第二章 黒の都<1>
第二章 黒の都
初めての騎乗の旅で、エルリフの腹筋と臀部は悲鳴をあげていた。
暑さや寒さへの耐性や体力には自信があったけれども、揺れることによる疲労は経験のないものだった。今は馬の動きに自然と身体を合わせることが出来るようにはなったが、ある晩、眠ったまま落ちた。ミーリュカは縄で自分たちの胴体をつなげと命じた。その時の目つきで、ミーリュカたちが王都まで一睡もしないまま駆け戻るつもりだと分かった。
そんなにも、危急の用件なのか、「鍛冶集め」は。
「また俺が落ちたら、そっちも危ないんじゃ……」
「そう。お前が落ちるときはボクも落ちる。もっと痛い目にあうよ……」
この脅しは何よりも効いた。
通常、ウーロムから王都までは馬でも五日はかかる。ミーリュカと親衛隊は早駆けで、三日後に到着した。
王都では寒さが少し緩んでいて、凍っていた雪道が半分ほど溶けて泥と化していた。
街道から市街地への道幅は広く、真ん中には市の中心部まで幅広の木板が敷かれている。馬はこの木の道の上をゆく。両側が歩行者と橇用の道である。
ミーリュカと親衛隊の黒い姿に、都市住民らは好奇と恐れのまなざしを向けてくる。魔性の宝石のように際だって人々の目を引きつけるミーリュカの後ろに乗ったエルリフはどうも罪人か奴僕だと思われているらしい。皆、ことごとく「哀れみ」に満ちた視線をなげてきた。中には、死者にするような祈りの仕草をしている者までいた。
「あの。俺、降りて歩いたほうがいいんじゃ……」
「なんで。王都の野良犬は田舎者を食うよ?」
ミーリュカはこの三日間の旅の間にずいぶん気安く話すようになっていた。歳もそこそこ近く、エルリフの温厚さも手伝ったのか、自然に打ち解けていったのだ。”エーリャ”……エルスラン王のこと、それに彼自身についても分かってきた。四人兄弟の末っ子で、いわく「ボクだけがこんな顔」だそうだ。西方語とフィオーラ語に堪能で、外交使節の通訳が務まるほどだという。末弟を溺愛してやまない三人の兄たちは王都やほかの町で隊士を勤め、士族出の父親はいまは親衛隊の隊長らしい。
それでも、武人の四男坊がどうして舞踏やら女装やらに卓越し、また外国語まで習得しているのかは謎のまま、話してもくれないままだった。エルリフも、敢えて触れなかった。
尖塔と鐘楼の群れ、遠くに輝く宮殿、聖堂の黄金色の円屋根、塔、そしてまた塔。
(……こんなすごい所で、鉄なんて打てるのか……)
それどころか、自分など足を踏み入れることすら場違いすぎる領域に思えた。
王都セヴェルグラドは卵みたいな街だよ、とミーリュカは語った。
「それも、三重の殻のある卵。一番外側が貧乏人と庶民の木造の町で、土壁に取り囲まれているから“土の街”って呼ばれてる。その内側が石で出来た”灰の街”。商人や士族たちが住んでて、ボクんちもここにあるの。その次が“白の街”、貴族や外国大使なんかが住むお高くとまったところ。で、一番大事な“黄身”が、王城の丘(テレムリ)……カローリがいらっしゃるところ!」
白の街を抜け、ミーリュカいわく“黄身”に入る関門に辿り着く。ここから先、外来者は逐一検分され、怪しい者は門前払いされていた。鎖かたびらと鉄兜、戦斧と弓を携えた守備隊が雑多な人混みを並ばせ検分している。
のちにエルリフも知るが、王都では家を建てるにも店を開くにも裁判をするにも、官庁のお墨付きが必要であり、それを求めて人々がひっきりなしに訪れるのである。エルスラン王は商業活動を厚く奨励しており、王都はまさに、建国以来最大の賑わいを見せていた。
王のしもべたる親衛隊は検分されることなく通過出来るはずだった。ところが。
「下がれ! ここは危ない、下がるのだ!」
流れが進むどころか、何やら血相を変えた守備隊が人々を押し戻そうとしていた。
「一体、なにやってるのさ! 埒が明かないじゃないか」
怒り出すミーリュカの姿を認めた守備兵の顔が鉄兜の下で強張った。
「はっ、な、何やら怒り狂った外国人女が、ここら一体を爆発させそうなのであります!」
なんだそれは。生まれて初めて聞くような台詞の数々にエルリフは一人、怖気をふるった。これだから都会は恐ろしいというのだ。
「荷馬車に硝石や炭、硫黄ほか得体のしれない燃料を山と積んで、まことに危険で……」
「その女が言ったのか、爆弾だって?」
「い、いいえ、そういうわけでは……しかし硝石とは、爆薬の材料だときいており……」
「拘束して詰め所で尋問しろ。通行を元に戻さなきゃもっと混乱が広がっちゃうだろ!」
ミーリュカの指示のほうがよほどまっとうだ。しかしそれでも躊躇している兵士を見ると、何か男でも二の足を踏ませる要素がその外国人女にはあるらしい。
確かに、蜘蛛の子散らすように人々が逃げ出した中心に、大きな黒い木箱を山と積んだ怪しげな荷馬車があった。左側の車輪が木板の端から落ち、大きく傾いて危険な状態だ。
どうやらアルハーン国の馬車らしい。民族衣装であるターバンを頭に巻きその端を背中へと流している御者が見える。後続する騎馬には荷主が乗っていた。荷主は女性のなりで、その護衛は茶のフード付きマントを着こんでいて性別不明だった。しかし、それが沙漠の民の装束であることは分かった。ウーロムでも時折見かけたことがある。
二騎のうち、荷主らしき女が先にひらりと降り立った。
「なによ、この木の板が、道? しかも半分しかないわ。オマケにこの狭い門! まったくなっちゃいないわね。本当に門ごと爆発させてやりたいくらいよ!」
流暢なヴァルーシ語による“悪態”……なるほど、あれが恐怖の爆弾女らしい。
彼女は連れのもう一騎を振り仰いで同意を求めたが、茶色マントの人物は小さく肩を竦めただけだった。どうやら護衛兼従者のようだ。
彼女の歳はエルリフと同じか、少し上だろうか。すらりと姿態がよく、緋色に染めた羅紗の外套は染料も仕立てもいい。頭に薄いヴェールをつけ、金色の輪で留めている。肩から腰へ斜めがけにした黒い袋がやたらと重そうだ。
「あの女が元凶か……早くエーリャに会いたいのに……!」
案の定ミーリュカが痺れを切らし、馬から降り立った……瞬間。
「どわあああっ」
まだ縄で繋がっていたエルリフも股関節を思いっきり痛めながら、引きずり下りることになった。幸いエルリフの方が下敷きになり、泥の直撃を一身にかぶる。背負い袋の中の工具が直撃し、背中に言葉にならない痛みが走る。
なにが起こったか一瞬失念したらしいミーリュカがエルリフに覆いかぶさりながら目をぱちくりとさせた。
「あ、ごめん、お前の存在を忘れてた。折れちゃった? 背骨」
「いや……大丈夫。広い意味で悪いのは俺だから……」
跳ね起きたミーリュカに、エルリフは脱げかけた帽子を慌てて被り直しつつ、引きずられて立ち上がる。
「おい、そこの女! それ以上たわけたことを言ってると、お前とその馬車ごと、氷穴の中に投げ込んで春まで死体もあがらないようにしてやるぞ!」
「なあに、貴方たち。赤ん坊とお母さんみたいに繋がっちゃって。それとも何かの懲罰?」
なぜこうも、地獄の住人のような物言いをする者がエルリフの前にいるのか。二人も。
「その悪趣味な黒尽くめ、もしかして貴方がウワサの親衛隊? だったら影みたいにこそついてないで王様に言ってちょうだい、生半可な知識だけを兵隊に植え付けるのはやめてくださいって。それにこの路は何? これなら新しく道路を敷きながら来ほうがマシだったわよ……ん? 貴方、なんだか花の香りがするわね」
「なあ、問題はこの馬車だろ? こいつをまた道に押し戻せば済むことじゃないか」
「お前は黙ってろ、この女は、この女は……ボクだけでなくカローリも侮辱したんだぞ!」
ミーリュカの手が小刻みに震え、サーベルの柄にかかった。
その時、まるで気配のない動きで女の前に入り込んだ影があった。
いつの間にか下馬していた茶色マントの人物は目元に入った切れ込み以外、全てを覆い隠している。褐色の肌に、静かな美しい目元をしている。もしやこちらも女性かも知れない。この者がマントを開いて動く時には流血沙汰になるだろう。そう思わせるほどの気迫が感じられた。
(でも、いまのはあの女が言いすぎた)
エルリフはミーリュカを刺激しないように立ち位置を変えた。すると護衛のたいそう美しい目元がこちらを追う。
「シャティ!」
突然、爆弾女がそう言った。名前だったのか、その声に護衛は一歩、下がった。そして爆弾女は信じられない暴挙に出た。自らヴェールを剥ぎ取り、素顔を明らかにしたのだった。ヴァルーシでは女性は頭をヴェールやスカーフで覆うことが慎みの証とされている。
銅貨のように赤い髪が豊かにくるんと肩にかかり、顔がこちらに向けられた。
エルリフの心臓が、勝手に高鳴った。思わぬ記憶を揺さぶられたせいだ。
昔、ミロスの店で見せてもらった、どこかの砂漠の遺跡から出土した(十中八九、盗掘品だろうということだったが)大理石の彩色女神立像……長く砂に埋もれていたせいでわずかに黄金色を帯びた肌、美しくまろやかな頬の輪郭、謎めくほどに大きな緑色の瞳、少し口角のあがった魅惑的な唇……それらに、目の前の彼女は驚くほど似ていたのだ。
(そうか、あれは、アルハーンの女神像、だったんだな……)
しかし一人胸を熱くしていたエルリフは容赦ない現実に引き戻される……大理石ならぬ、活き活きとした美女の容赦のない声によって。
「言わせてもらいますけどね、侮辱されたのはあたしのほうよ。積み荷は何か、と聞かれたから親切心でぼかして答えてあげたのに、勝手に検分されて、勝手に誤解されて。原料がただ集まっただけで火薬が出来るわけないでしょ、成分比も知らずに。だいたいあたしは全ての知識を暗号で書いてあるわ。くやしかったら、この場で解いてみなさいよ!」
皆、無作法ながら目の覚めるような美女の剣幕にあっけに取られている。エルリフも例外では無かった。彼女の言っていることが、ヴァルーシ語なのにさっぱりわからない。
「む、難しいことは俺にはわからないが、つまり、この馬車は爆発しないんだな?」
女の目がキッとエルリフを真正面から睨んだ。瞳の深い緑色が燃え出しそうに鮮やかだ。こんな色の緑玉石(イズムルード)があったら、いくら値段がつくか分からない。
(なんだか、どんどん態度がきつくなっていくな……硬度を上げすぎて、折れそうになっている人間の顔、だ。せっかく美人なのに。胸元もふくよかだし……)
エルリフはミーリュカの時にしたように、低く語りかけはじめた。
「ことを荒立ててるのは、君のほうだと思うぞ。郷に入っては郷に従えっていうじゃないか。君には不快じゃない道も、ヴァルーシ人には不快かもしれない。アルハーンは文化に優れてるかもしれないが、砂だらけで不快な土地だ」
爆弾女が怒りに眉を逆立てた。エルリフはあわてて付け加えた。
「って……知り合いの商人が言ってた」
「文化って、あんたみたいな毛帽子が我が国の技術水準の何を知っているっていうの? それにあんた今、まともなこといいながら、あたしの胸をちらっと計ったでしょ」
「は? なっ、なんでそんなこと……仕方ないだろ。他のことも考えたよ! その袋の中身、重そうだな、とか……ひょっとしたら赤ん坊でも入ってるんじゃないか、とか……」
今度は、かっと、女が頬に血を上らせ、大荷物を片腕で引き寄せた。
「冗談じゃないわよ! 女の大荷物は全部赤ん坊だっての? 大事な、鍋よ! “仕方ない”? 女が男をみるたびにこの人デカそう…なんて考えると思う?」
「お、男はそういうもんだからだ! だいたい男のは女のみたいにいつも突き出てな……」
沈黙が、耳に痛い。エルリフは芯から青ざめ、ついで、いやがうえにも悟った。
憐れみと失笑が渦を巻く人の輪の中心部で、自分がいつしか変態になっていることに。
「……最低、最悪、地の底に堕ちたな、自ら」
沈黙を破ったミーリュカの一声が刺さる。彼は半分抜きかけていたサーベルで忌々しいもののようにエルリフとの縄を切り、ついでに毛皮外套の裾まで払った。
「ち、違う! その、誰だって目に入るものは見ちまうだろ!」
「また! 目に入る、ですって。いやらしい。視覚、それはげに罪深き悦楽……いにしえの行者の詩編を思い出すわ」
爆弾女がなぜかミーリュカにわけのわからない同調をする。
「たしかにこの女は生まれた瞬間に慎みってもんを忘れてきたような憐れむべきやつだ。でもそれは、凶暴なアルハーン女だからだって思えばまだ納得はしてやれる」
反論したげな女の目前で、ミーリュカはエルリフに指を突きつけた。
「でもなエルリフ、今のお前はヴァルーシの歩く恥部、ただの劣情丸出しバカだ!」
この痛烈な批判にエルリフは呆然自失しかけた。
(俺、そこまで言われるほど……だったかな……でも、流血沙汰になるのは免れた。そうだ、そう思うしか、ない。それだけが、救いだ……)
「あらあら、ついに仲間割れ。本当に残念な人ね、エルリフ君」
なおも負けん気の強い女がからかう。君の名前は? と聞こうかと思ったが、これ以上は狐穴に自ら入っていくようなものだと考え、ぐっと我慢する。
「と、とにかく、こいつを直す。本当に爆発はしないんだろ?」
「そう言ってるでしょ。いい加減、こっちが爆死しそうよ!」
汚名そそぎに必死なエルリフが率先して車輪に手をかけるのを見て、微妙な会話の間も腕組みをして静観していた“シャティ”も手を貸した。荷物の中身がたてるかすかな音に、エルリフは内心首を傾げた。金属音、梱包された硝子、液体の入った瓶……?
ようやく体勢を立て直した荷馬車と、女たちに向かってミーリュカが言い放つ。
「爆弾女、気が変わらないうちに早くボクらの前から消え失せろ!」
「望むところよ、花畑。あんたもね、毛帽子!」
騒動が収まると、ようやく人の流れも正常に戻った。彼らの姿ももう、王城内に消えていった。また会ったりしたら今度こそ殺(や)られるかもしれない……
「でも、何屋なんだろう。あの護衛も、女だてらにマントの下に絶対、剣を持っていた。特殊な商人かな。王都には色んな奴がいるんだな」
「あれって、多分……」
ミーリュカが何かをいいかけて、やがてエルリフを見てニヤリとした。
「王都は確かに人だらけ。でも王城は、罠だらけだからねー」
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