第六章 血と鋼<2>

          

 ふと、目の端に異質なものがちらついた気がした。


 カローリ! カローリ! と熱狂的に騒ぐ晴れ着姿の群衆の中、野卑で、驚くほど上質な毛皮を頭から全身にまとっている者……縫いつけもひどくぞんざいだ。

(毛もくじゃら……?)

 しかも、二人もいる。彼らはそっと混雑の中で二手に分かれた。一人はじっと、白の街入りする寸前の王の大橇を見据えて死角に回り込んでいる。

 嫌な予感に突き動かされ、エルリフは早足になって人だかりを押しのけた。

「おい、そこの! おいったら!」

 毛皮男がエルリフの声に気がつき、ぎょっと振り返る。瞬間、こちらの血の気も引いた。どこかで見た顔だ。男が、虚無的な笑みを浮かべた。火薬の匂いがした。

「レイフ……レイフ・クルーゼ?!」

 ウーロムで最後に見た時の、哀れな姿を思い出すまでもなかった。

 ミーチャ! と、エルリフは警戒の声をあげる。だが黄色い声にかき消された。沿道から盛んに手を振るセヴェルグラドの乙女たちに愛想を振りまいていたミーリュカが、それでもはっと動きを止めた。碧眼が、毛もくじゃらを捉えて凍り付く。

 彼が、陛下! と叫んでエルスラン王に覆い被さった瞬間、恐ろしく鈍重な爆音がした。

「……ミーリュカ?!」

 割れ鐘のような王の怒声が響き渡る。観衆の歓呼が動揺に、そして悲鳴へと一転する。

 この野郎! と絶叫し飛びかかったエルリフは男を押し倒した。頭から毛皮をはぎ取った。髭を生やし放題、やせ衰え、眼光鬼気迫るレイフは無言でエルリフを嘲笑した。正気の目つきではない。どうして、なぜ、こんなところで、こんなことに?

 憤怒の形相のヴォルコフが駆けつけ、エルリフからもぎはなすように下手人を引き立てた。我に返り、息をあげながら大橇にたどり着き、見た。全身が震えだして止まらない。エルスラン王の金襴の衣装は血塗られていた……王の血ではなく、彼が胸に、狐に喰散らかされた白鳥のように抱き留めている者の血だった。まったく動かず、蝋面のように悲しげな顔をしたミーリュカのわき腹から、どくどくと、まだ鮮血がやまない。

「おのれ……おのれ、おのれ、おのれぇぇ!」

 激怒した王が、再び吼えた。愛する者を二度も目の前で奪われた男は、激昂した。 

 その時、ぴしっと音がした。劣化した金属がたてる音にも似ていた。

 反対側からもう一人の毛もくじゃらが飛びかかって、銃口を向けるのが見えた。

 では、あっちはワシリーか。

「死ね、堕天女め!」

 やめろ! とエルリフが踏み込むと同時、単発銃が火をふき、逸れた弾丸がユーリク神像の背中、ちょうどエルリフが彫りこんだ竜の目に命中した。

 めりこんだ弾丸がまるで水銀のようにぬるりと溶け出すや、“合金”されるのをはっきりと見た。

 ユーリク像が震えだした。穏やかな笑みをたたえていた青年神の顔に涙のような筋が走る。ついで足下から、地獄めいた黒炎が立ち上りはじめた。俺の像が! 誰かが狂気じみた声で叫んだ。自分自身(エルリフ)の声だった。

 ピシッ、ピシッ……と、燃える魔炎に惨たらしく炙られて、二ヶ月以上をかけて結集した努力と技量のすべての具現たる細工が溶け、はがれ落ち、黒光りするあの魔鉄(マギスタリ)へと聖なるものを嘲笑うかのように転じていき、粘土のように禍々しく変形していく。

 清らかな鉄へと造り換えたはずだ、他ならぬこの自分が。それなのに。

 錯乱して飛出そうとした瞬間、背後から強く誰かに肩を掴まれた。

 エルスラン王だった。顔に表情がない。その見開かれた双眸は“破壊の日”に見た、恐ろしく謎めいた火床を思わせるあの炎の色……!

 王は、ぐったりとしたまま生死不明なミーリュカを今まで自分が座していた真紅の琥珀織りの座に寝かせつけていた。まるで、眠り込んでしまったわが子のように。喪心寸前のエルリフも、そちらへと突き倒された。


《エーリャ、さあ、行きましょう、いまこそ……!》


 異様に蠢くあの女の声がした。次の瞬間、エルリフは背筋が凍るようなものをみた。

 白いヴェールを被り、瞳を伏せた女の幻影がエルスラン王の前に現れたのだ。

「イリィナ……!」

 それが本当にイリィナ妃に似ているのかはエルリフには分からない。が、ヴェールを被った美貌の女が、手を差し伸べながら王に近づく……今は、それだけで十分だったのだ。

「陛下、だめです、あれは、妖精のまやかしです!」

 自分の声ではだめなのだ。ミーリュカでないと。ミーリュカでないと……!

 再び魂の囚人となってしまった王が“イリィナ”の肩を抱き寄せた。二人が惹きあうように接吻した瞬間、光が弾け、何も見えなくなった。倒れ伏す群衆や衛兵らは目を押さえてのたうっている。エルリフだけは、目を見開いていた。立ち尽くすエルスラン王の身体を包むように黒い金属片のつむじ風が巻き起こり、祭りの飾りも、人々の悲鳴も巻き込んでどんどん巨大になっていった。触れた者は血を流すほど凶暴な風は、次の瞬間、凝縮した。壊したはずの黒い獣……黒狼となって。悪夢の魔法を見るようだった。いや、完全に、この世のものではなかった。もはや鍛冶屋や鋳物師の世界ではなかった。手に負えない、そう思った。ああ、本当に。

 近衛兵も、黒服たちも立ち直りはしたものの浮き足だっている。彼らが再び目をやると、王が居た場所に、黒狼が出現したように見えただろう。

 しかも、明らかに以前とは形が違う。造りは、邪悪なまでに粗野だ。

(ああ、ついにエルスラン様を丸ごと、食らってしまった……!)

「陛下、陛下ぁ! この化け物めが、よくもまた、出おったな、ぶっ壊してくれる!」

 真っ先に我に返ったのは、愛息を傷つけられ一番動揺しているはずのヴォルコフ将軍であった。よみがえった黒狼を見つめる武人の顔には憎しみではなく義憤が燃えていた。あのような”モノ”が自然に生まれでるはずはない。おぞましい反自然であり、聖なるヴァルーシにはまったく相応しくない、そう、本能的に知っているのだ。

 指示もないまま浮き足立つ近衛兵を押しのけて、怪物とヴォルコフは激しくもがきあうように激突した。渾身の力で戦斧が叩きつけられる。が、第一撃は跳ね返された。再び戦斧を振り上げようとした将軍の憤怒の表情に、戸惑いが浮かぶ。見れば、他の兵士たちも使い慣れたはずの鋼の得物の感触に違和感を感じているらしい。

 黒狼が鋼鉄のあぎとを開き、嘲笑うかのように金属音の咆哮をあげたその時。

 戦士たちが持っていたあらゆる鉄、鋼の武器がいっせいにしなり、黒狼の体に吸いつきだした。ヴォルコフでさえ飛んでいった自分の斧をあっけにとられて見やっている。

(磁石だ……あいつはいま、物凄い磁石みたいに、力を出してるんだ……!)

 ありとあらゆる剣や斧、槍を身に突き立てたその姿は、怒れる鋼鉄の神そのもの。

 それが先ほど弾丸を飲み込んだ時のように徐徐に体内へと合金されていく。

 戦慄を通り越し、絶望に捕われる。もう今日は何度も絶望しているけれど。

 手負いの獣のように暴れ出し、鉄を吸収しては凶暴化していく黒狼の鉤爪が親衛隊、近衛兵、市民の区別もなく切り裂いていく。

 鉄の武器を失った人間は、こんなにも脆い存在だっただろうか。

 鉄とは、こんなにも恐怖をまき散らすモノだっただろうか。


 恐慌を来たして逃げようとする兵士の背中が噛み付かれる。血しぶきをあげて倒れ伏し、死体の上にまた、死体が重なる。その中には、取り押さえられていたクルーゼ兄弟も居た。レイフは一瞬で絶命したが、ワシリーは牙に裂かれたあと、もがき苦しんで、事切れた。

「我らの王を殺した化け物め、許さぬぞ!」

 その時だった。

 抜き身を下げたダニーラが大音声で言い放ちながら最前線に躍り出た。袖を通さずに着、高価な狐毛皮の折り襟の羽織上衣をまとった華麗な出で立ちは所々騒乱で切り裂かれ、端麗な貌(かお)には誰かの返り血や泥がはねあがっていた。これほど眼光鋭い彼を見るのは初めてだった。

「たったいま、非常大権が発動された! 臣民は我が言に従い給え。武器を持つ者は引け! 鉄を食らう化け物に鉄を与えるは焚き火に薪を与えるようなもの。投石隊、前へ!」

 彼が引き連れてきたのは通常は攻城に使われる投石機や、石弓隊であった。

 一斉に放たれた石の弾丸のいくつかは黒狼の体に命中し、鉄の獣がよろめく。

 黒狼の目が、エルリフをギロリと視(み)た。


《来(こ)よ……エーリャ!》


 そして、黒狼は呆然とするエルリフを置き去りに、北へと走り出した。もちろん道なりに進んだりはしなかった。粗末な木の家の屋根に乗りあがり、破壊と悲鳴を巻き起こしながら、まるで飛ぶように駆け去った。 

 誰も、深追いはしなかった。祭りの後、あるいは、嵐の後、か。

 将兵も市民も、そしてダニーラやヴォルコフでさえも、しばしの間、呆然自失していた。

「……東蛮戦でさえ、これほどの汚辱はなかったものを」

 ヴォルコフが、個人的な感傷が混じることを恐れるようにそれだけを呟き、両手で自分の頬を叩いた。それからようやく、傷ついた息子の元へと唇を引き結んで歩き出す。

「どきな! ほら、どいたどいた! エルリフ! 棟梁、大丈夫か!」

 騒乱の中をかきわけてサンドールが血相を変えて走り寄ってきたとき、エルリフは緊張の糸が切れたようにわっと泣き出し、彼の手で支えられる始末になった。

「助けてくれ、サンドール! なんでもするから、ミーリュカを助けてくれ!」

「だめじゃ。弾は幸い貫通しておるようだが、体温が下がっておる……」

 息子を診、応急処置はしたものの、ヴォルコフはうな垂れていた。サンドールはぐったりしたミーリュカの傷を診て顔をしかめ、ついで細い首筋に手を当て何事か呪文を唱えた。すると固く閉じられていた目蓋が震え、沈んだ瞳が開かれた。色味のない唇が、陛下……? と掠れ声を発し、切りそろえたばかりの亜麻色の髪が、はらりと頬を滑り落ちる。

 少年は手を強く握って見守るエルリフを認めて、もう一度言った。

「エーリャ……何が、起こったの? とっても痛くて、寒い……陛下は? 陛下はどこ?」

 絶句した。言えるわけがなかった。こんな状態の彼に真実を告げたら、死んでしまう。

「て……敵が。正体不明の奴らが乱入したんだ。陛下は君を傷つけられて、とても激怒されて……出撃されたよ。すぐにお戻りになるさ。本当だ。しっかりしてくれ、ミーリュカ!」

「陛下が、戻られたら…ボク、たくさん、叱って、もらわ、なきゃ……」

 がくり、と束の間の夢幻だったように、ミーリュカが目を閉じ、力を失った。

「ミーチャ! ミーチャ! ミーチャぁぁ!」

「だーっ、あんたはこいつの恋人かっ! 気絶しただけだっての。下がってな、まだ“命の火”は残ってる! 火だ、火を持ってないか、エルリフ! ええい、晴れの日だからって呪具の一切合切置いてきちまった! オレが熾(おこ)しているヒマはねえ!」

 火? と泣きはらしてもう視界もよくない状態のまま飾りベルトの背側に下げていた“火護りの刀”を夢中で引っ張り出す。父がくれた火打ち鉄が下がっている。

「おっ、さすがは錆びても転んでも鍛冶屋。そいつをオレの掌の前で、打て!」

 言われた通り、震える手でミーリュカのわき腹の傷にかざしているサンドールの両手に近づけ、打ちつけた。火花を得た瞬間、熱くはないが太陽光に似た黄金色の炎の渦がくるくると彼の手の中に生まれた。彼がそれを少年の傷口に押し付けると吸い込まれた。か細かった息は安定し、頬にうっすら血の気も差した。だが、傷が塞がったわけではない。


 この世ならぬ炎の色は、呆然と見守るだけのエルリフの錯乱した心を焦がし続けた。

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