第二章 黒の都<6>

 王城の丘(テレムリ)に立ち並ぶ宮殿群の中で、会議や祝祭典、外国使節の歓待まで、あらゆる舞台となるのが大宮殿(パラータ)である。

 一本の柱でのみ支えられた金箔張りの半穹天井の大広間は”黄金の間”と呼ばれていた。壁際には金刺繍とビロードの豪華な幕がたっぷりと垂れ下がり、一段上に玉座と、今は空(から)の王妃の座が並んでいる。

(なんで俺、こんな所にいるんだろう……未だに信じられない)

 いよいよ拝謁の朝である。絹やビロードの袖なし外套で豪華絢爛に装った貴族たち、官僚たちが朝議の開始を待っている末席で、エルリフはひたすら、萎縮していた。

 こんな衣装はとても、と固辞するエルリフに、目に絢な光沢を放つ深緑色の染色羅紗の上衣(カフタン)に金糸で飾られた美しい黒の飾り帯、それらに見合う上等のブーツまで贈ってくれたのはダニーラだ。上衣はボタン留めで、立ち襟の折り返しに毛皮が用いられていた。丈は膝まである。重ね着が多く、上着の丈が長いほど身分が高いとみなされるのがヴァルーシの衣装だ。例の帽子だけはどうしても、と言って被ったままだった。

 身に着けた“古いもの”はもう一つあった。十五歳の時、自分で最初に打った小刀……“火護りの刀”だ。銀装の鞘に収まっていて、飾り鎖で特別に打たれた火打ち鉄の小板が下げてある。美しい柄飾りと鞘は、ゴルダが作ってくれた。

 眺める自分の心がウーロムを出た時とひどく変わっていることにエルリフは驚いた。

(硬度をあげすぎていたのは、俺も同じだったよ……父さん)

 それを、いましっかりと帯に挟んでいる。父と一緒なら、怖くない。

 王は、朝五時から七時まで王家専用の聖堂で礼拝をささげ、それから朝議に入る。朝議といっても正午近くまでぶっ通しらしい。それからようやく昼食をとり、午後は公務や外交使節との謁見に臨み、夕方まで休みなし。夜は夜で延々と歓待や各種宴が続き、夜の礼拝を経て、やっと就寝するのだという。祭日を除き、ほぼ毎日。まるで鍛冶屋並だ。

(呼ばれたら、諸公らにお辞儀をし、次にカローリに向かって頭を下げる……この時、決して諸公の時より浅く見えてはいけない……それから前に進んで、口上と名前を述べる)

 宮廷作法を指導してくれたダニーラは、晴れ舞台を楽しむといい、と笑っていたけれど。

 大広間に入った瞬間からすでに動転しかけていたエルリフだが、玉座の側にほど近い、半円扉が開き、黒装束の男たちが列を成して現れたところで頂点に達した。

 親衛隊らは玉座の壇の下を、生ける防護柵のように固めた。いよいよだ。

「カローリ=エルスラン、御成り!」

 王の臨席が宮宰によって告げられ、列席者が一斉に低頭する。エルリフも慌ててならう。

 微かな衣擦れの音と、足音。何か、圧倒的な気配が上座を占めつつある。

 申し合わせたように列席者らが頭を上げ、エルリフも、恐る恐る、目を向けた。

 玉座の左右を固めるのは、二人。左に高雅な礼装に身を包んだ理性的な貴公子ダニーラ、そして右はヴォルコフ将軍。軍装だが、眼帯は銀刺繍のされた黒絹に変わっていた。

 全く対照的、かつ強力な双璧の間を大股に過ぎ、長身の男が総象牙造りの玉座を占めた。

“彼”を目にして、エルリフは叫びそうになる歓喜が湧き上がるのを感じた。

 ひとの姿をした獣さながらの眼差しと、その奥に瞬く機知の光は、剣と盾を構えた伝説の戦士のよう。血の気のない頬、野趣に溢れ、かつ高貴の血によって整えられたその王者の顔を、昨夜エルリフは確かに見た。高潔なる僧形の男、として。

 右の耳に真鍮の”義耳”が付けられているのを目にした瞬間、実感が沸いてくる。

(ああ、彼が本当に、エルスラン王、なんだ……!)

 それにしても、居並ぶ廷臣たちの豪華絢爛かつ威風に溢れるいでたちに対し、王の装束はむしろ質素、黒絹の王衣に黒貂の毛皮の羽織はまさに王者にだけ許される装束ではあるが、それも片側だけ肩にひっかけ、渋々風情に金の王錫を握っている。

 立派な家臣たちに捕われた獣さながらに、不機嫌さを隠そうともしていない。野趣あふれる容貌に比してその荒々しさは王気となって場を圧倒している。

 昨夜の僧形の粛々としていた印象とは、何もかもが違い過ぎる。

(きっとわざと、なんだ。何もかも……本心を語るには、王宮の中は敵が多すぎて……それで、あんな風に自らを装ってまで、俺に話をしてくれたんだ)

 一方そんな野獣王の側に侍(はべ)る“お小姓”ことミーリュカもまた、際立っていた。

 鮮やかな黄の女性用袖なし長衣(サラーファ)をまとい、編み上げた亜麻色の髪に白いヴェールをした“首輪の乙女”。王妃の空の席の手すりに腕を絡めてしなだれかかるその透き通るような美貌は、もはや性別を越えていた。

(君は、本当にすごい)

 エルリフは、ミーリュカの覚悟を甘く見ていたと思った。この敵味方入り乱れる大宮殿の大広間で、己の“役割”に徹している。こめかみから下がる白金の下げ飾りが可憐な顔立ちを引き立たせている。彼の審美眼に自分の細工が適ったことが、職人冥利につきる。

 王と臣下のやりとりが続いた。と、エルリフの耳に、聞き覚えのある単語が飛び込む。

「クルーゼ兄弟は陰謀の全容を、ヴォルコフ将軍の息子ミーリュカに語った。だがミーリュカの弁によればあれらは囮(デコイ)に過ぎぬという」

 感情を一切廃したような声。王の目が、壁際に縮こまった大貴族たちを傲然と見下す。

「どこにいる、裏切り者よ? 満足か。いま心の中で、ほくそ笑んでいるのだろう。余がかつて、そちらと余の間の友情を信じ、幾度となく宥和と前進を嘆願してきた時も腹の底が笑いでひきつれていたのだろうな。金もうけに奔走する裏切り者、ビロードを着た偽善者、まやかしにへつらいに甘言好言……血に飢えた青血人(キリダイ)の如きものどもが絶えず我が領土を窺っている。黒い王、と囁かれる余の命そのものも、な」

 大貴族たちは静まり返り、石像のように微動だにもしない。

 誰かが一人逃げ出そうものなら、全員が雪崩をうって逃げ出していきそうだ。

「クルーゼの謀反は、思わぬものを手繰り寄せた。あれが持つ剣は先君(せんくん)の代に仕えた王認武具師ゴルダの業物であった。ゴルダはウーロムに居て、その剣を打ったのだ。ミーリュカはクルーゼらの命を見逃した。余の蔵から見返りとしてクルーゼ家に黒貂の毛皮二十枚、それにウーロムの民へは葡萄酒樽五十を贈り届けよ」

 その言葉に、御意、とダニーラが折り目正しく頭を垂れた。

 緊張を忘れて、エルリフはふき出しそうになった。名誉を全て失ったクルーゼ兄弟の元に突然王の名で最高級毛皮が二十枚も届けられるというのか。きっと彼らは動揺し、ただの毛皮に怯えることだろう。そして町は、下賜された大量の葡萄酒樽に沸きに沸く……

「皆も知ってのとおり、先君が遺した鉄獣が昨今、“物議”をかもしている。あれは確かに王国を救った。だが東蛮を退けた今、用を終えた。余はここに誓う。次の灰花月(三月)、太陽女神(エル)の大祭までにあれを鋳直し、ユーリクの像となして我が王国の真の護りとせんことを……近う参れ、ゴルダの弟子にして、息子よ」

 王の冷徹な声に心臓が跳ね上がる。ハイ、と上ずった声で返答する。

 ゴルダの息子?! 弟子が居たのか! と、ざわめきが走る。

 後戻りは出来ない。違和感なんて感じている場合じゃない。王の言葉は絶対だ。

 いまこの瞬間から、エルリフはゴルダの息子としての振る舞いを求められる。

 まるで、借り物の肉体に自分のぼんやりした魂だけが宿っているような心地でエルリフは帽子を脱いで仕舞い、まず、祈る。それから左右のお偉方にお辞儀をし、つぎに正面を向き、御前へと一歩、一歩と近づいていった。だが……

 深くお辞儀をし、再び見上げた目前の王者の顔には、いっぺんの親しみもなかった。

 王の横に立つダニーラが、ちらりとエルリフに目配せをした。はっと我に返り、名乗りを上げようとする。陛下に置かれましてはご機嫌うるわしゅう……練習を思い出す。

 だが、喉が締め付けられたみたいに声が出なくなってしまった。

 猫が鼠を見るように貴族らをねめつけていたミーリュカが、棒立ちになっているエルリフを上目遣いで捉えた。下げ飾りをしゃらん、と小さく揺らして首を僅かに傾げている。

(騙されているのは、俺のほうじゃないのか……)

 エルスラン王は、実はとっくに狂っていて、時々僧形になって夜な夜な彷徨うのだ。

 ミーリュカはそれに同調し、ダニーラも、諸公らも仕方なく王の狂気に付き合っているだけ……そのほうが理に適っていやしないか。

 直立不動になっている「ゴルダの息子」から、まず目線を外したのはエルスラン王その人であった。ざわつこうとしていた聴衆の耳目を、僅かな手の振りで再び、引きつける。

「高見見物の裏切り者に比べれば、余のためにかけがえのなき腕と命を差し出そうという勇気ある若者のほうが賞賛に値するであろう。今はこの通り……無名だが」

 ここで、ミーリュカがふき出した。張り詰めていた臣下たちも小さく笑い、場が緩む。代わりにエルリフの頬はかっと燃え出す。王に、助けられた。疑ったのは間違いだ。

 本当に狂った非情な王ならば、無作法な鍛冶屋など罵倒したはず。

 いま、再びエルリフは己の使命を悟った。

 黒い王と蔑まれ、本来の輝きを失っている王に秘められた怜悧な鋭さを昨夜自分は確かに視た。研ぎ直し、再び世に明かして差し上げたい……月、いや新しい太陽のように。

「……それでも、明日にはゴルダをもしのぐ名声を手に入れよう。が、これはまれにみる難業である。一人にのみ、多大な負担を強いるわけにはいかぬ」

 そこでダニーラが後を引き取り、一礼して進み出るとよく通る声で後方扉へ呼びかけた。

「二名の共同作業者をいずれも外国から特別に招致いたしております。白の地の呪術師(クスニク)サンドール殿、そして、盟友アルハーン連合王国より、錬金術師(アルキーヤ)イズー・アルマジール殿、前へ」

 共同作業者? 聞いてないぞ。いや、でも確かに“僧形の男”は「君は一人ではない」とは言ったし、ダニーラは何だかんだで策士だが……?

 背後の両開きの大扉が侍従たちによって開かれ、二人の対照的な人影が、じつに洗練された所作で深く一礼した。中背の中年男と、すらりとした赤毛の女だ。

 意気揚々と歩いてきた二人は、エルリフなど蹴散らす勢いで御前を占めた。

 ヴァルーシの社会では、公的なことに携わる女性は皇妃や皇后、姫といった非常に高貴な身分の女性に限られる。彼女は特別に許されたのか。あるいはエルスランの宮廷にもはや慣例は有名無実なだけなのか。誇らしげに名乗り上げようとする彼女……昨日の朝、門前で言い争った“爆弾女”は慎み深い所作で、ふと……真横を見た。

 呆気にとられて見返すエルリフを認めた瞬間、彼女もまた口を半開きにしていた。

「な、な、なんで?! なんであんたとここで会わなきゃならないわけ、毛帽子?!」

 それは、こちらの言い分であった。

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