第114戦:衣に摺り付け 着む日知らずも

 部屋中に、緊迫とした空気が張り巡らされている中。


 梅吉は、にかっと白い歯を覗かせ。



「どうしたんだよ。中、開けないのか? 手紙なんだろう、俺達には気にせず読んでもいいぞ」


「いえ、今は……」


「ふうん。“今”はなんて言って本当は、読むつもりなんて更々ないんじゃないか?」



 梅吉が告げると同時、表面上は冷静な姿勢を装う菖蒲だが、問題の手紙を持っている手は微弱ながらも震えており。


 しかし、漸くとばかり。彼はゆっくりと、堅く結ばれていた口を紐解くみたいに緩めていき。



「……僕がこの手紙を読もうと読まないと、兄さんには一切関係ないじゃないですか」


「それを言われたら、何も言い返せないじゃないか」



 狡いぞと、梅吉は言葉に出すことはなかったが。顔ではそう訴え。


 けれど、菖蒲は真面に取り合うことはなく。彼にしては珍しくも、苛立たしげにそのまま室内から退出する。


 その背中を牡丹は黙って見送ったものの、扉が閉まると同時、横へと視線を向け。



「それで、どうするんですか?」


「どうするって、何がだよ」


「何がって、菖蒲のことですよ。相当怒っていたみたいですけど……。

 謝りに行かないんですか?」


「どうして俺が謝らないといけないんだよ」


「だって、菖蒲を怒らせたのは、梅吉兄さんじゃないですか。菖蒲が怒るなんて相当ですよ」



 牡丹は説得しようと試みるが、しかし。予想通りとでも言うのだろうか。一筋縄ではいかないようで。


 梅吉は、ベッドの上から離れる気配を見せることなく淡々と。



「別に俺は怒らせたつもりはないけどなあ。本当のことを言ったまでだし。普段は大人ぶっている割には、アイツもまだまだおこちゃまだからなあ」


「梅吉兄さん!」


「なんだよ。そんなに気掛かりなら、お前が代わりに宥めてやれよ」


「俺が……ですか?」


「ああ。『兄さんには関係ない』ってはっきり言われちゃった以上は、俺が口出しする訳にはいかないだろう」


「それを言うなら俺だって。関係ない立場じゃないですか」


「でも、お前はそうは言われていないだろう」


「それはそうですけど」



「でも」と牡丹は繰り返すが、これ以上は無駄な時間を費やすだけかと、彼はあっさりと敗北を認める。


 兄の部屋を出て、どうするものかと考え込むも。気付けばとある部屋を前に、生唾を呑み込んでおり。一呼吸空けると、その戸を数回、軽く叩き。中から聞こえて来た返答に、牡丹は中を窺うよう、ゆっくりと扉を開けていく。



「椅子を用意しましたが、座りますか?」


「あ、ああ……」



 おそらく彼には、端からこの展開が読めていたのだろう。予め用意されていた折り畳みタイプの椅子に、居心地の悪さを感じながらも牡丹は座り込む。


 そして、机の上に置かれた、そのままの状態である一通の封筒を目の端に留めさせながら。すっかり乾いている唇に、気付いていながらもどうこうすることもなく。



「手紙、本当に読まないのか……?」


「読まないんじゃないんです。読めないんです」


「読めないって……」


「僕には、この手紙を読む資格がないんです」



 まるで自身を嘲笑うよう、語尾にはその色を乗せさせ。そう答える菖蒲に、牡丹は跋の悪い顔を浮かばせる。


 すっかり二の句を告げないでいる牡丹を気遣ってか否か。菖蒲の視線は依然として封筒を見つめたまま。



「それで、牡丹くんは一体どんな用件で……なんて、訊くまでもありませんよね」


「あ、いや、その。別に言いたくないなら、いいんだけどさ。うん。誰にだって、言いたくないことはあるものだし」


「いえ。

 ……あの時、牡丹くん、言いましたよね。どうしたいんだと、女性恐怖症を治したいよなと」


「えっ? ああ、うん……」



(確かにあの時、そんなことを。)



 言ったなと、当時の――保健室での遣り取りを思い返しながら、牡丹は小さく頷いた。


 そんな彼の様子に、菖蒲は漆黒色の瞳を揺らして。



「その返事をまだしていませんでしたよね。僕は別段このままでも……、いえ、このままでなければ。

 ――きっとこれが、彼女から逃げた代償なのだから」


「代償って……」



 牡丹は目を瞠らせたまま、思わず息を呑み込ませる。その音を遠くに、菖蒲は無機質にも口を動かして。



「母が自殺し、義父もアルコールに浸り続けた結果、身体を壊して母の後を追うようにして亡くなって。独り身になった僕を引き取ってくれたのが、伯父夫妻でした。

 元々彼等とは家が近所だったので、昔から馴染みが深く。一緒に暮らすようになってからも本当の子供のように接してくれ、僕には勿体ないくらい善良な人達で。そして、百中衣伊は……、衣伊は僕の従妹で、百中家に引き取られたことによって僕と彼女は従兄妹という間柄から義兄妹に――表向きはそうなりました」


「表向き? 表向きってことは……」


「はい。おそらく牡丹くんの想像通りです。

 けれど、彼女に触れようとすると、母の死の場面が思い返され。血の気が引き、眩暈や吐き気が催されて。始めの内は時間が経てば治るだろうと、あの日の記憶が薄れればと、そう思って過ごしていましたが、いつまで経っても治る所か悪化していく一方で……。

 情けないですよね。好意を寄せている相手さえ、真面に触れられないなんて。それなのに、彼女はそんな僕を非難する所か、気にすることはないと。優しい言葉を掛けられる度に、反って惨めで、反って不甲斐なくて。

 だから出て来たんです、百中家を――……」



 刹那、菖蒲の口先から湿った息が吐き出され。その音は牡丹の耳も掠め。行き場もなく、ただただ辺りを彷徨い続ける。


 けれど――。



「あの時、死ぬべきだったのは母ではなく、僕の方だったんです」


「そんなことっ……!」


「いえ、そうじゃないですか。僕さえ生まれていなければ、母も義父も命を落とすことは……。

 それなのに、元凶である僕だけが一人、ずるずると生き続けているなんて」



「滑稽ですよね」と、後には自嘲ばかりが続き。


「責められた方が、余程楽になれたのに……」

と、組まれた手の上に額を乗せ。薄暗い室内の中、小さな音でそう呟いた。






✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎






 陽も大分下がり、頼りない明かりがそれでも射し込んでいる校内の人気のない廊下にて。



「図書室ってあまり行ったことなかったけど、色んな本があるものなのね」



 鄙勢は何冊もの本を胸に抱え。ふんふんと、鼻歌混じりに生徒会室へと続く廊下を歩いて行く。


 が、その最中。反対側から歩いて来た人物を捉えると、小走りで駆け寄って行き。



「あっ、天正くん! 丁度良かった。図書室で参考になりそうな本を借りて来たの」



「たくさんあったわよ」と、鄙勢はご満悦とばかり。手にしている本を掲げて見せる。


 そして、一緒に生徒会室に行くよう促すが、しかし。菖蒲の足が動くことはなく。彼のその様子に、鄙勢は眉を寄せさせ。



「天正くん、どうしたの? 早く行きましょうよ」


「いえ。……どうしてそこまで協力してくれるんですか?」


「どうしてって……。

 だって天正くん、女性恐怖症を治したいんでしょう? だから」



 さぞ当たり前だとばかり、今度は鄙勢が首を傾げさせるが。そんな彼女の態度に、菖蒲は冷やかな瞳を揺らしながら。床と睨めっこをしたまま、ゆっくりと口を開いていき。



「昨日も言いましたが、僕にはもう構わないで下さい。既に十分お分かり頂けたとは思いますが、こんな体質ではとても生徒会には――あなたと行動を共にすることはできませんし、それ以前に元々興味もありません。

 大体、どうして僕なんですか? あなたとは、ほとんど関わったことがありませんよね。なのに。僕以外にも……、いえ、僕以上にふさわしい人がいると思いますよ」



「どうしてって、そうねえ。直感とでも言うのかしら。私、昔からそういう感はいいのよね」


「直感って、そんな物で……」



 信じられないとでも言いたげな菖蒲に対し、一方の鄙勢はけろりとした顔で答え。


 そして。



「別にいいじゃない、理由なんてなんだって。

 とにかく、早く生徒会室に行きましょう。日光も待っているはずだから」



 そう言うや鄙勢はすっと手を伸ばし。菖蒲の手首を掴み取るが、刹那、彼はそれを払い除け。蒼白い顔をそのままに。



「……済みませんが、本当に結構なので」



「失礼します」と、口早に。まるで切り裂くみたいにそれだけ告げると、彼は床を見つめたまま。鄙勢を残し、一人薄暗い廊下を進んで行った。

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