第092戦:咲けりとも 知らずしあらば 黙もあらむ
とある休日の、天正家にて。
「ううん、今日は久し振りの休みだし……」
「ゆっくりしよう」と、のろのろと階段を下りながら。牡丹は天に向かって身体を伸ばす。
そのままリビングに入ろうとするも、ふと玄関先に四男――藤助の姿を見つけ。
「あれ、藤助兄さん。出掛けるんですか?」
「うん。道松から連絡があって、忘れ物をしたから届けてくれって。それで学校に行くんだけど、帰りに買い物もして来るから。なにか必要な物はある?」
「必要な物か……。いえ、特にないので大丈夫です」
「そっか。それじゃあ、ちょっと行って来るから」
そう言って出て行く兄を見送ると、牡丹は一人リビングへと入り。ソファに寝転がって、テレビを付ける。
「ふうん、また台風が近付いているのか。明日の朝方に直撃か。でも、明日の稽古は午後からだし」
大丈夫そうだなと簡単に結論を出すと、次々とチャンネルを変えていき。
「おっ、スペシャルドラマ・必殺遊び人の再放送だ。見たかったのに忘れていて、見逃しちゃったんだよなー」
ラッキーと牡丹は上機嫌に、そのままテレビへと噛り付き。すっかり画面の世界に夢中になる。
その一方で、外の世界ではぽつぽつと。小さい音ながらも雨音が鳴り始め。それは徐々に大きくなっていった。
✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎
貴重な休みを満喫するよう、ごろごろと寛いでいる牡丹から所変わり。
南総学園の射撃部の更衣室では――……。
「はい、これ。頼まれていた物」
「ああ。悪かったな」
「別に。買い物に行くついでだったから」
「それはいいんだけど」と、藤助は朧気な声で返すと、ふらふらと適当に辺りを歩き始め。しかし、急に立ち止まると声を潜めさせたまま。
「ねえ、道松。あのさ、その……、抱き締めて欲しいんだけど……」
「……はあ? なんだよ、いきなり。何かあったのか?」
「いいから。俺のこと、抱き締めて」
「早く」と、そればかり。道松が理由を問い質しても、藤助は一切口を開こうとはせず。
そんな強情な弟に道松は諦めると一つ乾いた息を吐き出させ、彼の方へと一歩詰め寄り。
「よく分かんねえけど……、これでいいのか?」
「……そんなんじゃなくて、鶴野さんにする時みたいに」
藤助の返答に道松はますます顔を苦めさせるも、お手上げとばかり。気持ち程度に添えさせていた手に力を込め直すと、ぽんぽんと藤助の頭を軽く叩く。
「ほら、これなら満足か?
……おい、藤助。藤助?」
道松がいくら問い掛けても、藤助はやはり無言のまま。けれど、とんと道松の胸板を押し返し。するりとその腕の中から抜け出すと、一人出入り口の方へと向かう。
しかし、扉の前に差し掛かると、漸く道松の方を振り返り。
「道松の……。道松の、ばかっ……!」
それだけ言うと、前を向き直り。ぽかんと間抜け面を浮かばせている道松を置き去りに、彼は一人外に出ようと扉を開ける。
が。
「え……、嘘……」
予想していた景色とは全く異なる光景に、藤助はぱちぱちと、何度も瞬きを繰り返す。
目を擦りもう一度見直すが、やはり変わることはなく。
「なに、これ……」
と、もう一度。バケツを引っ繰り返したような雨雫に、叩き付けるような風の音を聞きながら。彼は呆然と、ただただその場に立ち尽くした。
✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎
一方、その頃。天正家にて――……。
時代劇ドラマに耽っていた牡丹だが、しかし。見終わるや否や、いつの間にか寝扱けており。
ふと目が覚め上半身を起こし上げると、ちらりと時計を眺め。
「げっ、もうこんな時間か。ちょっと寝過ぎたな……って、随分と外が荒れて来たな。予報では、台風が来るのは明日だって」
言っていたのにと、思い返した直後。急に外が明るく光り。続いて轟音が鳴り響くと同時、家中の電気が一瞬の内に全てが消えた。
「うわっ、停電だ! 近くに雷が落ちたのか?」
突如真っ暗になった室内に、タイミングが良いのか悪いのか。単調な音楽が流れ出し。
「あっ、藤助兄さんから電話だ。もしもし、はい、はい。えっ、帰れなくなったって……。はあ、この天候ですもんね。
えっ、こっちですか? それが停電しちゃって……。懐中電灯なんですけど、はい、和室のタンスの中ですか? ちょっと見てみます。ええと……、あっ、あった、ありました」
牡丹は電話を切ると、懐中電灯のスイッチを押し。
「うん。ちゃんと点くし、ひとまずこれで電気は確保できたな。あとは夕飯か。ガスは点くからどうにかなりそうだけど、問題は食べる物があるかどうか……」
牡丹は懐中電灯の明かりを頼りに、冷蔵庫を開けて中を確認しようとするも。ふと傍らに人気を感じ。
そちらにライトを向けると、暗闇の中に、ぼやっと輪郭が怪しげに浮かび上がった。
「うわっ、なんだ。菊、いたのか。びっくりしたあ……。
兄さん達、この天気で帰って来られないから、今日は学校に泊まるってさ。それで夕飯なんだけど……って、おい、どこに行くんだよ」
「どこって、お風呂。さっき沸かしておいたから。いつ電気が回復するか分からないし、冷めない内に入っておかないと。兄さん達がいないからって、覗いたりしたら絶対に許さないから」
「なっ……、誰が覗くかよ!」
牡丹は咄嗟に否定するも、菊は疑いの目をしたまま。牽制とばかりに鋭く睨み付ける。それから、牡丹の手から懐中電灯を奪い取ると、彼女はそのまま浴室へと向かい出す。
「あっ、おい……。
なんだよ。懐中電灯だって、俺が出して来たのに!」
せっかく確保したばかりの電灯を失った上に、相変わらずの妹からの信用のなさに。牡丹はむすりと眉間に皺を寄せさせるが、ふとある事実に気が付き。
「あれ。道松兄さんに梅吉兄さん、藤助兄さんに菖蒲も確か学校に行っていて。桜文兄さんは道場の合宿で、芒もそれに付いて行って今日は帰って来ないはずで。と言うことは、もしかして……」
いや、もしかしなくても。
(菊と二人きり……?)
なんて。たとえそうであったとしても、何かある訳ではないかと。
容易に判断を下すと、牡丹はスマホのライト機能を使い。引き続き、何か手頃な物はないかと、冷蔵庫の中を漁り出した。
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