛する者の血となるぞ」
教え諭すような穏やかさで言いながら、ダニーラは抜き身についた血油を拭き取る。
真冬のカレイア地方では、殆ど太陽が上らない日々があるという。
そんな土地では凶悪なレグロナ騎士団ばかりか、太陽を嫌う青血人たちも跋扈したことだろう。領主の子息といえども闇の戦いをくぐらねば生き延びられなかったに違いない。
「だからって……俺のせいで、人が、三人も。それに、貴方の親戚じゃ……!」
「君が甘いとは言わない、エルスランが、だ。私ならば歯向かうものは大貴族も愚民も皆、等しく殺してやる……冗談だ」
当然、双方とも笑い声をたてたりはしなかった。
単に利用されたのだ。
ダニーラはどのみち、この道中で煩わしい親戚という”駒“を処分するつもりだったに違いない。
「憎しみは人を鍛えもする。過ぎれば壊しもする。多くの人の心は陶器のように脆い……形を保っていれば美しいが、壊れれば美も損なわれ世の誰も見向きもしない……姉上が生前、私の心の処し方を誡(いまし)めて仰った言葉だ。私の心はまだ形を保っているだろうか。見てくれる人はもういない……いっそ鉄のようになれたらいいのに」
「……鉄だって、傷一つでも壊れやすくなる。貴方もこの前、見たはずです!」
ダニーラはエルリフのこの答えに、かすかに、声を出さずに笑んだ。
その笑顔のまま、彼はエルリフの腹部に拳を見舞った。胃を背中まで貫かれたのかと思うほどの激痛に、声も出せずにくず折れる。
「愚民どもに餌をばらまいてくれたことへのささやかな腹いせ、だ」
ダニーラはわざと気絶はさせず、苦痛を長引かせたのだ。脂汗を浮かべ、血混じりの体液を吐きながらなんとか半身を起こす。
ダニーラがイズーを気絶させてくれたことに感謝した。彼女ならエルリフを庇って正直に言いかねない……その策は自分が考えたのよ、と。それを知ったらいまのダニーラが彼女をどうするか。考えるだけで恐ろしい。
良かった、自分が殴られるだけで、本当に良かった……
両手を縛られたイズーを先に押し上げ、ダニーラが騎乗しようとしている。
無意識に手が背側に差した“火護りの刀”を抜いていた。
叫び声をあげ、エルリフはダニーラの背に斬りつけた。
前に居たはずの彼の姿が夜の中の影のように消え失せた。体が、何が起こったのかも分からないままに背中から叩きつけられ、夜の森に転がる。
手から離れくるくると地面に突き立った小刀を呆然と見るうち影が音もなく近づく。
「愚かな……叫び声をあげるのは相手を怯ませることが出来る、しかし鞘走りの音をさせてどうする? もっともそれが“無”ければ君を本能的に返り討ちにしてしまったろう」
冷酷で穏やかな声は、それ自体が魔的な呪力をもつようだった。
ひっくり返ったエルリフの喉の急所が踵で踏みつけられる。喘ぐ声すらも潰される。
「それに君は今、背中から襲い掛かり、私を斬ろうとしたな。せめて、刺すべきだった。殺さず、適度に負傷させ隙でも生み出そうと考えたのだろう?」
まるで背中に目でもあったのかと思うように彼は淡々と言いながらようやく足を外した。
エルリフは咳き込むように息を吸い込んだ。
「答えろ、この期に及んで私に憐れみをかけるのはなぜだ」
「……わからない。貴方が、ご自分を見失っていること以外、俺、わからない……!」
エルリフは、苦痛と屈辱のなかで、かすれた声を絞り出した。
イズーを奪われた。ミーリュカも傷つけられた。ダニーラの言う通り、憎しみよりも何よりも自分の愚かさ、無力さが許し難い。
エルリフから離れたダニーラが、身を屈めて小刀を拾いあげた。
「君は、私が黒狼の暴走を利用し、王になろうとしていると言った。果たして私こそ……鞘を失くした刃、に過ぎないのかもしれない」
謎めいた独白とともに、彼は夜光にまっすぐな白刃をかざした。
「……なんと、美しい。殺しで曇らせるべきではないな。勇気を持つことは恥ではない、自分が無力であると知ることも……馬を引け、エルリフ」
「どこへ……どこへ、行く気、だ……!」
愚問だ、と、ダニーラは小刀の握りを向けてエルリフに返すと、ふい、と背を向けた。
確かに、愚問だった。ドゥーガ湖以外に、行くべきところはありはしなかった。
深い針葉樹の森には、細々とした街道が通っている。
かつては閉ざされていた森に、古来ヴァルーシ人の開拓民がこじあけた細道だった。
暁闇の中に薄紅色の曙光が滲み出す。森を抜け、辿り着いたドゥーガ湖の湖面は鏡の色をしていた。時折わずかに震えてさざ波を起こすために水面であるとわかるほど、澄み切っている。
幸いこれまでにイズーに乗馬術は教わっていたし、シルヴェンは完璧に調教された馬だった。むやみに手綱を引かずともエルリフの望む方向へ……何より、主人であるイズーの後を追って、走り出した。
鞍上から、うら寂びれた地と灰色の空の境界を見晴るかしエルリフは愕然となった。
(森が……森が、ない!?)
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