第二章 黒の都<2>

 城壁前の巨大な広場は、“暁の広場”と呼ばれていた。ヴァルーシの経済と政治の交差点、民衆生活の舞台であり、官吏と商人たちの社交場でもあるらしい。街路は一変し、つやつや光る石畳が敷き詰められ、もはや泥に悩まされることもない。

 広場の真ん中に柱を立てた木造のやぐらのようなものがあった。陽気な人々の渦の中から、何気なくやぐらに縛り付けられているものを見たエルリフは、ぎょっとなった。

 貴族の上着をまとう黒ずんだ人体が、地の底を覗くように傾いている。水気を失いはじめた肌は黒ずみ、枯死した老木のような有様だ。

 この“男”の命を奪ったのは王だろう。そのことも恐ろしかったが、何よりも、同じ広場で“何も無い”かのように過ごす民衆の様子が、戯画のように見えてくる。

 見せしめの光景の奥には、さらに威圧的な跳ね上げ式の巨大な橋がかかっていた。橋の向こうがいよいよ、王の住む城、国の中枢機関が集まる王城の丘となる。衛士が護る巨大な門とその横に中門がある。大きな門は王や国賓を迎える時にしか使われないらしい。

 エルリフは、密かに拳を握った。

(あの門をくぐれば、俺は……)

 謀反人を処刑し、門前にさらす王の正義を認め、命令に従うことになるのだ。

 馬は騎兵たちに預け、とうとうエルリフは、ミーリュカについて橋を渡り始める。ミーリュカがエルリフの緊張感にも気づかずに足早に進んでいったその時。

「一番可愛い子よ、待ちわびておったぞ!」

 中門の向こうから熊と見紛う黒衣の大柄男が飛び出し、ミーリュカに腕を伸ばしてきた。おまけに左目に黒革の眼帯をしている。危ない! とエルリフは叫びかけた。

「父さん! どうしたのさ、帰還の報告もまだのうちに……」

 熊男ががしがしと、ミーリュカの細身を締め付ける。熊に兎がくびり殺されているようにしか見えず、救出するか、エルリフは迷う。しかし確かにミーリュカは言った……父さん、と。抱擁を終えた熊男の血走った隻眼がぎろりとエルリフを睨み付けた。醜い、とまでは言わないが、好意の抱きようがない髭面だ。

「クルーゼの小倅どもの首はどうした? なんじゃ、そこの泥ゴボウは! お前の新しい付き人か、それとも付きまとっておるほうか? さっさと叩っ斬る、か?!」

「クルーゼのバカ兄弟よりはましなお土産だよ。こいつは確かに泥ゴボウみたいだけれど、斬っちゃダメ。鍛冶屋なんだから! ねえ聞いてよ! それもなんとあの……」

「その忌々しい鍛冶どもが、また失敗しおったんじゃ、ミーチャ! カローリが……」

 熊男がミーリュカの耳元に何事か囁いた。少年の顔つきがさっと青褪めた。

「そんな。陛下、エーリャ……!」

 そして、もうエルリフと父親のことも忘れ果てたようにまろびつつ王城の中に走り去ってしまった。完全に取り残され、エルリフは目のやり場に困りつつ、尋ねる。

「あの……本当に、ミーリュカ様の、お父様、で?」

「アァン?! 何を勘ぐっておる?! わが血族に対する侮辱か! 片目がそんなに珍しいか! 東蛮の矢に目ン玉くり抜かれただけじゃ、文句あるのか!」

「な、ないです……!」

 弁解も空しく、熊男が広場の敷石も砕けそうな拳固を振り回してくる。命からがら避けきった。エルリフの狼狽ぶりに熊男は大笑いした。が、すぐに不機嫌になる。

「血相変えるでないわ、客をいきなり殴るわけがあるか、冗談じゃ!」

 冗談がかなり物騒なところと気分屋であるところは確かに親子のようだ。

 ぬし、名前は! と怒鳴られ、竦みあがりながら答えた。

「エルリフです。ウーロムのエルリフ……」

「お若いの、運がええの。今や鍛冶はぬしのようなヒヨコだろうが老いぼれだろうが値千金、殺すわけにはいかんでな。大体、もう何人……いや、やはり何でもない。わしのせがれだがな、もはや陛下に捧げた身! 陛下の剣であり、陛下の盾であり、陛下の奴僕よ。ちいとばかり色気が過ぎるからとぬし、血迷うでないぞ! 盛りが過ぎればあれもわしのように逞しくなる。今、馬の司を呼んでくるからそこで大人しく首を洗って待っておれ!」

 気の弱いものならそれだけで失禁しそうな剣幕で言いつけたのち、熊男はミーリュカが駆けていった扉に、不機嫌な熊さながらの巨体に似合わぬ俊敏さで引っ込んでいった。

(どう考えてもミーリュカがあんな熊体型になるなんて、ありえない……) 

 呆然としたのち、エルリフはそっと、頭上を見上げてみた。

 堅牢な城壁、輝きながら聳え立つ白い塔の上の青空が、ひどく遠く、深い。

 まだ、門はくぐっていない。これという取り柄もないながら、”自由”な野鍛冶のエルリフのままである。小鳥のようにここから飛び去っていくことだって――――

「おお、厭だ厭だ。帰ってきたところを見てしまいましたな」

 そんな声に、エルリフは振り返った。今の一部始終を見ていたらしい毛皮外套に身を包んだ宮廷人たちが立ち話をしていた。

「まったく、夜な夜なおなごの格好をし、化粧だの香水だのをつけて、妖しの異国なまりで人を誑かしては鞭を振り回す……カローリの寵愛をいいことに」

「たまったものではありませんな、本当に、忌々しいことで!」

 エルリフは疲れを覚え、橋のたもとに座りこんだ。

 エルリフが王都に来たのは、ミーリュカという存在を信頼したためだった。しかし彼の心がエルスラン王にしかないことは明白である。彼の任務はもう終わったのだ。それが、懐いてくれた猫に突然逃げられたみたいに寂しかった。熊男が言い残した言葉も気になる。陛下の剣であり、盾であり、奴僕。

 エルリフの、ミーリュカへの気がかりがいや増した。

(だいたい馬の司って何なんだ。もっとすごいおっさんが出てきたら、どうしよう……)

 今度は人を蹴り殺しそうな大男を想像してしまい、ぶるりと身震いする。 

(俺、厩に配属されるのかな……蹄鉄係とか? でも戦場だけは、イヤだな……)

 またしても心が暗い森に入りかけたその時、ふっと、目の前が翳った。びくっと、エルリフは顔をあげた。水路に落ちかける肩を素早く引き止めるしなやかな手があった。

 美しい銀の台座に嵌められた見事な青玉石(サファイア)の指輪が煌めいた。

「大丈夫か。顔色が悪いようだ」

 冷たく、静謐さを感じさせる声……まるで聖画に描かれた聖騎士を思わせる、甘美なまでに端整な青年が案じ顔でこちらを見下ろしていた。二十代半ばぐらいだろうか。群青の貴族服に暗紅色の上等のマント、細工物の金のベルトに見事な長剣を吊っている。

 彼がそこに現れただけで、辺りが清められたように明るく視えた。

「い、いえ。大丈夫です、すみません。俺、泥だらけで、それにこんなところに座っ……」

 待たせたね、と、暗い茶の髪に灰青(シズイ)色の瞳の貴公子は微笑し、遮った。凛々しさと誠実さに、エルリフは一瞬で魅了されてしまう。

「遠路ようこそ参られた。私は主馬頭(しゅめのかみ)のダニーラ・モルフと申す。ここからは主馬官房を代表し私が君の身柄を預からせてもらうよ、エルリフ殿」

                  ※

 エルリフを門の中へと導いたダニーラは、亡きイリィナ王妃の弟であると自ら明かした。カローリの義弟、ということになる。ダニーラには、大貴族の気品と、気さくさという美質が同居していた。貴族というものはいつも従者を連れて尊大に振舞い、下々とは会話も厭うのが“常識”だと思っていたのだが。

 そもそもエルスラン王は大貴族を信用しないという噂だったが、亡き王妃の親族は別なのか、あるいはダニーラだけが特別なのだろうか。

 王城の丘の中心をなす聖堂広場には、王宮、王太子宮、それに大聖堂といった重要な石造りの建物が密集している。

 あれは財務官庁、そこが寝殿庁、そしてこっちが軍務庁……とダニーラは親切に説明してくれているのだが、エルリフはすでに眩暈を起こしかけていた。どれもこれも、王様が住んでいそうな立派な建物ばかりで見分けがつかない。数え切れないほどの官僚や文官、武官たちがここで働いているということだけを理解した。

 本当に、これほど美しく完璧な場所に住まう王が、一介の鍛冶屋に何の用があるというのか。石工の間違いではないのか。不安になった頃、ダニーラが立ち止まった。

「ところで、陛下は少し体調が優れぬ。謁見は明日以降ということになろう」

「え、謁見?! 俺が、カローリに?! そんな……!」

「親衛隊に誘拐同然に連れてこられたのだろう? 陛下はお会いになるだろう、必ず」

 ふっと部下を気遣うときに見せそうな気安い口調に変わって言う。

「ウーロムの生まれとか。合戦の折に通過したことがある……帰りたいか?」

「……いいえ。確かにちょっと強引でしたが、俺、あそこに一生居るつもり、なかったし」

 生まれではないが、訂正する必要もないと思った。ついでに数日前まで一生居ると思いこんでいたことも黙っておく。それでも、確かめねばならないことがある。

「あの、広場に晒されていた……あの人は、もしかして」

「そう、ウーロムの、ヴォリス・クルーゼだ」

 ダニーラの声には一切の感傷がなかった。

 死者の剣に呼ばれた自分も、すでに暗い運命の繰り糸にからめとられているのだろうか。

 ダニーラは蒼ざめたエルリフの横顔を見つめ、柔らかく微笑んだ。

「大丈夫、君のことは私が責任をもって、守ってあげるから。滞在中の衣食住もすべて保証する。困ったことがあれば何でも相談しなさい。私が不在の時は言伝るとよい」

「ありがとうございます。俺、ほんとに不作法で……王都のことも、ほとんど分からないし。でも貴方様のお声を聞いていると、とても安心します」

 エルリフの言葉に偽りはなかった。ミーリュカに去られた時は一人ぼっちでどうなることかと思ったのだ。ダニーラはその言葉を喜んだ。

「それは良かった。私も君のように心清らかな若者に出会えて嬉しく思っている」

「本当なら俺みたいなの、貴方様とお話しすることだってありえないはず、ですよ……」

「世論は、私のような若輩者にこの地位は高すぎると論じている。私も、自らの身分が当然のものだとは全く思っていないよ。都の貴族たちと付き合うよりも、領民たちと苦楽を共にしてきた時間のほうが、私にはずっと長くてね」

 彼は神妙な口調になって続けた。

「我がモルフ家の所領カレイアは冬には凍りつく灰青海(シズイマール)を臨む北西の荒地でね。国境を侵すレグロナ帝国騎士団や、青血人(キリダイ)めらに蹂躙された。なにせ国軍は東蛮に釘付けで助けには来ない。子供の頃など、館が焼け落ちた。ほうほうの体で逃げ出した夜にはかじかんだ手を姉上がさすってくださったものだよ」

 お仕着せの官服に身を包んだ官僚らはダニーラを認めるとさっと立ち止まり、深々と低頭した。ダニーラがそれらに慣れた手の一振りで応じる。おっかなびっくり、エルリフも通り過ぎてから振り返ると、徐々に顔をあげた官僚らが自分をひたと観察していた。市街地の市民が田舎者に向けるようなからかいの目線ではなかった。主馬頭の客人であるエルリフを目敏く特別視し、見た目ではなく“価値”を見定めようとしているのだ。

(そんなもん、俺自身が知りたいくらいだってのに……)

 エルリフは意を決し、自分の新しい保護者に探りを入れてみることにした。

「普段は家来の方々をいっぱい引き連れていらっしゃるんでしょう?」

「普段はな。しかし近頃は誰も彼もが休みをとる。主馬官房は”急病人”と“忌引き”だらけだ。残るは、休みもへったくれもない貴族身分ばかりでね」

「あの、主馬頭(しゅめのかみ)っていうのは……」

「国の馬丁のようなものだよ。陛下や、陛下の御一族がお乗りになる馬や馬車、橇……馬具や装飾品も、一切合切を管理している。それに、武具の類もね」

 なるほど、それならばダニーラの管轄に鍛冶屋が入るのは自然だ。少し納得する。

「さきほど、ミーリュカ様の父上って人に……あの、熊みたいな」

 エルリフが切り出すと、ダニーラはエルリフの困惑を引き継ぐように苦笑してみせた。

「ああ……アレクス・ヴォルコフ将軍だ。確かに熊、だな。将軍の奥方はシルカ人の血を引く美貌の方だった。若き大膳職殿は、完全に母堂似だな」

 シルカ人の噂ならエルリフも聞いたことがあった。ヴァルーシ王国と多教海の間の山岳地帯に住む少数民族だ。白い肌に金髪碧眼の並外れた美貌の男女を生み出す土地柄らしい。その説明だけで、ミーリュカの美貌に関する謎は解けたのだった。

「もしもミーリュカが父親似であったのなら、今とは全く違う人生を歩んでいたかもしれないな、良きにつけ、悪しきにつけ。姉上もよく寵愛していた子だが……。貴族会議の成員らはずっと内外の敵と戦い続けている。だが、今のカローリを実際に護っているのはミーリュカに、夜の暗黒のような衣をまとう者ばかり……私も、うっかり黒をまとえばたちまち彼らの一党とみなされるだろう。姉上のいた頃の宮廷の明るさが懐かしい。すまないね、鍛冶である君に、このような話をしてしまうとは」

「いいえ。お気の毒な王妃様……生きていらっしゃれば、良かったのに」

 すると、ダニーラの貌から余所余所しさが消え、親しげな目が向けられる。

「……ありがとう。本当に、そうであってくれれば私も気が楽でいられたのに。いま私が寵を得ているのも、すべては姉上と、陛下のお陰……これは厳然たる事実だ」

 自分が得ている君寵はほんの一時のものだと、彼は言いたいのだろう。

 ウーロムのような辺境の女たちがすでに王の心の雪解けを噂していたことを思い出す。

「でも。たとえ陛下が新しいお妃様を選んだとしても、ダニーラ様のようにすばらしい方を遠ざけられるとは、俺には思えません」 

 するとダニーラはべつにそれでもいいのだ、と苦笑混じりに認めた。

「陛下はこの上もなく我が姉上を慈しんでくださった。姉上は男であればさぞや、と思うほど聡明な方だったが、まさか王妃になられるとは……けれどこの温暖な王都で、相応しき座にあって、幸せな日々をお過ごしの姉上を見て私も幸福だった。それでも、陛下もそろそろミーリュカにかまけているより新しいヴァルーシの姫を探すほうが余程……ああ、ここが君の宿舎だ。近衛兵舎の一室で申し訳ないが。まずは旅の埃を清め、着替えなさい」

 ダニーラは話を切って軍務庁の横にあるやや小ぶりな建物にエルリフを差し招き、一刻後にまた来ると言って立ち去った。

 ここでエルリフは、これまたダニーラが配置しておいたらしい召使にあれこれ指示されながら泥だらけの身体を清めた。 

 風呂から上がり、元の服に腕を通そうとしたが見当たらなかった。代わりに生まれてこのかた触ったこともないほど柔らかな綿のお仕着せと上等のヴェストが篭に置いてある。

「服と、お風呂と、いろんなお世話と……それに昼食を、ありがとうございます」

 きっかり一刻後、ダニーラが約束通り迎えにきた。彼の前で、俺の元のボロ服は……と尋ねかけ、慌てて我慢する。相手は気さくとはいえ大貴族様だ。小綺麗にはなったが、田舎くさい狼の帽子は深くかぶっていた。ダニーラはそれについては何も言わなかったが、何でも見通すような目元で笑った。

「では仕事場へ案内しよう。君の服だが、洗濯させたのち届けさせるから安心しなさい。簡単な昼食で申し訳ない」

「えっ! 簡単だなんて、粥や、ソーセージまで出ましたよ!」

 本心からびっくりしてエルリフが言うと、ダニーラは少し不安そうな顔をした。

「足りなかったか? 夕餉はもうすこし豪勢なものとなろう」

 どうやら、肉がいきなり食卓に上るのは特別でもなんでもないらしい、王都では。

 平素、エルリフは肉を滅多に口にしてこなかった。農民たちも祭りの日に羊をつぶす以外は肉を食べない。それに本来半妖人は動物の肉を口にしないのだ。けれどゴルダは時々干し肉を買って、嫌がるエルリフに食べさせた。ゴルダ自身は食べられないにも関わらず。人間の世界で生きていくのだ、お前は……ゴルダは厳しく、そう言った。それならば強くならねばならない。肉を食い、逞しくならねばならんのだ、と。

 それにしてもなぜここまで歓待され続けるのか? さすがに不審になってくる。

「そういえば国中から鍛冶を集めていらっしゃると聞きましたけど。どこに……?」

「それも現場で説明しよう」

 

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