第二章 黒の都<4>

 こんなに分厚い壁に囲まれて、夜を過ごしたことはない。

 その夜、エルリフは黒狼の間の扉前で、借りた毛布一枚にくるまって座り込んでいた。

 一晩独りで考えさせて欲しいと希望したのである。不審だ、危険だ、と眉をひそめる官吏や衛兵らをなだめ、ダニーラはエルリフの奇妙な申し出を承諾してくれた。ただし黒狼の扉の鍵はいまだ彼の預かりである。

 甲冑や剣や盾……歴代の名工たちが作り上げた命なき物たちが、エルリフを囲んでいる。

(黒狼のあの色はなんだ。青銅との合金か? それとも銅か鉛を混ぜてあるのか……)

 昼間、自分が見たものを職人の目で思い起こそうとした。黒狼の鋼鉄はすべて真っ黒だった。光を飲みこんで、内側から妖しの艶めきを放つようだった。

(それとも……俺の、いや、誰も知らない金属、か?)

 もう一度触れなければならない。あの手のしびれがなぜ自分にだけ起こったのか。

(そもそも、俺、本当に……本当にあれを壊していいのか)

 確かに壊すのも一苦労だろう。しかし、もう一度作り出すことだって難しいのだ。

 ましてや、造り手は自分の“父親”。

 鼠が噛むような寒さで、手足がかりかりと痛む。

 物心つくまで“父親”の存在を知らなかった自分に、こんな定めが回ってくるなんて。

 半妖人の原郷、ドゥーガ湖は北の大森林(セリガ)の南端にある三日月形の湖だ。

 ザヴィツァ王の侵略で、ドゥーガの半妖人の共同体は消え去った。エルリフの母エリンはドゥーガ湖最後の巫女姫だった。その彼女に恋していたらしいゴルダが手引きして逃がし、自らはザヴィツァ王の元へ下ったというのだ。

 エリンはもう、大森林で隠れ住む以外にない身の上だった。老いた山師と、老いた侍女の二人だけを伴って。二度と下界には降りなかった。 

 まもなくエリンは山小屋で、健康な男の子を産んだ。彼女は息子に伝説の鍛冶師と同じ名前をつけた。

 故郷を喪い、エリンの精神(こころ)の器は少し壊れていたようだ。何も知らない幼子として育ったエルリフがそれを感じたのはもっと後にあってからのこと。

 “エーリャ! わたしの大事なかわいい坊や、ずっと側にいてね“……明るい陽光を背に浴び、髪の縁を太陽のへりみたいに輝かせ、いつも無邪気に笑っていた母……

 しかし、彼女の輝くような美貌は太陽が力を失うように翳っていった。

 逃亡者の彼女に安らぎなど無かったのだ。時折取り乱し、“帰りたいの、誰も迎えにきてくれないの”と泣く彼女を、老婆がじっと暖炉の側で抱きしめ“お気の毒な姫様、あの男さえ来なければ……!”と共にさめざめと泣くのを、幼いエルリフは寝床の中でじっと見つめていた。

 母さんを気の毒にしたのが誰なのか、分からなかった。もしかしたら自分なのかも知れなかった。だからたくさん動物の木彫りをつくって、伏せがちになっていく母の寝台の上に並べた。増えていくそれを見て嬉しそうに笑う母を見るたびに、安堵した。

 けれどエリンはエルリフが六つになった秋、熱病に斃れた。看病しているうちにユーリクの日もありきたりな一日のように過ぎ去り、翌朝、母は静かに旅立ってしまった。

 老夫妻もエリンの死によって、孫のように可愛がっていたエルリフにも関心が持てなくなるほど急速に耄碌していった。

 秋を追い抜くようにやってきた残酷な冬が全てを塗りつぶしてしまった。

 いつも山の幸や、人里のパンを調達してきた爺も、その年の暮れまでには死んでしまった。吹雪の翌朝、爺に寄り添うようにして、老婆も冷たくなっていた。

 エルリフは一人で彼らの遺体を埋めた。その後は沈黙と孤独に圧倒され、何日も座り込んだ。老人たちが維持していた護りの魔法も消えてしまい、雪嵐が小屋を破壊していった。

 数日後、毛皮狩人が偶然小屋を見つけなければエルリフも死んでいたはずだ。

 はじめて人里に引き出されたエルリフは錯乱し、手を焼いた狩人は奴隷商人に売り渡した。そのまま調教場に連れていかれた。暗い懲罰房の中で鞭が唸った。絶対に、泣き声をたてなかった。こいつは頑固すぎて召使向きじゃない、と匙を投げられたあたりから、ようやくエルリフにも現実が飲み込めてきた。

 どうやら自分は、たった一人、“人界”で生きていく他ないらしい、と。

 手先が器用だということが知れるや、地下軍需工場に廻された。そこは、ヴァルーシ王国に対抗するためにレグロナと同盟していた森の民の支配地だった。エルリフは夜明けから夜半まで石や木を削り、与えられた仕事をこなした。

 死んでしまえたら、楽だったかもしれない。けれどもし自分が消えたら、あわれな母や、老夫婦の記憶も雪のように消えてしまう。そんな奇妙な使命感だけが自分を支えていた。

 ある日、ヴァルーシ軍と森の民の戦闘があって、森の民側が負けた。

 捕虜の囲いの中で、八歳ほどになっていたエルリフはまたうずくまっていた。今度はどういう目に遭うのだろう。骨の髄にまで怯えと空しさが染み込んで、心がもう、動かない。

 その時。ヴァルーシの長外套をまとった中年の男が現れた。誰かがエルリフのほうを指さすと、こちらへやってきて目線に合わせてしゃがみ込んだ。彼の耳はとがっていた。

『エルリフという名の半妖人の孤児がいると聞いて……ここまで探しに来た。お前の母の名は、なんという?』

 エリン、とエルリフは一言だけ答えた。はしばみ色の瞳の男は、呻き声を発した。

『そう、か……では私が……お前の父親の……ゴルダだ』

 決定的なはずの事実なのに、宙に浮いているような感じだった。彼は無骨な手をなめらかに開いたり閉じたりしたあと、全てが気に入らないという風に口火を切った。

『知らなかったのだ、お前が……生まれていたなんて。エリン、は……』

 エルリフは母と、老夫妻との生活をかいつまんで話した。死の状況についても。

 案の定、ゴルダという男は顔色を失っていった。

 父親だか何だか知らないけれど、今更なんだ? あんたなんか好きになるものか。

 けれどその時は、興味の方が勝った。言葉を失っている男に尋ねたのだ。

『何をしにきたの? ぼくを、殺すの?』

『まさか……! 迎えにきたのだ……!』

 さあっと、今度はエルリフの血の気が引いていった。迎えに来た? なぜ自分を?

 迎えをずっと待っていて、待ちくたびれて死んでしまったのは母さんのほうなのに。

『ほんとうに、好きだったの? 母さんのこと』

 エルリフの無邪気なのか残酷なのか分からない問いに、ゴルダが身を硬くした。

『好きだったか、だと? 惚れていなければ、誰が今まで、生きあがくものか!』

 物凄い大声に見張りの兵たちが振り向いた。ゴルダは赤面して、声を落とした。

 けれどそれでエルリフは信じた。ゴルダがエリンを本気で好いていた、ということは。

『エルリフ(太陽の恩寵)は、古代の妖精族随一の名工の名、おいそれとは付けられない……お前はエリンから大変なものを受け取ったのだ。よいか、一度しか言わんぞ。私と来れば技を教え、跡継ぎにもしよう。名前負けしておらんところを私に見せる気はあるか?』

『なにを、おそわるの?』

 するとゴルダはそっと首から下げていた小袋の紐を緩め、何かを掌に落とした。

 赤茶けた色味の、さして美しい形でもない岩の破片のようなものを。

『これは、褐鉄鉱(かってっこう)という錆を含んだ石だ。私は炎と水の精霊の加護を得てこのような石から新たに鉄を取り出し、道具に作りかえる技を知っている。鉄は、我々の味方だ。青銅はずっと王侯貴族のものだったが、鉄は農具や道具になって貧しき者たちも救ってくれた。武器になって苦しめもしただろうが……鉄をどう使うかは人の心次第。生きとし生けるもの、私やお前、誰の血の中にだって鉄はある』

 鉄のことになると、ゴルダの声は熱を帯び、滑らかに流れ出した。

 強そうなゴルダの手が、エルリフの青白い掌に赤い石を置いた。この中に硬い鉄があるという事実に驚き、エルリフはついつい話に引き込まれてしまう。

『うそだあ。石や血の中にあんな堅いものがあるわけないよ』

『鉄は、柔らかいからこそ強いのだ。あれほど自由なモノなのだから同じ赤い色をした石や血の中にあってもちっとも不思議ではない。まあこんなことを言うから鍛冶屋は変人だと思われるのだがな……自分の血を嘗めてみたことはあるか?』

『あるよ。ヘンな、鉄の味がする。でも、おかしいな。ぼく鉄なんか食べたことないのに』

『鉄の匂いは嗅いだことがあるだろう。だから、もう体は知っているんだ。私も流れる血の中にどうして鉄があるのか本当はよく分からない。でもその血で、私は鉄を鍛えるのだ』

『父さんの血がそうなら、ぼくのもそうだね。おもしろそう。ぼく……やってみたい!』

 エルリフはエルリフなりにそう理解し、赤い石をにっこりと、返そうとした。ところがゴルダは身動きをしなかった。あげるよ、と低く囁くように言うや否や、さっと背を向け、目元を押さえるような仕草をしていた。今なら分かる……彼は、泣いていたのだ。

(そう……自分には迎えが来た。母さんには来なかったのに)

 ずっとそれが後ろめたかった。それが、父親との間に引かれた一線であり続けた。

 二年前……ゴルダが亡くなる前のエルリフは、木炭切りや掃除、打ち込みの合間に研ぎをみっちり仕込まれ、火造り……鉄を赤くして鋳造する段階を一通り学んだところだった。

 そして父の技量の凄味を知るにつれ、なぜただの野鍛冶のように鋤や鎌などの日用品ばかりを造るようになったのか、という疑問が日々つのるのだった。

 自分の仕事を誇りに思わない職人などいるだろうか?

 父さんは、本当はもっと凄い武器や鎧を造っていたんだよね? 一度そう尋ねたら、人の噂を聞いている暇があったらもっとフイゴを踏み込め、鍛冶の仕事に凄いもなにもあるか、バカもの! という叱責と火かき棒が飛んでくる始末で、とりつくしまもなかった。

 そんな父が最期に言い残したあの言葉。

『許してくれ、エルリフ……。お前はいつまでも自由でいるのだぞ』

 結局、エルリフに出来たなけなしの親孝行は彼を看取ったということに尽きる。

 世に名高いゴルダが、なぜ“あんな死に方”をしなければならなかったのか。

 ダニーラから借りたカンテラ一つの中で、エルリフは暗く自分に言い聞かせた。

「俺の、せいだ。俺が、殺したん、だ……」

 呟きにした言葉は、物言わぬ甲冑、剣、盾の昏い煌きに跳ね返された。

 その責めから逃れるためにこんなところまで来ては鼠のようにうずくまって。自分は一体何をしている?

 抱えた膝に顔を埋め、目と心を塞ごうとしたその時。

「ようこそ獣の都へ、ゴルダの息子エルリフよ……」

 闇に、波紋を広げるような低い男の声。毛布を押し退け、飛び上がった。

「だっ、誰……!」

 夜明けまで人払いはしておくとダニーラは言ったのに。

 彼の命令を覆すのは、何者か。

 

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