第六章 血と鋼<1>

 大聖堂の鐘が高らかに鳴っている。エルリフが聴きたいと思っていた鐘の音だ。

 王都セヴェルグラドは、春の穏やかな掌に包まれているように一体となって、祭りの始まりを待ちわびていた。


 王城の丘にてまず大僧正による祝典が催されるが、平民は見ることが出来ない。その後、王は太陽女神とユーリク神像、廷臣らを引き連れて王城門から“暁の広場”で初めて国民に姿を見せる。そして特別な大橇(そり)に乗り込み、セヴェルグラド市街を通り、郊外にある諸精霊の至聖所まで、沿道を巡幸しながら向かう。そこでは野外大宴会が開かれるのが恒例だとか。

 今日のエルスラン王は偉大なる英雄王ではなく、古代の名残を残す祭司王として国民に神々の祝福と大地の恵みを振舞う役目だ。

 エルリフは“暁の広場”での対面の後、栄えある王の巡幸行列の中に加わる手はずになっていた。たった今、ユーリク神像を武器庫から大聖堂の管轄へと引き渡してきたところだ。虚脱感に加え、朝からやたらと着替えに時間がかかってしまい、ぐったりだった。初めての謁見の日にまとった上衣より丈が長い。我ながら実に出世したものだと思う。

 談笑しているボルドスたちからも浮き上がった心地で、エルリフがぼんやりと、市民総出で飾りたてた花の飾り柱を見上げていた時である。

 びしっと鞭がしなり、肩口をひっぱたかれた。痛っ、と振り返る。

「おはよう、ゴルダロス殿」

 たっぷりと揶揄を含んだ馴染みの声。

 黒貂の毛皮の襟のついた黒い長衣(コート)に、瀟洒な西方風の羽根帽子をかぶった少年が朝に舞い降りたいたずら妖精のように小首を傾げた。顎の下あたりで綺麗なかたちに切り揃えられた亜麻色の髪が揺れ、以前よりも落ち着いたさわやかな香りがした。

 思わず、叩かれた痛みも忘れてエルリフは驚きの声を発した。

「ミーチャ! 髪、いつの間に切ったんだ!」

「だって、もうすぐ春だから。陛下もね、良く似合ってるって言ってくださったんだ!」

「うん、可愛いよ。とっても」

「ありがと。全くどっちが聖像だかわかんないくらい着飾ったな、お前も。いいことだ!」

 墜ちた天女のような姿形で日々を戦い、王衣の陰から神経を尖らせてた少年もひと冬の間にずいぶん大人びた。以前の凄絶なまでの冷やかさはなりをひそめ、若者らしい生気が馨るようだった。鉄鋲の首輪の代わりに、いまはエルリフが大膳職侍従長昇進祝いに贈った白金の首飾りをつけている。今では憚ることなく二人で飯屋にもいくし、ヴォルコフ家の晩餐に招待されたこともあった。どちらかがどちらかの職場に顔を出したりもする。

 ミーリュカが名誉を回復しつつあると同時に、エルリフも新しい自分を発見した。それは、毎日が楽しい、ということだった。今では誰もが自分に一目置いている。ウーロムの名もなき田舎鍛冶屋だった過去など、舟が岸辺を離れるように遠くなっていった。

「君は? カローリとご一緒するんだろう?」

「もちろん。バカな過激派が近頃かしましいからな! まったく、黒い獣がやっと居なくなったと思ったら、ネズミみたいに次がわくんだから」

 優美な笑みと共にいうその内容は、なかなかに重い。

 エルスラン王が発したレグロナ帝国との停戦および皇女との婚姻は、今でも物議を醸している。停戦が不都合な好戦派、婚姻による異国の文化流入をおそれる保守派……と。

「黒い獣っていえば、さあ……」

「ん? なにか、気になることでも?」

「ちょっとねー。お前だから言うけど、へんな毛もくじゃらが、ボクの視界にちらつくんだよね、近頃。今日のいい日にまたあれが出たらイヤだなー、って思っちゃって、さ」

「毛もくじゃら、って一体なんだ?」

「大きい犬みたいなのがふっと通りの反対側を見たりすると、居るんだ。物乞いか、毛皮売りの猟師だと思うけど。ま、つきまとわれるのは女も男も慣れてるけどね!」

 などと言って、以前の通り小悪魔的な笑みでくすくす、と笑む。

 祭日を迎えたセヴェルグラドには中央(セヴ)の村落は元より、各地方からも人々が流入している。人の出入りの把握は事実上不可能だ。

「そーいえば。爆弾女、まだお前んところに居候してるの?」

「え? ああ、イズーな。今日はシャティたちと一緒にどこかで行列を見てるはずだ」

「まったくあの女、すっかり捕まえた気になって……」

 おとがいに細い指を当ててなにやら不穏に考え込むミーリュカは、ぽかんとしたままのエルリフをちら、と見やって、小さくため息をついた。

「エーリャ! ぼさっとしてないで、儀式が終わったら寄り道せずにボクの所に来るんだぞ。陛下といっしょにご馳走、いっぱい食べに行くんだから!」

      ※

 “暁の広場”は、信じられないほどの大混雑になっていた。

 この広場の名の由来は、石畳が朝陽に最もよく照り映えるところからつけられたという。しかし今は石畳など見える余地もない。

 巡幸に加わる貴族や士族の橇や馬車だけでも大行列だ。そのいずれにも、蔵をすべて開け放ったのではないかと思うほどの荷物が満載されている。朝の澄みきった空の下で光を放つ黄金の宝器、聖画、七宝細工の酒杯に大皿、山と積まれた果物や菓子類は沿道ぞいの市民に配られるためのものである。

 文字通りのお祭り騒ぎの中を、毛皮外套に身を固めた書記官たちや、近衛隊が動き回って、足りないものがないかどうか大声で点呼しあっている。

 大聖堂の鐘が鳴らされ、ついにはセヴェルグラドじゅうの鐘が続く。それまでは混沌としていた人の波が、ぴたりと列をなした。お仕着せを着た若手の士官たちが王城門からまっすぐに深紅の絨毯を手際よく広げ、路を作る。銀の鎖帷子に黄金の兜、武器庫にあった儀礼用の装備にかためた近衛隊が要所要所を固める。

 緋色の繻子の聖衣をきた僧侶たちが唱和と共に現れ、王都と王国を、聖句で祝福した。

 そしてついに、カローリ=エルスランの、燦然たる姿が王城門から現れた。

 金と銀、宝石と真珠の散りばめられた王衣に身を包み、長く豊かな黒髪には黒金(ニエロ)の髪飾り、王冠と王錫の代わりに常緑樹の冠と白樺の若枝を手に歩む高雅な姿は、人の身とは思えないほど美しい。

 朝陽と残雪の反射光が、美しく完璧な塑像のような王を真鍮さながらに照らしている。

 主馬頭を筆頭に、大貴族たちが続く。彼らもまた、最高に着飾った礼装で、息を呑むほど優雅だ。次は、黒外套に身をつつんだ王の親衛隊らである。長柄のついた戦斧を手に、ヴォルコフが勇ましく先導している。黒服の上から装備した肩被式の銀甲冑は東蛮軍の胴鎧を思い起こさせる勇壮華麗なものだ。もちろん武器庫工房製である。

 もっとも、この行列を苦い思いで見つめている者たちもいる。

巡幸に選ばれなかった貴族たちの列だ。肩身狭く頭を垂れる彼らの前を、王の祭礼行列は悠然と行き過ぎる。

 国民の歓呼と金色の日射しの中、カローリ=エルスランが峻厳な表情を解きほぐし、笑顔で手を振った。広場に入りきれず、屋根や城壁にまでよじ登った民衆らが地鳴りにも匹敵するほどの歓呼の声をあげた。王が民に“笑顔”を見せる一年で唯一の機会である。幸運にも広場に入れた市民らも大歓声をあげ、押し合いへし合い、「我らの父なるカローリ」にもっと近づこうと躍起になる。近衛兵らが出すぎないよう、見張っている。

「ああ、みて御覧よ! 今年のカローリは本当にお健やかな笑顔をされていること……!」

 エルリフの横にいた見知らぬ夫婦はそう言って、涙ぐんでさえいた。

 興奮が最高潮に達したその時、いよいよ別の職人らが作った太陽女神の真新しい黄金板絵と、エルリフたちのユーリク神像が御輿に乗って運ばれてきた。

 王と廷臣、僧侶たち、そして民衆も聖なる物に向かって頭を垂れる。

 エルリフも、半ば放心して眺めていた。

本当に、自分が造ったのだろうか。 本当にあれが忌まわしい魔鉄だったものなのだろうか……きっと今日、朝陽が登った瞬間に、ユーリク像はこの世のものではない聖なる物質に変わったのだ。もう一生分の仕事をやり遂げたような気分だった。あれ以上のものは、二度と自分には作れないだろう……

 やがて国民の歓呼に答えながら王は天蓋付きの見事な大橇(おおぞり)に乗り込む。

 真紅の琥珀織りを敷き詰めた座席に乗り込んだ王の様子を見計らって、ミーリュカが近づき、橇の側面に足をひっかけて立つと、まるで精霊が付き添っているように華やいだ。

 黒の親衛隊、そして華麗なビロードの軍装で身を固めた生え抜きの銃兵隊らも騎乗し、喇叭が吹き鳴らされる。先頭のヴォルコフ将軍が馬に鞭をくれた。しんがりは近衛騎馬隊と、都市民に配られるパンや菓子を満載した荷橇の群れだった。

 太陽の下を、ユーリクの像とともに春の使者に扮した王の大隊が動き出す。“暁の広場”を一巡し、城門をくぐって白の街へ。


 余韻覚めやらぬ中、エルリフが他の職人たちと共に行列について歩きはじめた時だった。

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