第四章 亀裂 <1>
「とどまられよ、少年。押し通るなら、止め申す!」
「エーリャが死んじゃうよ、ひどいよ、ひどすぎるよ……やめろって、言ってるだろ!」
ミーリュカは凄絶な表情で絶叫するや、剣を構えた。シャティは険しい表情になり、長柄斧の柄半ばを握り、先端をミーリュカに向けた。
であああぁ! と声を放ち、突進するミーリュカの攻撃線をシャティはわずかな身体のひねりで受け流す。彼女にもとより、攻撃の意志はない。ミーリュカは錯乱しつつもそれを知っていた。長柄斧とぶつかる瞬間、剣を平にすると彼女に向かって押し出した。シャティが少し目を見開いて構えを変える。すさまじい打ち込みを繰り出してくるミーリュカを、柄ではじき返しつつ後退する。夜闇の中に火花が散る。
「やるな、少年」
シャティが片を付けようと飛び退いた瞬間、工房の中からの重い爆発音と振動、そして悲鳴が、しじまを揺るがした。サンドールとイズーが二回目をやったのだ。だが、中の様子もおかしい。僅かに集中の逸れたシャティの懐にかみそりの刃のごとくミーリュカが切り込んだ。剣の柄で長柄を引き込むと、引き落とす。シャティの手から長柄斧が落ちた。女騎士は追撃を飛び退いてかわした。反撃には移らなかった。
「ミーリュカ! やめろミーリュカ!」
剣を握ったまま殺意を振りまくミーリュカを追って、エルリフとシャティも走りこむ。
中はもうもうたる水蒸気で混乱に陥っていた。
「どこ、イズー!」
シャティ! とイズーの、強張ってはいるが落ち着きを保った声がする。しかし、どこにいるのか見えない。その時、怯えきったイズーの悲鳴が聞こえた。エルリフは真横を幽鬼のような気配のなさで行き過ぎたミーリュカの目線の先を読んだ。
「魔女どもめ、殺してやる、ころしてやる!」
叫ぶミーリュカが鏑矢のように駆け出す。エルリフにも見えた。僅かに晴れた煙の向こう、イズーは、壁に張り付けられた蝶のようにただ立ち竦んでいる。
無我夢中で手近なものをひっつかみ、ミーリュカの足元に投げつけた。打ち出し途中の銀の大皿が場違いなほどい音を立て、少年の足を止めた。エルリフは彼に飛び掛った。もつれ合うように倒れこむ。悲鳴をあげるイズーの手をシャティが引いて、遠ざけた。
ミーリュカの手首をつかんで剣を封じる。甲高い音を立てて剣が落ちる。半狂乱の手がエルリフの帽子を引きはがし、髪をつかむと、石床にぶち当てた。衝撃でくらくらしながら、これだから床は土に限るって……と場違いな考えがよぎった。
それでもエルリフはミーリュカの身体を掴み寄せると、両腕で強く、抱きしめた。
「離せ、離せ、離せ、殺してやる、みんなみんな殺してやる! エーリャぁぁ!」
火傷を負ったかのように暴れまくるミーリュカの殴打や蹴りにもひたすら耐えた。横たわったままミーリュカの細い体をますますきつく抱きしめた。壊さないように。包み込むように。大丈夫、大丈夫……とささやきながら。
「ミーチャ! 今夜はもう、大丈夫。今度は俺が絶対にカローリをお救いするから……!」
折れそうに震えていた少年の体から少しずつ、少しずつ、堅さが消えていく。エルリフもゆっくりと腕のしめつけをゆるめて、そっと亜麻色の髪を撫でさすってやった。そのうちに曇った青い瞳が徐々に焦点を結び、まるで悪夢から目覚めた子が添い寝する親にすがるようにエルリフを認めた。
青磁のように褪めた頬を、涙が一筋、滑り落ちる。
「ほんとう、に?」
「ああ、本当だ! 俺は、君が見つけた一番の鍛冶屋だって言ったじゃないか……な?」
ミーリュカはエルリフの胸に頭を預けると、そのまま気を失った。
大きく息を吐き、半身を起こす。遠巻きに見つめている人だかりの顔、顔、顔……を目にした瞬間、かっと頭の中が白熱するのを止められなかった。
「見世物じゃないんだぞ! なんだよお前ら、物珍しそうに俺の友達を見るな! 彼は一人で……たった一人で、まだこんなに若いのに、可哀想だと思わないのか!」
“元はといえば、鍛冶のお前が上手く壊せないでいるからじゃないか……”
冷淡な官吏や職人たちに無言で跳ね返された敵意に打たれ、エルリフが項垂れかけた時。
横合いから毛布が差し出され、さっと、ミーリュカの身体にかけられた。イズーだった。
彼女がエルリフの目を見て口を開きかけたその時。毛布にくるまれた少年の身体を引き取っていった者がいた。
知らせを聞いて駆けつけてきたヴォルコフ将軍であった。
「……まったく、ひどい手負いの獣よ。ぬしのお陰で……」
息子を軽々と抱えた将軍は隻眼を何度か瞬きし、それきり、エルリフの前で口ごもっていた。危うく狂人になる寸前だった息子に、“友人が居た”ことを知らなかったのだろう。
「ぬしも、死人のようだぞ? 鏡を見てみい!」
親衛隊が撤収していくと、ようやく時が動き出し、皆が荒れ果てた工房を片付け始めた。
ようやく薄まった水蒸気の向こう、悪夢的な姿をさらす黒狼にまったく変化はなかった。アルハイル鋼の鎖は床の上でとぐろを巻いていた。弾け飛んだのは留め具の方だ。
「……くそ。くそっ、くそおっ!」
両手を拳にして、一人、エルリフは吐き捨てた。許せないのは自分だった。手をこまねいている自分であった。後ろ向きで無力な自分、であった。
足元に転がっていた銀の大皿に、ふと目が行く。そこにぼんやりと移りこむ鏡像は、真っ赤に見えた。そのうち、ぽた、ぽた、と生ぬるい赤い雫が垂れた。頬に触れると大流血が顔の半分をぬらしている。口の中も血の味だらけだった。
「け、毛帽子……大丈夫? あんたでも、怒る時があるのね。すごい血よ……!」
まだ自分の側に彼女が居たことにエルリフは驚いた。真っ先に見捨てられそうだと思ったのに。もう帽子などどこかに紛失していた。近づいてきたイズーの顔を見ることが出来ない。心がひどく打ち沈む。またしても、“ダメなところ”を、見られてしまった……と。
「どこの血管が切れてるの? 診せて!」
「君こそ、大丈夫か? ありがとう……」
「……あたしこそ。あんたが止めてくれていなかったら、刺されていた……!」
「ミーリュカはひどく混乱していただけなんだ。君を、憎んで殺そうとしたんじゃない」
「わかってるわ。あの子の目、普段と違ったもの。あんたはあたしの命だけじゃなく、あの子の魂も、助けたんだわ……」
かがみ込んだ彼女が、細い指先でそっとエルリフの汚れた麦穂色の髪に触れる。
「君の手が汚れ……っっ痛……!」
「大丈夫……陥没もないし、肉も飛び出たりはしてないわ。でも縫わなきゃだめね。歩ける? 担架で運ばせてもいいけど」
「……イズー? その、どうしたんだ? 怒らないのか」
「は? ……い、今のあんたの、どこに、怒る要素があるっていうのよ!」
だって俺はダメな鍛冶屋で、王の期待にも沿えず、友達を泣かせ、君まで危険な目に合わせたじゃないか……と続けようとした一瞬、目の前にさっと黒い帳が降りた。
(好かれる、努力)
遠のきつつある意識の中、なぜかそのことが大命題として頭をよぎった。少し、笑ってみせた。イズーの顔がひっ……とさらに恐怖に強ばった。
「な、なに?! どうしたの、気、気は確か?!」
「俺……死ぬのか、な……」
やっぱりだめだ、と思った瞬間、暗闇に襲われる。
自分の名を呼ぶイズーの声が、急速に遠のいていった。
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