第109戦:安眠寝しめず 君を悩ませ
物音一つ聞こえない室内で、牡丹はただ大きく目を瞠り。目の前のベッドに上半身ばかりを起こし上げている菖蒲を見つめ続ける。
言いたいことは上手く言葉にならず、それでもどうにか喉奥を動かして。
牡丹は菖蒲の顔色を窺いながら、
「えっと、母の死が原因って……」
おどおどとそう紡ぐ牡丹とは裏腹、菖蒲はゆらりと影の掛かった瞳を揺らして。けれど、声はいつもと変わらぬ調子のまま、ゆっくりと発する。
「母は僕を身籠っていたことを隠して、本当の父親とは別な男と籍を入れました。なので、義父は僕のことを血の繋がった本当の息子だと、一抹も疑うことなく信じていました。勿論、僕もです。
けれど、母は何を思ったのか。僕が中学に上がろうとしていた時分、突然そのことを告白しました。その日以来、義父は人が変わり、家にいればいつもアルコールに浸るようになり、時には母に暴力を振るい。母も母で、ずっと僕等を騙してきた罪に苛まれていたのでしょう。ある日、とうとう母は自殺しました。手首を切って、水を張った浴槽の中に腕を突っ込んで。
そんな母を最初に見つけたのは、僕でした。急いで応急処置を施しましたが、間に合わず。結局、母はそのまま二度と目を覚ますことはありませんでした」
菖蒲はそこで漸く一息吐き。その乾いた音は、牡丹の耳にまではっきりと響き渡る。
その音が頭から離れ切る前に、菖蒲は重たそうな口をそれでも動かし。
「……思い出してしまうんです、女性を見ると、あの時の光景を。赤く濁った水の色も、時間の経過と共に熱が失われていく母の肢体の冷たさも。
分からないんです、女性の気持ちが。理解できないんです。どうして母があんな告白をしたのか。言ってしまえば、おそらくこうなるだろうと。簡単に予想できただろうに。最期まで嘘を吐き通せば良かったものを」
それはまるで軽蔑に近く。彼にしては珍しくも、口元に薄らと笑みを浮かばせる。
その嘲笑に含まれた意味を、牡丹は全て理解できることはなく。彼はそのことを気に留めながらも。
「そう言われると、俺だって女の子の気持ちなんてよく分からないけど。でも、菖蒲って、小説を書いているだろう? 確か、女性の読者が多いって。それってつまり、女の人の気持ちが理解できるから、共感を得ているから支持されているってことなんじゃないのか?」
菖蒲は持て余していた眼鏡を掛けるといつも通り、面白味のない真顔を浮かばせ。
「あんな物、コツさえ掴めば、女性の心理など分からなくても書けますよ」
「あんな物って、そんなことないと思うけど……。
それで、結局菖蒲は、女性恐怖症を治したいのか?」
「確かにこの体質が治るのであれば、それに越したことはありませんが。けど、別段このままでも構いません。
今日倒れたのはおそらく女性の顔を真面に見たのが数年振りだったからで、こうして眼鏡も手元に戻って来ましたし、女性と関われないからといって命に別状がある訳でもありませんから。何も問題ありません」
そうきっぱりと述べる菖蒲に蟠りを覚えるも、牡丹は何も言い返すことができず。
どうしたものかと困惑していると、不意に外側からカーテンが開き。
「ふうん、成程な。話は聞かせてもらったぜ」
「梅吉兄さん――!? どうしてここに……」
「いやあ、それが栞告ちゃん、気絶しちゃってさ。なかなか目を覚まさないもんだから、保健室に連れて来たんだよ」
「連れて来たって……」
今度は一体何をしたんだと、いつものことながら。抱えられている栞告を見つめながらも、牡丹は呆れ顔を浮かばせる。
そんな弟からの冷たい視線を物ともせず、梅吉はしれっとした調子で。
「そうじゃないかとは薄々思ってはいたが、まさか女の子の顔を見ただけで気を失っちゃうほど苦手だったとは。女の子が怖いなんて、俺には信じられねえなあ」
「えっ。梅吉兄さん、菖蒲の女性恐怖症のことを知っていたんですか?」
「まあな。一つ屋根の下に住んでいるんだ。それに、この俺に隠し事をしようとしたって無駄だ、無駄」
そう言うや、けらけらと軽快な笑声を上げる兄に、この人だけには絶対に隠し事はできそうにはないと。牡丹は半ば諦めの念を感じさせられ。
それと同時、おそらく彼にだけは知られたくなかったのであろう。けれど、全てを聞かれてしまい。隣で酷く悶絶している菖蒲に思わず同情を寄せる。
「なに、可愛い弟の為だ。ここは女の子に関してスペシャリストなこの俺が、人肌脱いでやるとするか。でもよう、天正家唯一の眼鏡キャラが実は伊達だったって、結構重大な問題だよな」
「そうですか? そんなこと、どうでもいいじゃないですか。なあ、菖蒲……って、大丈夫か?」
「はい、どうにか……。
それより、僕のことは気にしないで下さい」
「なあに、俺達は半分だけだが血を分かち合った兄弟同士。遠慮するなんて水臭いじゃないか。お前の女性恐怖症は、俺と牡丹でけろっと治してやるからさ」
やはり、この兄からは逃れられそうにはないと。すっかり得意気な梅吉とは裏腹、ますます打ち拉がれている菖蒲を余所に、嫌な予感しかしないなと。
牡丹は情けなくも同情することしかできない自分に、苛立ちなどとうに通り越し。諦念を抱かされるばかりであった。
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