第二章 黒の都<5>
いつしか開いていた木戸の側に、黒い塔のような気配が佇んでいる。
ひた、ひた、と。石床を歩いてくる粗末な布靴の音が無ければ亡霊かと思う所である。
黒い塔と見えたのは、男が長身の頭からつま先までを黒い僧衣に包んでいたためだ。彩りはただ、目深にかぶったフードの陰からのぞく口元と、ユーリク神の金の首飾りのみ。
「拙僧は、国王陛下の聴聞僧……陛下の告解を聴き、暗き道を照らす我は影のしもべゆえ、名は申し上げられませぬ。名代として、身一つで参りました。どうかご容赦を……」
両手を袖に通したまま深くこうべを垂れる僧形の男にエルリフも慌ててお辞儀した。
「ど、どうして、陛下の聴聞僧様が、俺のことを……」
「黒衣の子が、貴方のことを夢中になって話してくれましたよ。あの子は拙僧にも、なんでも打ち明けてくれるのです」
「ミーリュカが?! あっ……いやすみません、馴れ馴れしく……」
僧は、黒いフードの陰の端正な口元をかすかな笑みの形にして答えた。
「あの子が黒いカローリ以外の誰かを心に留めるなど、ずっとなかったこと。でも貴方を見ていると、貴方に懐いた理由がわかる気がいたします。きっとまた貴方に会いたがるでしょう。その時はどうぞいままで通りに……主馬頭様も貴方には期待していらっしゃるご様子。ご多忙なあの方が、貴方のために自ら骨を折っていらっしゃるのが何よりの証拠」
「ダニーラ様は、あの、自分は国の馬丁のようなものだと……?」
ちょくちょく居なくなるのは、馬の世話でもしに行っているのかと思っていたが。
すると、僧はくくく、とこみ上げる笑いを押し殺したあと、我慢出来ないように声を出した。聞くものがすくみ上がりそうな朗々たる響きが余韻を残す。
「なるほど、あの方らしい。貴方に気を遣わせまいとしたのでしょう。なれど、この王都で立ち回ろうとされるのならば何事もご自分で確かめるが肝要です。国の馬丁とは言いえて妙……主馬頭は主馬官房の長にして近衛騎兵大将、貴族会議の最高位、そしてカレイア公。外交、内政、軍事の全ての国家の裁断に関与しています。もしもカローリが跡継ぎを残さずに身罷られた場合、主馬頭の地位にある者こそが次代のカローリとなる人物、なのですよ」
事態を理解したエルリフは、二の句がつげなかった。頭を抱えたくなってくる。
(そこまで偉い方に、俺、ボロ服の洗濯手配までして頂いたのか……!)
「貴族たちは今のカローリがいる限り、安らかな眠りにつけないと考えています。言うなれば今こそ暴君たる王家の血筋を断絶し、分領公の時代を呼び覚ます絶好の時機。蛇蝎(だかつ)の如き貴族に、野卑な孤児の王を戴く国……まことに痛々しいことです」
僧が真に憂いたのは、貴族なのか、王なのか、国なのか。あるいは全て、か。
「でも……昔のように国の中が分裂したままだったら、きっと東蛮にあっさり負けてしまって、貴族だって奴僕になっていたと思います。国を一つにまとめて強くしたのがヴァルーシの王様なんだ。地金だってくず鉄だって、集めて、何度も叩いて強くします」
僧形の男が、少し息を呑んだ気配があった。エルリフは、慌てて頭を下げた。
「す、すみません、国のことなのに、その、不躾で。くず鉄だとかなんとか……!」
「いいえ……いいえ。なるほど、感銘を受けました。鍛冶の貴方は、何にお悩みなのでしょう。かようのような心細い場所に一人で泊まりたいなどと……」
黙って俯くエルリフの前で、じっと黒狼の間の扉に目を向けた僧は、重く述べた。
「ずっと昔のこと……私はちょうどこの場所で、ゴルダ様とも話しました」
ゴルダ、という名前にエルリフははっと顔をあげた。
ゴルダが王都(ここ)にいたのはエルリフを引き取るより前……十年以上は前のはずだ。
「おそらく、息子の貴方も知らぬ彼の姿の一端を、私は知っています。今まで、誰にもそれを話す機会はありませんでした。今宵こそ天の思し召し、なぜなら聞き手は息子の貴方以外にはあり得ぬから、です。その上でこの都にとどまるか去るか、お決めになられるとよい。大丈夫、カローリは貴方をむげに引き止めたりはいたしません」
いくら僧とはいえ、君主の行動をそこまで保証しきれるものだろうか?
だが。深森のしじまの奥から響くような声には揺るぎのない確信があった。その気配は僧というより、将のようですらあった。エルリフは一瞬だけためらったあと、頷いた。
「上々……まず初めに申し上げておきます。黒狼は、カローリ=エルスランを呪い殺すため、造られたものであると」
「どうして、そんな……そんなことを、言うんです!」
「怒りましたね、やはり。貴方はやはり彼の息子。彼が遺した最高の物に違いありません」
「いえ、俺は……いい息子じゃありませんでした。父に馴染まないままでしたから……だから“息子”だって言われると、何だか少し後ろめたいんです……昔から」
「……拙僧と貴方はどこか似ているかも知れませんね」
「そ……そうですか?」
「拙僧も父親にはまったく馴染みませんでしたから、分かる気がするというだけです」
僧は、短く答えたのち、少し声色を改めて話を続けた。
「ヴァルーシの歴代王はドゥーガ湖に眠る古代の魔法の力を欲しながらも手出しが出来ませんでした。王が呪われる、という言い伝えを信じていたからです。けれど、恐れ知らずのザヴィツァ王がついに湖を占領したのです。湖を治めるのは巫女姫と言われる未婚の女性指導者でした。ザヴィツァ王は巫女姫に向かって、ドゥーガ湖に封印された遺跡から鉄獣を発掘し、鍛え直すよう命じました。さもなくば、妖精郷を滅ぼすと……そもそも、ザヴィツァは女性というものを“人”とは思わぬたぐいの男でした。征服者は女たちを踏みにじるのになんの良心の呵責も抱かない。私は、そのような行いの歴史を悲しく思います。平和な半妖人たちの故郷を滅ぼすなど……」
エルリフは、驚きに目を瞠った。半妖人について同情を口にする人物に初めて出会った。
人間の世界においてはもう滅びかけた種族だ。誰も気に留めないのが普通なのに。
「古代の技は、神々の御心に従って人間たちから遠ざけられたもの、暴くべきではなかった……ザヴィツァ王に巫女姫を人質に取られた妖精鍛冶師ゴルダは、王の要求を呑み、鉄獣を復活させることに同意し、ドゥーガの火床(ほど)と言われる工房に火を入れ特別な鉄を鍛造し始めました。魔鉄(マギスタリ)という魔法の鉄を。ダニーラ様から黒狼の奇怪さについてはお聴きになりましたね……職人というものには、王であろうと中々逆らえません。ゴルダはザヴィツァに言いました、鉄獣を御身に従わせるには王の血肉が必要です、と。早速、王の血が届けられました。血を混ぜ込んで鍛え直すことで魔鉄はその血の主の魂と繋がるというのです。しかし、その時、運命の歯車は狂っていました」
僧は一呼吸置いて、打ち明けた。
「その頃、王は異教徒の愛人にご執心でした。ゴルダが受け取ったのは、実は王が疎んじていた正妻のとの息子の血肉……つまり、エルスラン王子のもの、だったのです」
「そんな………!」
「実の親子なのに、などという慰めは王家や貴族には無意味なものです。ゴルダにこれが明かされたのは、黒狼を仕上げ、王認武具師として都にきてからしばらく後のこと。王は、半妖人を易々と信じなかったのでしょう。今度こそ自分用の鉄獣を作れと命じはしたものの……結局、造られはしませんでした。まもなく王が崩御したからです。ゴルダは、エルスラン新王に真っ先に告解しました。自分は魔鉄を合金する時、魔鉄がザヴィツァ王の魂を徐々に喰らい、最後には呑みつくすよう呪いをかけた、と。けれども」
「けれど、ゴルダは騙されていた。エルスラン王子の血で……呪ってしまった……!」
「ええ……エルスラン新王は血の採取について、思い当たることがあると答えました。なぜ父王が自分をそのような目に遭わせたのか、今日まで理解に苦しんでいた、とも。全霊を尽くしていたゴルダには、もはや黒狼を壊す力も残されていなかった。黒狼が存在する限り、新王の魂は安らげないことになります。だから王よ、決してあれを使わず、封印しておいてください、そして私に最も重い罰を与えてください……ゴルダは泣いて新王の足元に身を投げ出しました。王は極刑では手ぬるいとして、王都追放を命じました」
おそらくは、エルスラン王も当初はことの重大さをそこまで理解していなかったのではあるまいか。しかも若き王はもう一つの彼の願いもきかなかった、と僧は続けた。
「目の前に迫る嵐のごとき東蛮を前に震えて滅びを待つしかないヴァルーシの民を護りたい一心、それに、若さゆえの過信から王はゴルダの忠告を無視し、究極の武器に手を伸ばしたのです。おかげでヴァルーシは救われた。はじめ魔鉄の影響力はなんら感じられませんでした。呪いの引き金は……イリィナ王妃の死。慟哭した王の魂はひび割れ、侵食する呪いが、正常な意思を圧するようになりました。王を救えるのはもう鍛冶のみである、という意味がお分かり頂けましたか」
「は、はい……でも俺は、俺なんて……」
「ただでさえ、人里で生きる半妖人は稀。まして鍛冶となれば……それが今、カローリの目の前に現れた。エルリフ、貴方は王国にとって王以上に唯一無二の存在、なのですよ」
「そんな……そんなこと。聴聞僧様、無作法なのは百も承知のうえです、どうか王様にお伝え願えませんか。陛下がいらっしゃらなければ、俺、鍛冶屋にもなれませんでした、と」
エルリフは、自分の生い立ちや、ゴルダと自分が再会した状況、そしてその生が終わった理由を、全て話した。今まで、誰にも語ったことはない話を。
じっと、顔を伏せがちにして聞き入っていた僧が袖の中から両手を抜いた。
「拙僧も、昔、連れ合いを不幸な出来事で亡くしました。貴方のように……自分のせいだと。自ら胸を裂き、心臓を引き抜き、世界中のあらゆる言語で発せられる責め苦で責め立てよ、と創造主をも呪いました。されど……されども、所詮、人の身。生きるこの世に、苦しみはすでに溢れています。そして……気がついたのです。果たして、かつてこの地上を歩いていた愛する人は、いまの私の有様を見て喜ぶだろうか、と」
ゆっくりとフードを額の上まで引きあげ、素顔を半月のように明らかにする。
右耳の奥で何かが輝いたように見えたが、気のせいだったか。
三十過ぎくらいの壮年で無髭。豊かな長い黒髪に縁取られた疲労の翳さす青白い顔は彫刻のように気高く整い、髭があったとしても充分若々しく見えるはずだ。
ダニーラが聖騎士の面差しであるとすれば、目の前の男は闇夜に浮かぶ孤高の月のようだった。夜空に掲げたゴルダの剣のように、冷たく、鋭く、しなやかだ。
「ユーリクは戦いのあと、人々に剣を打ち直し鋤(すき)にするよう示したと言います。王の魂は確かに呪われてはいますが、王自身もまた、生まれ変わりたいと望んでいるのです、間に合ううちに……黒狼を聖像に変えること。古いものを捨て、民衆に新たなる希望を目に見える形で示すこと。そして、西方の戦乱にも終止符を打ち、国を富ませるため、剣ではなくパンでもってレグロナから花嫁を迎えること……それが王の決めた道です」
「えっ!」
「真夜中、錯乱して新しい花嫁に噛み付くような真似はあんな野獣王だってしたくはないのでしょう。私の他にはミーリュカ殿しか知らぬこと。くれぐれも、内密に。全てはこれから……貴殿が仕事を成し遂げたなら、王も触れを出すかと」
話に打たれたエルリフは、気がつくとひざまづいて、僧を仰いでいた。
「俺、壊します。陛下の御身(おんみ)が安らぐよう、呪いを解きます。そして俺の父母、ゴルダやエリンの魂のためにも……善きものへと造り替えます。必ず、やり遂げます」
「王も、どんな苦難にも耐えましょう。大丈夫……王も貴方を一人にはしません」
もう一度、深く頭を垂れた僧は頭巾を再びすっぽりかぶると、踵を返そうとした。
「あのっ、ご存じなら、教えてくださいませんか」
エルリフは、黒狼に触れたときに自分だけが熱を感じたことを話した。僧は考え込んだ。
「不思議なことですね。ゴルダもそのようなことは、一度も。何かが……貴方の中の何かが、黒狼にとって特別なのではないでしょうか」
「黒狼と魂をひとつにして操る時、陛下は、どんなお気持ちだったのでしょう?」
「……夢です。夢と同じ。自由でいて、形のない世界を彷徨うあやふやなモノ、です」
僧が出口へ戻っていくと、扉がひとりでに開いた。付き人がずっと外で待っていたようだ。やはりフード付きマントのをまとった付き人は蝋燭を掲げ、一瞬だけ顔をあげた。抜けるように白い、乙女のかんばせのような……
(……ミーリュカ?)
ぼんやりと見送ったのち、急に眠気が襲い、思考がままならなくなってきた。
その夜は、夢を見た。耳をつんざく雷雨と雷光の中を駆けずり回る夢。
ゴルダを探して、泥を跳ね上げ、雷鳴に背いて。
泥だらけになったウーロムの通りの向こう、雷光が人影を影絵のように切り取る。
父さん! とエルリフは、嵐に向かって叫ぶ。はじめて真正面から、父を父と呼んだ。
雷鳴がそれを打ち消した。急速に遠ざかる父は、気がついてもくれないのだった。
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