第六章 血と鋼<3>

 その後のことは、錯乱しすぎてほとんど覚えていない。


 気がつくとエルリフは、武器庫工房の仕事場の隅で、うずくまっていた。

 うっとうしく忌々しい長衣は脱ぎ捨てて、もう暖炉の中で灰になっている。

 わかっていた。自分がもはや今朝までの“誉れある”鍛冶師エルリフ・ゴルダロスとは似てもにつかない、惨めな存在へと転落した、ということだけは。

 大きな窓からは不吉なまでに赤い朱金色の夕陽が差し込む。

 祝祭から一転、騒然となった王都には戒厳令が敷かれ、衝撃と動揺の中にある市民、それに警備責任を巡って親衛隊と近衛隊が睨み合い、一触即発の状態が続いているという。

 ミーリュカは実家でサンドールや軍医の手当てを受けている。

 こうしている間も、ミーリュカは死の瀬戸際で待っているのだ。王の帰りを。親友のエルリフがついた嘘だけを信じて。その罪悪感と恐怖が重しのように体にのしかかる。

 なおも心を凍らせるような事実が、二つもあった。

 まず、サンドールがしたことは治癒術ではなく一時的に命の火に活力を与えたまでのことで、繰り返すたびに効き目は弱まってしまうという。あとはミーリュカ自身の回復を待つしかないのだ。

 もう一つは、ボルドスがあの騒乱の最中に命を落とした犠牲者の一人であったこと、だ。

 騒乱のさなかに引き倒された商店の下敷きになったという。誰からも慕われ、古参であり、武器庫の職人たちの信頼を広く集めていた彼の死。

 今、エルリフに誰も近づかないのは無理からぬことだった。皆それぞれが自分の中の哀しみに沈んでいるのだ。もはやエルリフなど疫病神。竜を彫りこんだ傲慢な鍛冶師として忌避されているに違いない。心正しきボルドスの方が召されてしまうなんて……と。

 王都になど来たことが間違いだった。ウーロムの無名の野鍛冶でいれば良かった。

(ミーリュカを、俺、守るって……約束、したのに……!)

 また飽きもせず溢れてきた熱い涙におぼれながら、エルリフは呻くように嘆願した。

「ユーリク様。お許しください……俺を、罰してください……!」

 と、その瞬間。誰かがノックもせずに扉をあけはなった。エルリフは膝に顔を埋めたまま振り返りもしなかった。

 足音で聞き分けられるぐらいには長く一緒に居たから。

 それとも、ユーリク様がもう遣わしたのだろうか……“彼女”を?


「あら、毛帽子。隅っこで、鼠が泣いているのかと思ったわ。お別れを言いに来たの」 

 イズーの声は初めて会った時よりも冷ややかに、エルリフの孤独な背中へと突き立った。

「昨日、ここで話した時と、世界は変わってしまった。それだけは……とても悲しい。あたしはあの祭りの騒ぎに紛れて王様やあんたたちが街を出ていくところを見届けて、そのまま消えるつもりだった。でもあんなことになって……あんたに一言言いつけてやらないと、気が済まなくなったのよ!」

 いっこうに振り向かないエルリフに、彼女がしびれを切らした。エルリフはのろのろと顔を上げ、おそらく汚れと、涙のあとで見る影もない顔を、半分だけ向けた。

「消えるって……どこに?」

「……決めてないわ。でもお土産を手に入れたし、やることは出来たわ」

「魔鉄のことか」

 もしかしてイズーはエルリフを怒らせようとしているのかも知れなかった。けれど自分の心は冷え切った銑鉄のように、ただ重く、ひび割れる寸前で、何も響かない。

「昨日のこと、嘘、だったのか。一緒に住んでもいい、って……」

「……いいえ。あの時は、確かにそんな夢を見ていたわ。でも、それよりも、あんたが浮かれてあたしに預けた魔鉄のことを忘れて欲しいとも願ってた」

 無気力なエルリフに、イズーのほうが先に怒り出した。

「あんたはいま、ね、全てを失うか、全てを取り戻すかの崖っぷちにいるのよ! あんたが今のぞいているのは地の底よ。そのまま落ちていいわけ? はっきり答えなさいよ!」

「どうでもい……いい、もう。オレが最低男だって、君が一番よく、知ってる……だろ」

「この……このぉ、ダメ鍛冶屋!」

 一気に間を詰めたイズーはエルリフの胸ぐらを両腕で掴みあげ、壁に押しやった。背中から激しくぶつかり、それでも項垂れたままのエルリフを、容赦なく揺さぶり続ける。

「あんた前に言ったわよね? あたしのことが知りたいって。あたしも、あんたがどこまでやれる男なのか、知りたくなってきたところだったのよ! それとも終わり? ここで本当に終わるつもりなの?! あんたが諦めたら、エルスラン王も終わりなのよ!」

「王は、死んだって、皆が言ってる……」

「確かめたの? 今は泣いてる場合じゃない。圧力砲で水ぶっかけるわよ! 鉄に向かい合っていた時のあんたはいったい、どこに行っちゃったのよ!」

「……その鉄が、俺を裏切ったんだ!」

 エルリフはイズーの手を振り払うと、その手を拳にし、壁を叩きつけた。振動で、壁にかかっていた工具のいくつかが甲高い音を立てて石床に落ちる。

 しかしイズーという娘は、怯えるどころかますます柳眉を逆立て、怒りの形相になった。

「あら、まあ、見事なまでの悲劇の主人公っぷり。今のあんたに比べたら花畑のほうがよっぽど男らしいわよ!」

「なにもかも、俺の仕事の全部が無駄だったじゃないか……!」

「無駄なもんですか! 魔鉄は無敵じゃないのよ。三ヶ月前に一度壊されて、普通の鉄になっていたのは確かよ。それがあんなことになって……闇の力を取り戻した。でも、以前にはしなかったことを二つもしたわ。王様を幻影で誘惑したり、鉄の武器を食らったり。あれは“自分”が弱っているからそうしたのよ。もう一度壊せばいい。そしてまた造り直せばいい。あんたの仕事に、はじめから終わりなんてないのよ!」

 彼女の強い信念に、重くさび付いていたエルリフの心が、少しだけ動き出した。

(そうだ。イズーの言う通り、魔鉄の”呪い”は俺の鍛錬で取り除かれた、けど元々の、古い”呪い”はまだ残っていて、執念深くエルスラン様を狙っていたんだ)

 ドゥーガの火床。古代の呪いはそこの炎でしか取り除けないのではないか。

 来よ、エーリャ……あれはエルスラン王のことだと思っていた。

 まさかもう一人のエーリャ、つまりこの自分をも呼んでいたのだとしたら?


「イズー。魔鉄は、危険な代物だ。持っていくのはよくない……どこにあるんだ」

「教えない。魔鉄は、無機物という本来は命無きものに命を宿したもの……これこそ錬金科学(アルキミテカ)が求める秘儀と同質のものかもしれないわ」

「俺にはそんな……そんなものとは思えない。だいたい、そんなことをして何になる? 研究のために……兵器のために、何人が、傷ついた……?」

「そんな問いかけ、あたしの前では無意味よ」

 イズーが声を荒げた。そして、彼女は思いもかけないことをエルリフに告白した。

「今日、あたしの生まれた日なの。あたしは、十九年前のエルの大祭の日に生まれた。母さんが生きている時に言っていたわ……貴女はヴァルーシの神様に祝福されている、いつかセヴェルグラドの大祭を一緒に眺めたいわねって。……でも、母さんは嘘つきだった」 

 イズーは、ほとんど歯を食いしばるように、言葉を搾り出していた。

「母はヴァルーシ人の移民、父はアルハーン人の薬問屋の若主人で、裕福だった。今思い出しても何一つ不自由のない子供時代だった。でも父がある日、錬金術にのめりこみはじめたの。錬金術って、とてもお金がかかるのよ。黄金を生み出すのに黄金を食いつぶすっていうわけ。それで借金まみれになって、本業は破綻、母は過労で死んでしまった。そしてある時、知ってしまった……自分も、父の借金のカタにされていたってね。父さんは、あたしが連れ去られても実験室から出てこなかったわ」

 聞き入るエルリフの前で、イズーは燃え立っていた。

「幸い、あたしは親戚の援助で救い出されたけれど、家を出た。父の謝罪も受けなかったわ。ある時父の弟子という人があたしを尋ねてきたの。今思い出しても、腹がたつ……あたし、その優男に恋してしまったのよ。父はあたしが戻ってきたことに凄く喜んでいた。でもあたしが家に戻った本当の理由は、あの男に会うためだった……。ある時、学院から帰ったら強盗に襲われて父が倒れていた。手引きしたのは弟子……そいつ、名うての詐欺師だったのよ! 鋼の強化法の秘密も盗まれていたわ。失恋と破滅が同時に来たりすると、女って、氷が一瞬で沸騰するみたいに違う生き物に変わるんじゃないかと思うわ。世間からも憐れまれて……残ったのは、家族を破滅させた錬金科学の知識だけ……」

 彼女の、闇の中では深い暗褐色に燃える髪は情熱で染められたのだろうか。

「でも、それを武器に選んだわ。もう男にも誰も頼らないって。ある意味……愚か、よね」

 エルリフは、彼女を愚かだとは微塵も思わなかった。勇敢で、美しいと思った。

 どうしたら彼女の心に、もっと近づけるのだろうか。

もっと近づきたい、触れてみたい。

「錬金科学で、あたしはあの男が他人に売りつけたよりも精度の高い実験で名前を売って、財力も得たわ。それでもあの男に罪の裁きを受けさせるのは難しかった……暗黒街が幾重にも立ちはだかって。危ない目にも遭ったけれどその度にシャティに助けられた。でもある日、そいつが余罪であっさり投獄されてしまったの。あたしは急に空っぽになった。実験と復讐だけに生きてきた道の先に何も見えなかった……その数日後のことよ、ヴァルーシでの錬金術師の仕事の募集を見つけた。それで気が付いたの、そう、あたしの半分は、違う土地の人間でもあるんだわ、って。一度、自分を零(ゼロ)にしよう、母さんの世界も見に行こう、それから居場所を見つけて、世界が羨むほど一流の錬金術師を目指そうって。だから……この国に、来たのよ」

 荒れ果てた心の中で、きっと彼女の身のもう半分に流れていた異国の血が彼女を呼んだのだ。春の大祭の、今日まではここに居よう、と。

 今の自分はとても惨めなはずなのに、エルリフの心は歓喜に羽ばたき、舞い上がる。

 あるいは、落ちていくのにも、似て。

(俺は、この娘(こ)が好きだ)

 一方で、冷ややかにこう、自分を責める声が聞こえる。

(こんな時に恋をするなんて、どうかしてる……ひどい男だ)

 ミーリュカが傷つき、職人たちが悲しみに暮れているという、この夜に。

 だが。鋼を刃へと研ぎ澄ますには熱が必要だと、何よりも知っているのは自分ではないのか? いまの自分は彼女にふさわしいだろうか。エルリフ・ゴルダロス。

「どう、思った? ヴァルーシに……都に初めてやって来たとき」

 エルリフの問いかけに、イズーは小さく口角をあげた。

「それはあんたも知っているんじゃない? イライラしたわ。何もかも大仰で、時代遅れに見えて。春までなんてもっての他、本当にさっさと立ち去るつもりだったわ。でも……」

 強気だったイズーの目線が刹那、揺らいで、エルリフをうかがうものに変わる。

「あんたを、いえ、貴方の仕事を見ていたら、もう少し居たほうがいいかなって……もしかしたら……好きになっていくかもしれないって、想いはじめて」

「気が変わってくれて、良かった。いい忘れてた、おめでとう! “生まれた日”」

「……ありがとう。でも、今日はとっても悲しい一日よ。喜ぶわけには……」

「そんなことない! 十九年前の今日、君が生まれてくれて、俺、死ぬほど嬉しいよ!」

 エルリフは立ってイズーの手を取り、心臓の鼓動を抑えるのももどかしくそう言った。

 イズーのほうはただ驚きに打たれ、潤んだような眼差しをエルリフに注ぎ返す。

 その時、遠慮がちに、入り口に姿を見せた者があった。王宮からの使いだった。 

「ここにおいででしたか。主馬頭様が、貴方を見舞いたいと先刻よりお探しですよ」

「……御多忙のおりに恐れ多いことです。すぐに参じます、とお伝えください」

 静かに答え、使いを返す。エルリフは、訝しげなイズーに向かって言った。

「ありがとう。君のことは、一生忘れない」

 エルリフは、身に帯びていた火護りの刀を抜き取る。両手で彼女に差し出した。

 鍛冶屋をついだ者がこれを渡す女性というのは、実は花嫁なのだ。花嫁は、それを息子が鉄を打てるようになるまでとっておく。そんな風習をイズーが知ったらどれほど怒ることか。もうエルリフは、自分にそんな未来はないものだと悟りきっていた。

 でも、他の娘ではもう嫌だった。絶対に。

 身勝手な想いを押し殺し、照れくささに涙の跡の残る頬に熱を宿しながら、言う。

「俺、ウーロムを出るときに家を燃やしてきた。これも本当は折ったほうがいいのかもしれない……でも、初めて会った日に、きれいだって言ってくれた……君が」

 エルリフの態度の変化に戸惑っている彼女の手をとって、そっと、のせる。

「君がこの先、いつまでも護られ、幸せでいられますように」

「きゅ、急に、どうしたの。なによその、死ににいくみたいな顔つきは……」

「……考えていたことがあるんだ。俺は、それをダニーラ様に問いただすつもりだ。首をはねられるかも知れないようなことを……」

「救いようもないお人好しのあんたが、あの国王の名代と一人で対決しようっていうの?」

 その時、イズーがそっと目を伏せ、片手で羽織っていた白いケープの胸元の留め具を外し始めた。彼女の手が紐に下げられたペンダントを引っ張り出した。恐ろしく透明度の高い小さな硝子球を銀の装飾金具がしっかりと取り巻いている。水晶球の中には爪の先ほどに削られた物体が浮いている。

「魔鉄の破片じゃないか。水につけたらサビてしまわないか?」

「素人さんねえ。これは万が一、強盗に逢った時の保険用に作ったの。本体はちゃんとした容器に保管してあるし、これも密閉して亜鉛粉を混ぜてあるから耐性は十分よ。それより見て。あの事件のあと、急に、方位磁石みたいに指しはじめたの……“北”を」

「北? ……もしかして!」

 まだ、終りではないのかもしれない。不意にエルリフは衝動を突き動かされた。

「俺がバカなヘマをしなように、お願いだ、いっしょに来てくれないか」

「……仕方ないわね。これも仕事のうち、か……だったらこれ、まだ持っていてよ!」

 彼女が、火護りの刀を柔らかく、エルリフの手に押し戻した。

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