第四章 亀裂<4>

 それから幾日かは穏やかな晴天が続いた。


 慈悲深いのか意地が悪いのかわからない天の采配であった。冬に鳴る雷は数少なく、落ちれば威力は夏のそれより大きいと言う。

(もしかしたら、間に合わないかもしれない……春の大祭には)

 来るべき時に備えながらも、ユーリク像の図面制作にとりかかることで気を紛らわせた。このまま金工師としての腕前をふるうこともなく、同じ日々が続いていくのではないか。あの強い王の魂なら、すこしずつ魂を蝕む魔の力にも、耐え抜くのではないか、と。

 しかし、依然として口を閉ざし、心伏せたまま悄然と王の側から離れないミーリュカを見かけるたび、これは偽りの平穏である、と思い知るのだ。

 そして、その日はあと十日で年が変わろうかという時に、至った。


「エエエ、エルリフ! 来やがった、でで、でかい“雷気”が、来やがった!」

 駆け込んできたサンドールの言葉に、エルリフは血の気が引くほど緊張を覚えた。時刻はまだ午前中である。表へと飛び出す。灰青海からの寒風が吹き寄せ、灰色雲が出ている。

「こんな時間に、鳴るのか? あれは雪雲じゃないのか?」

「”雪おろし”の雷よ、来たぜ、来たぜ!」

 よほど強い雷気を感じるのだろう、緊張感と興奮がない交ぜになったようになったサンドールは跳びはねんばかりに、支度のために去っていった。


 エルリフが王宮に参じると、昼食に向かおうとしていた王と、いつも相伴するダニーラの姿があった。躊躇うエルリフに、ダニーラがそっと鎮痛な顔つきで頷き、うながす。

(ひどいよな、俺。せめて、お食事の後だったらよかったのに……)

 一報を聞いた王は王衣のすそを翻し、場所を変えよう、とでもいうように応じた。

「では参ろう、皆の試練の火床(ほど)へ」

 車輪突きの土台に乗せられ、鎖で戒められた黒狼が聖堂広場の空の下に運び出される。アルハイル鋼の鎖ではない。かえってシャティの仕事の邪魔になる恐れがあるからだ。すでに人払いはされ、主要な路地には黒軍服の親衛隊のみならず、主馬官房配下の近衛隊らも警戒にあたっている。ただし皆、甲冑兜を外し、剣の代わりに棍棒を持っているのでいささか間が抜けて見える。落雷まではなるべく黒狼以外の金属(かね)は置いてくれるな、というサンドールの指示に従っているのだ。

 ゴロゴロ、と天空の奥底から鳴る、飢えた獣めいた轟き。エルリフは準備に駆け回りながら、気づいた。大城壁の塔にサンドールの分厚い毛皮外套がひるがえる。

 遠雷が徐々に近づき、冷たい風と稲光がたちまち席巻した。湿り気を帯びた烈風の中に氷片が混じる。それはほどなくして羽毛を逆さに振りまいたような大雪に変っていった。

 規則正しく降り続く白い世界に、王の観覧椅子と天蓋屋根がしつらえられた。

 白い点描の中にひるがえるその鮮やかな鮮紅色と黄金刺繍を見て、エルリフも腹をくくった。

「こんな雪の中でやるっていうの!」

 イズーとシャティを自らの陣営……こちらは竹の支柱に布張りという張りぼてに、招く。

「鉄を壊すには、延ばすか、ずらして切るか、二つに一つ」

 エルリフは、卓を挟んで座したシャティに黒狼を図示化した図面を広げて説明していた。指先の震えが寒さのせいなのか、緊張のせいなのかもはや定かではなかった。

「性質が変われば、アルハイル鋼で破断できるはず。そうすればどんな鉄板でも脆くなる」

 それは経験からだった。鋼が壊れる時は、小さな瑕疵から斜めに裂けて破断するのだ。「正確に、この角度で。出来るだけ、速く、深く……長く」

 エルリフが引いた斜めの赤線に目を落としていたシャティが、承知、と深く頷く。

「あの、本当に……すみません。俺がやるべきなのに、本当は」

 美しき女騎士は不思議そうな顔をしたあと、ゆっくり、はっきりと答えた。

「貴殿は鉄をよく知る者、私は敵を倒す者。なんの問題も、ないと思うが?」

 塔から降りてきたサンドールに訊ねるまでもなく、上空に雷の気配を感じる。

 煮えた釜の底に立たされているような、頭の毛を引っ張られているような、危険な気配が充満している。ダニーラが雪風に暗紅色のマントをあおられつつ、段取り通り「総員退避!」と命じた。すでに浮き足立っていた将兵たちは我先にと屋内へ逃げ込む。

 頼もしい主馬頭の姿を見つつ、エルリフは冷静に考えた。

 ダニーラは失敗を望んでいるだろうか? この前、イズーの試しを見ていた時のエルリフ自身のように……しかも、かかっているのは王国全土の権力と富だ。

 てきぱきと指示を飛ばし、絶えず王と周囲に目を配る貴公子からはそんな素振りは微塵も感じられない。彼は王の有能なる右腕である自分を自覚しているのだ。

 呪文を唱えながら、ただ一人、サンドールが黒狼の周りを踊るような足取りでめぐり、金属片を打ち鳴らす。彼以外に誰がこんな狂気じみた王命を果たしえるだろうか。

 サンドールの動きが止まり、わなわなと、天に向かって両手をあげはじめた。

「み、見つけた! 雷野郎め、食いついた! 来い、来い……こ……!」

 彼の全身が突如、黄金色のもやに包まれ、輝きを放ちはじめた。

 彼が頭上に差し上げた手の上に絞り込まれた光が放たれた矢のようにうなりをあげて一挙に上昇し、天の一点に吸い込まれ、火花となって爆散した……刹那。

 天が、吼えた。目の前が白熱し、世界が脳天から引き裂かれ、全てが消し飛ぶ。

 衝撃と轟音が落雷だと気づくのにも間を要した。横に居たイズーを咄嗟に抱き寄せる。土台が勢いよく燃え、雪と炎が視界にゆらめく中、青白い放電を食らった黒狼はわずかにくすぶりながら軋みをあげ、青白く明滅している。

 すべてをはねのける黒光りを帯びていたはずの魔鉄の表面から艶が消え、くすんだ穴ぼこが生じている。効いた……!

 やったのだ。サンドールは、やり遂げた。

 衝撃をもっとも近くで受けたサンドールは仰向けにひっくり返り、気絶している。

(王は……エルスラン様は!)

 観覧席の王は椅子の下に倒れていた。駆け寄ろうとする廷臣らが、うろたえるな! という割れ鐘の如き王自身の声で制された。腕で半身を支え、首をもたげながら、王が言う。 

「見よ、ゴルダの! 恐るるに足らず、余の心臓、まだ動いているぞ!」

 雪を呑む哄笑のような、或いは万雷の如き王のその声がエルリフを奮い立たせる。

「シャティ、今だ!」

 エルリフの合図と同時、飛び出したシャティの結わえた黄金の髪が流れる。気合と共に長柄斧の青光りする刃が肩口目掛けて打ち下ろされた。瞬間、ギシリと黒狼が動き出し、燃える魔炎の目を向けて、金属の喉から咆哮を上げながら首を左右に振り回した。シャティの長柄斧が牙に引っかけられ、奪い取られた。大きく飛び退いたシャティは反転しながら姿勢を整える。神速の勢いで彼女は使い慣れた腰の半月剣(ファルシオン)を抜いた。鋭利な半月形をした先端部は両刃になっており、裏刃として切りつけることも出来る。

「てあぁぁーーー!」

 気合と共に刃が銀の弧を描き、斬り下げた。さらに刃を裏返し、いま一度。人間が作り出したうちで最も硬いアルハイル鋼と魔鉄が暗黒の火花を散らし、紫電が再び奔る。

 王がまた叫びを放つと、椅子を掴み、側に居たダニーラごと引き倒した。

 甲高い音と共に、真っ二つに折れたアルハーン錬金科学の粋たる刃が、石畳に突き立つ。シャティが両手首を苦痛に顔を歪めながら倒れこむ。

 ほぼエルリフの想定通りの角度と幅で、黒狼の肩から喉へと、斜めに断裂が生じていた。

 呻き声がしたのは、その時だった。全身の毛を逆立てながら振り返る。声の主は、エルスラン王だった。エルリフを睨みすえながら歩をつめてくる。

 前には狂王、後ろには、黒狼。王の黒いはずの目が、堕ちる寸前の太陽のように燃えている。それは、燃えすぎた鋼が崩れ去る寸前と同じ色合いだった。

 いったい、王の魂はいずこの火床で炙られているのか。


《やめないか、裏切り者……卑しい金属(かね)集め風情めが!》


 ヴァルーシの王の魂を奥に潜んでいた恐ろしげな“女の声”が轟いた。王の右耳の義耳が同時に弾け飛んでいるのが見えた。もう一息だ。間違いない。

「お前を壊す。俺たちの、勝ちだ!」

 唸りながら、操られた王が迫った。手を突き出し、エルリフの首をへし折ろうとした。その時、細い影が果敢に飛び出しエルリフの目の前に立ちはだかった。

「陛下! 陛下! 悪霊め、悪魔め、エーリャから、出ていけぇ!」

 あの日以来閉ざしていた声を取り戻して、主君を押し止めようとミーリュカがもがく。

 切れ込みを食らったまま、なおもエルスラン王の御座所に向かって進もうとぎしぎしと、四肢を動かす黒狼の咆哮。その姿はまさに狂える手負いの獣のようだ。

「だめよ……また動き出したわ!」

 イズーの絶望的な声。エルリフは大金槌をひっつかみ、叫びをあげて突撃した。ヴォルコフ将軍も戦斧を手に続く。二人は、ありとあらゆる罵声を発しながら黒狼を叩きまくった。シャティがこしらえた亀裂はエルリフの一撃ごとにその破断面をさらし、ヴォルコフが反対側からも衝撃を与える。中の空洞がさらされる。

 怪力に勝るヴォルコフの一撃がまた重く決まった瞬間、ぴし、と音がした。

 破断が、ついに大きく広がった。巨大な頭が、落ちた。


 真っ二つになった胴体も、薄く積もりかけていた雪を散らして重々しく横たわった。

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