断章・黒の王

 ザヴィツァ王の一人息子、十六歳のエルスラン王子は右の耳を欠いていた。

 数ヶ月前、珍しく父王の狩りに誘われ弓持ちとして随行した際、狼に襲われて食い千切られたのだ。王子の随員や友人たちは全員噛み殺された。しかし狼を知る狩人ならその話に疑問を抱くのが常だった。狼が、そこまで残酷になることはあり得ない。

 ましてや他は殺し、一人の耳だけをかじりとるなんて。

 この世で一番残酷になれる生き物、それは”人間”だ、と……

 けれど当の王子は青褪めた顔で、決して誰にも自分の見解を述べなかったという。

 彼の母親は高位貴族の教養豊かな娘であったが、まだ王子が子供の頃、臨月の身で庭を散策中に虫に刺されて息を引き取った。母親と、生まれることもなかった弟の存在を抹消されて以来、暗く賢くそれでいて気性の激しさを増していく王子に誰もが手を焼いた。

 王子は黒髪黒目、風貌は秀麗にしてどこか東方人を思わせる野趣もあった。それもそのはず、彼の祖母に当たる王太后は政略結婚で結ばれた、東蛮系王族の姫だったのだ。

 ザヴィツァ王は、大変な女傑であった自分の母によく似て王の素質に富む息子を恐れるようになった。王城の丘の塔の部屋に軟禁し、自らは異教徒の愛人と遊興に耽り、抗議する僧侶や高官たちの首を次々にはね、見せしめに聖堂ごと町を焼き、民を絶望させた。

 いつ毒入りの食事が運ばれてくるか、あやめも分かぬ幽閉の日々の果てに、王子は父王と愛人女の食中毒死を知らされた。意気揚々と扉を開け放ちにきた“王子派”大貴族の得意顔を王子は猛然と撥ねのけ、階段へと突き飛ばした。

 まもなく新王エルスランは国民から歓呼の礼をもって迎えられ、すぐに親政を開始した。

 戴冠式と成人式が同時に催された二年後、今度はきちんと平身低頭しつつ大貴族たちが新王へと捧げた花嫁は、モルフ家の娘……絶世の美貌を慎ましやかに伏せたイリィナであった。

 モルフ家の代々当主は優れた武人として名を馳せた。が、王国統一以前は伯どまりであった。レグロナ人や青血人との死闘に明け暮れていたからだと揶揄されていたが、統一戦争の武勲により公の称号を得た。大貴族たちは新王の疑心を恐れ、同じ大貴族でも格下の家の娘を選んでおいたのだ。

 イリィナは、美しさも生え抜きであったが、不屈の心を持つ武家の姫でもあった。若き王はこの極上の贈り物を諾々と受け取った。

 豪華絢爛な婚礼の日々、新婚生活もそこそこに、ついにエルスランは東蛮との最大の決戦「ウリンド河岸の戦い」に挑んだ。敗退させられた東蛮の帝王は以後、エルスラン王を“敵ながら、我が一門の血を継ぐ偉大な西方の王である”と認めた。

 こうして国に、百年来絶えていた平和がもたらされた。幸運なことに、イリィナ妃も聡明かつ慈悲深い性格で、夫の激しい気性を和らげ、雛を守る白鳥のように愛情の翼で包み込んだ。王は生まれて初めて、他者に愛され、愛し合うという幸福の味を知ったのだ。

 民こそが陛下(あなた)が最も慈しむべき味方なのです、と教えたのも彼女だった。長く子宝には恵まれなかった。それでも夫婦仲は大貴族たちの思惑に反し、良かった。

 いや、良すぎた、というべきか。

 イリィナ妃が待望の懐妊の矢先、急死したのは今から二年前のこと。毒殺であった。本当はエルスラン王を狙った毒が、誤って王妃の杯に入れられたという噂も絶えない。

 王は三日三晩、王妃の棺にすがって泣き伏した。そばに近づく勇気を持っていたものは、王妃の弟ダニーラ・モルフだけだった。四日目にようやく顔を上げた王の目からは光がすっかり失われていた。王は荒ぶるままに容疑のかかった貴族たちを次々に処刑し始め、所領を直轄領としていった。いわゆる“貴族狩り”である。

 

 だが民の心はまだ哀れな王と共にあった。恩義ある下級士族たちは”親衛隊”となって馳せ参じ、黒の王の周囲を鉄条網のように囲い、今日も貴族たちを威嚇している――――

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