第五章 聖像<1>
闇の奥、焼けた石造りの炉から、湯、と鋳物師たちが呼ぶ溶解鉄が朱金色の流れとなって溢れ出した。魔鉄(マギスタリ)の流れだ。
炉の前で、エルリフはその朱金色のしたたりを両手に受けとめた。春先の水のように温い。指の間から零れ落ちる輝く流れに魅入られ、頬だけがほんのりと熱い。
この鉄には自分の血を密かに混ぜた。皆には秘密だ。何が起こるかわからないから……
掌の上で溶解鉄はゆっくりと渦巻きはじめ、エルリフが望むものへと魔法の粘土細工のように変じていく。蜥蜴のような首、こうもりのような翼、雄雄しい背びれ……鳥のヒナにも似た、朱金色の仔竜が、愛くるしいほどの動作でエルリフの掌の上で誕生した。
エルリフの言うことだけをきく竜が歩き出すうちに冷えて鋼の光沢を帯びていく。
ずらりと牙を剥き出した鉄の小竜に感嘆の眼差しを向けながらも不安になりはじめた。
皆が憎む魔鉄。壊せと命じられた魔鉄に……いつしか魅入られている自分自身に。
急に恐ろしくなって、小竜を炉の中に押し戻そうとした。また溶かされると察したのか、竜は鳴いてエルリフの手を逃れた。待て! と延ばした手をみやって、悲鳴をあげる。
そこには焼け爛れ、痛みを感じることも出来ないまま、白骨と化した自分の手が……!
(………!)
エルリフは、目覚めた。汗だくの手の中に、鏨(たがね)を握ったままだ。
徹夜中にいつしか眠り込んでいたようだ。恐怖にこわばっていた身体を起こす。
ほとんど完成したユーリク神像が、真横で穏やかに自分を見下ろしている。
黒狼を壊してから様々な悪夢を見続けて来たが、今のは最悪の部類だ。それでもここ一月はなりをひそめていたのだが。
(ドゥーガの火床では作れるんだろうか。鉄細工じゃない、本物の、魔法の獣を……)
慌てて妙な想念を振り払い、現実に立ち戻った。
武器庫工房の真ん中、ユーリクの像は、ほとんどエルリフの身長と同じぐらいの高さがあった。これほど大きな聖像が王国で造られたのも初めてで、見事な出来映えには誰もが驚嘆している。これがあの呪われた鉄塊から作られたものだとは誰も思うまい。
当初、共に製作にあたった鋳物師たちはごく単純な鉄像を考えていたようだ。しかしエルリフはより美しく精巧にするために分割した部品をあとで溶接と鋳造でつなげる方式を提唱した。これこそ、ゴルダから受け継いだ“鉄細工”の応用技法だ。エルリフの描いた図面に従って職工たちが耐熱粘土でユーリク像の鋳型を作り上げた。
その傍ら、エルリフは砕いた魔鉄を溶解炉に投げ込み、溶ける鉄を見つめる日々だった。その間、日夜にひどい気だるさを覚え、手に力が入らなくなる症状に悩まされた。例の夢を見るようになったのもその頃からだ。けれど“人間”の職人たちがもっとひどい苦痛に苛まれているのを見て、これが魔鉄精錬の過程で生じる魔法の影響だと分かった。
けれどある時、ボルドスとこのことをめぐってちょっとした諍いになった。
貴方はお若い、とボルドスは手を水桶に浸して痛みを堪えているエルリフに言いに来た。
「わしは昔、王都を出て行かれるゴルダ様を見送りました。その時、教えて頂いたのです……大森林(セリガ)には私の知らない息子がいるかも知れない、私はそれを探しにいく、と。その“貴方”と今、働けるこの喜びたるや! 老い先短いわしなら、いくら魔力をこうむってもどうってことはありません。精錬は、わしが代わりにやりましょう」
エルリフはそれを突っぱねた。半ば意固地になって魔鉄の鍛錬は自分が一人でやると。ボルドスは、そんなエルリフに何も云わなくなった。
エルリフは人を避けるようになり、寝込んだりもした。
工房に使者がやってきて、ダニーラ・モルフの“招待”を受けたのは、そんなある夕刻のことだった。
※
聖人を祀った室内祭壇に蝋燭を灯し終えると、客人を出迎える豪奢な長衣に身を包んだダニーラがエルリフを振り返った。
「体調は、もう戻ったのか? 一人で頑張りすぎたようだな。武器庫の中のことで、私の知らないことはないよ」
少し意地の悪い切り出しに、エルリフはただ恥じ入った。大貴族モルフ家の邸宅に自分が招かれていること自体が信じられないことだ。
「すみません……ご心配をかけて。もう平気です。自分の力を、証明したかったんです」
いざ口にしてみると、自分がどれほど子供っぽく青臭いかを自覚した。ダニーラは、そんなエルリフを見て小さく笑った。
「なに。職人たるもの、それぐらいの気概はあってしかるべきだろう」
モルフ邸は、海洋国フィオーラ人の建築家が建てたもので、どこか西方風だ。セヴェルグラドでは珍しい部類に入る二階建てであった。主人とその客人であるエルリフに、品よく着飾り、きれいに整列した侍従たちが深く一礼する。
その列の中に、殿を引き立てるべき奥方と侍女たちの姿は無かった。
おっかなびっくり階段をあがっていく。緋色に塗られた壁には戦勝をあげるたびに下賜されたとみえる見事な刀剣の数々が並んでエルリフの目を奪った。
そこから先、ダニーラは一人でエルリフを書斎へと導いた。
「君に、私の宝物を見てもらいたくてね」
ダニーラが東方風の、螺鈿で飾られた見事な漆箪笥の金飾りの両扉を開けた。中は本棚で豪華極まりない写本の数々が納められていた。武人の彼のこと、てっきり名のある宝剣でも見せられるのだと思っていたエルリフは意外な喜びを感じる。
皮装丁に、彩なす植物文様が美しく輝く一冊が、恭しい手つきで取り出される。
「この写本は陛下から頂いた。おそらく、生前の……姉上が、密かに陛下にお薦めになったのだろう。私が子供の頃、失くしてしまった物語集と同じ話が収められていたから」
広い机の上に彼が開いてみせた物語写本の中から、目にも鮮やかな色彩の挿画と、壮麗な飾り書体による本文が現れる。
「すごい……! こんなに綺麗なもの、俺、初めてみました……!」
「喜んでもらえたようだな。私は、君の眼にぜひこの色彩を映してあげたかったのだ。なぜだか、私には日に日に、この聖天女が姉上の面差しに見えてきてね……」
ダニーラが目を細めるその絵を、エルリフは一緒に見つめるうちやや言葉を失った。
羽衣をまとって舞う美しい天女を、物陰から彼女に見入られた男が見つめている。
性別を越えたような若い美貌の天女―――ミーリュカによく似ている。
だが自分にはそう見えるからといって、ダニーラにおいそれと云えるはずもない。
あるいは、その勇気がエルリフにはない。
貴方様は姉上様とミーリュカを、もう決して得られることはない愛情を、違えているのではないか……
「いかがした? エルリフ殿」
「あ、いえ……どんな世界にも上には上が、居るんだなって。俺、まだまだだなって……」
淡い灯明かりのもとでは鋼色に沈む青年の秀美な双眸が推し量るように見ていたが、怪しんだ様子はない。
「私は君に期待もしているし、それ以上に君が、羨ましいのだ。美しいものを見分け、自ら形に出来るその力……子供の頃から城内で鍛冶職たちは大勢見てきたが、君のような者には出会ったことがない。人の心を鋼のように打つ鍛冶師には」
貴公子の真っ直ぐな賛辞がエルリフの心を自尊心でいっぱいにし、微かな懸念はどこかへ行ってしまった。金襴の上衣を肩にかけられたような輝かしい気分のまま、謙遜する。
「そんな。そんな力、俺にはありませんよ! 俺の本当の専門は、鎌とか鍋とかですし」
「良き道具は、人々に生きる喜びを与える。私は故郷で、戦場の輜重隊の野営地で……そんな鉄の道具たちの力で何度も救われてきたよ」
武人であるはずの彼が、剣の力で、とは言わなかった。
しかし清廉な彼の影の部分の話も、王都で暮らすうちにいやがうえにも耳にしていた。
イリィナ王妃暗殺の咎を負う大貴族たちを荒ぶるエルスラン王が粛正した時、王、そしてヴォルコフ家らと共にダニーラも復讐の血刃を幾度も揮ったのだ。
平和が戻りつつあるいまは意図的にせよ“忘れられ”つつあるのだろうけども。
「エルリフ、君はまだ、私が怖い、か?」
「えっ! いや……そんなことありません! 俺はダニーラ様とお話するのが好きですし、高貴なお生まれの貴方様が美しいと思うものを、俺も美しいと感じられるのが嬉しいんです。でも……でも、俺が貴方様と親しくしているのが“変”だという人もいて」
「大膳職殿か。私はずっと、彼の小言係だったからね。陛下はその……あの子に甘くていらっしゃる。彼に”物申せる”のは、私ぐらいのものだった。警戒されるのも当然だろう。エルリフ、実は……実は近頃、私の夢に姉上が現れるようになったのだ」
涼しい目元を伏せて、ダニーラはそう、低く冷たく、切り出した。
「これは、天上の魂が助けを求められている証拠ではないか? きっと姉上は耐えがたいのだ。平穏が訪れ、愛した夫が、そろそろ新しい妃を娶るかもしれないことが……」
まるで、やがてくる雪解けの春に怯える氷の彫像のように、血の気のない貌を俯けて。
エルリフの内心が動揺し、脈が速くなっていく。
僧……エルスラン王に口止めされたままの「あの話」を思い出したからだ。
けれど恩人とはいえダニーラに秘密を話すことは王を裏切ることになってしまう。
「もしかしたら魔鉄から洩れた魔力のせいかもしれません。俺も、悪夢にうなされました」
ダニーラは醒めたように顔をあげ、じっとエルリフを見返し、いつものように微笑んだ。
「ありがとう。聞いてもらえただけで心が軽くなった。君も、何かあれば私に言ってくれ」
写本を仕舞う青年公爵の孤独な背中に、エルリフは無意識に慰めを口にしていた。
「子供の時、ダニーラ様の大事な本もレグロナ軍に燃やされてしまったんですね」
「いや、それは違う。燃やしたのは母上だ。私が剣よりも本に夢中な少年だったせいでね。母上は私を正しい道に導いてくださった。姉上は、大目にみてくださったけれど」
苦笑混じりに流したダニーラの声は、懐かしむというよりはどこか釈明めいて聞こえた。
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