第133戦:桜花 時は過ぎねど 見る人の

 朝の新鮮とした空気とは混じり合わないような、間の抜けた欠伸の音が辺り一帯に響き渡り。その音色の奏者である萩は、眠気の残る眼を適当に擦る。寒気を帯びた風に身を震わせながらも、彼は公園を通ってひたすらに学校を目指して歩いて行くが。はあと思い切り息を吐き出せば、白い靄が薄らと描かれ。その色の向こう側に、ふと見知った姿が目に入り。



「あれは、牡丹の異母妹……」



 萩は自然と目を凝らし、前方で佇んでいる菊を観察するみたく見つめる。


 すると、彼女のか細い腕がゴミ箱に向かって伸びていき。指先から地面に向かい、小さな塊が離れて行き――。



「おい、牡丹の妹。それ、大切な物じゃなかったのか?」



 そう萩が問い掛けると、菊はちらりと一瞬だけ。彼の方を向くが、直ぐにも視線を元に戻し。



「アンタには関係ないじゃない」



 一言そう言い放つと、彼女は背を向け。すたすたと、一人その場から離れて行く。


 華奢な背中を見送りながらも、萩は一寸迷った末に。



「……本当、可愛くない奴」



 ゴミ箱の中へと手を突っ込んで、目当ての物を拾い上げると。ぶらぶらと、適当に宙に漂わせ。じっと見つめたまま。



「やっぱりこの『H・G』って、どう考えてもイニシャルだよな。H、H、アイツの身近にHの付く奴なんて……」



 いただろうかと、頭を捻らせながらも引き続き、萩は学校に向かって歩き出し。いつもの要領で下駄箱を開けて靴を取り出すと、それと一緒にひらりと一枚の紙切れが中から飛び出した。


 腰を屈めさせて拾い上げるが、頭上に浮かび上がった疑問符をそのままに。彼は封を切って中を改めると。



「こ、これは……!」



(もしや世に言う、ラブレター……!??)



 一体誰がと、萩は何度も手紙を隅々まで眺め回すが。



「差出人の名前は、どこにも書かれていない……。けど、この楓柄の便箋は、きっと……、」



(紅葉さんに違いない――!)



 そう勝手に決めつけると、萩はスキップ混じりで教室へと向かい。


 そんな彼に暫し遅れて、続いて牡丹も教室へと入る。が、入った途端、すすす……と竹郎が忍び足で寄って来て。



「おい、牡丹。足利の奴、どうしたんだ?」


「どうしたって?」



「一体何が?」と、問う前に。にやにやと、気味の悪い笑みを浮かばせている萩の姿が目に入り。それを目にした瞬間、牡丹は息を呑み込ませたまま。その後、呼吸するのもすっかり忘れ、ただただ目を瞠り彼を見つめ続ける。


 そんな牡丹の視線に気付いたのだろう。萩はそちらを向くと、ふっ……と嫌味たらしく鼻を鳴らして。



「悪いな、牡丹」


「はあ? 悪いって、何がだよ」



 ぐにゃりと顔を歪ませる牡丹に、かと言って、何も答えることはなく。萩はただ、嘲笑の色を含んだ声を上げ始める。


 いつまでも高笑いを上げ続ける萩に、牡丹等はますます眉間に皺を寄せ。



「なんだ、アイツ。何か変な物でも食べたのか?」



 そう心配する牡丹を余所に、萩の哄笑を掻き消すよう。始業を告げる鐘の音が、校内中へと響き渡った。






✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎






 昼休み――。


 人気のない裏庭にて。


 ぽつんと一つ、人影があり。その人影――萩は何故かほけっと間抜け面を浮かばせたまま、茫然とその場に立ち尽くす。


 いつまでもそこから離れられない彼は、すっと青々とした空を見上げ。



(紅葉さんじゃなかった……。)



 己の早とちりによる喪失感ではあるものの、しかし。一度抱いてしまった希望からは、簡単には逃れることができず。


 情けなくもなかなか立ち直れずにいる萩であったが、突然、そんな彼の背後から、どしんと鈍い音が鳴り響き。その轟音に、彼は思わず大きな口を開け。



「うわああっ!??」



 素っ頓狂な音を漏らす。


 ばくばくと、跳ね上がった心臓をそのままに。萩は音のした方を振り向き。



「なっ、なっ、ひ、人……? なんで上から人が。

 あの、大丈夫なんですか?」


「いたた……。うん、平気、平気。これくらい」


「これくらいって……」



(結構な高さから落ちたと思うけど。)



 じろじろと訝しげな瞳で見つめる萩とは裏腹、その人物は能天気そうに。軽い笑声を上げながら、おそらくぶつけただろう腰を擦っている。


 痛みも治まったのか、漸くその面を上げさせ。



「……って、」



(この人は牡丹の異母兄の、確か三男・天正桜文――。)



 ぱちぱちと瞬きを繰り返させる萩を置いてけぼりに、桜文はへらりと締まりのない顔を浮かばせており。


 そんな彼に、やっと鼓動が静まったかと思いきや、今度は疑問が付きまとう。



「あの、どうして上から落ちて来たんですか?」


「それが、コイツが木の上から下りられなくなっていてさ」


「コイツって……」



 桜文の視線の先を追うと、彼の腕の中で茶色い塊がのそりと動き。続いて「にゃあ」と、甲高い音が鳴った。


 猫は赤い舌を出すと、ちろちろと桜文の手を舐め回し。



「よし、よし。もう大丈夫だぞ。

 いやあ、木登りはあまり得意じゃなくて。つい足を滑らせちゃってさ」


「はあ。それより、本当に大丈夫なんですか? 相当高い所から落ちたみたいですけど」


「うん。あれくらい平気、平気。ちゃんと受け身も取ったしさ」



 そう笑い飛ばす桜文に、やはりあれくらいという度合いでは済まない気がすると。萩は思ったものの、口には出さずに呑み込んで。


 代わりにもう一つの疑問を、その口から吐き出し。



「あの。もしかして、見ました?」


「見たって何を?」


「だから! 俺が告白されている所を……」



 歯痒そうに続ける萩に、桜文の方も珍しく跋の悪い表情を浮かばせ。



「ああ、うん。いやあ、どうしようかなと思ったんだけど、出て行くタイミングが掴めなくて。

 なんかごめんね。でも、随分ときっぱり断っていたね」


「変に期待を持たせても、相手にも自分にも良いことなんて一つもないじゃないですか」


「そうだよね。萩くんには、菊さんがいるもんね」



 そう述べる桜文に、萩はきょとんと目を丸くさせ。



「えっと、なんでそこで牡丹の異母妹の名前が出て来るんですか?」


「なんでって、二人は付き合っているんでしょう」



 萩はまたしても数回、瞬きを繰り返すや。


「はあ……?」

と、間の抜けた声を盛大に漏らす。


 思わず崩れてしまった顔をそのままに、

「あの……、何か勘違いしているみたいですけど、俺と牡丹の妹は、そういう関係ではありませんから」



「え。違うの?」


「当たり前じゃないですか。なんでそんなことになっているんですか」


「だって、学祭の庚姫コンテストで。二人はそういう関係に」


「あれはあの女が適当に俺を指名しただけで、深い意味なんてありませんよ。要は、虫が良い暇潰しの相手に選ばれただけです」



 はっきりとそう返す萩に、一方の桜文は、

「そうだったんだ……」

と、ぽつりと小さな音で応える。


 そんな彼との会話に、萩は朝方のことを間接的に思い出し。ポケットの中に手を突っ込んで再び口を開こうとするも、とたとたと軽快な音がそれを遮り。



「桜文先輩! 済みません、遅くなっちゃって」


「万乙さん……。ううん、大丈夫だよ」


「前の時間が体育だったので、着替えに手間取っちゃって。もうお腹ぺこぺこです」



 にこにこと満面の笑みを添え、弁当を抱えながら桜文の元へと寄って行く万乙を前に、萩はポケットの中に手を突っ込ませたまま掴んでいた物をぱっと離し。



「……牡丹にでも渡せばいっか」



 踵を返し、彼は一人教室への道を辿って行くも。



(あの人もそうだが、どいつもこいつも本当に、牡丹と血が繋がっているのか? とは言っても、半分だけだが。けど、それにしたってもう少しくらい、似ている所があっても良い気がするのに。

 唯一似ていると言うか共通しているのは、兄弟それぞれの名前に花の名が入っているくらいで。

 ……ん、待てよ。)



 ぐるぐると、頭の中を回転させ。



「うん。確かに名前の方はHになるけど、だが、天正なんだから、姓はTになる訳で。それじゃあ、やっぱり違うか……。いや、」



 萩は息を吸い込み。そして、ゆっくりと吐き出させ。



「旧姓――……、」

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