第075戦:山霍公鳥 いつか来鳴かむ

 とあるマンションの、とある部屋の前で。藤助は一つ深い呼吸をし、いつもより少しばかり早く脈打つ鼓動をどうにか落ち着かせる。


 そのことを確認してからチャイムの音を鳴らすが、いつもなら直ぐに開かれる扉はなかなか開かず。どうしたものかと疑問を抱くと同時、代わりに「きゃあっ!?」と、短い悲鳴が中から聞こえて来た。


 その声に、藤助は咄嗟にドアノブへと手を掛け。開く扉に一人暮らしの女性が不用心だと思う傍ら、靴を脱ぎ捨てるとそのまま奥へと進んでいき。



「小長狭さん、大丈夫ですか!?

 ……って、えっ……?」


「いたたたた……。

 あっ、藤助くん。いらっしゃい」


「はい、お邪魔しています……って、あの、大丈夫ですか……?」



 床に寝転んで……いや、倒れ込んでいると言った方が適切だろうか。そんな状況であるにも関わらず、時城は藤助の姿が目に入るなりいつも通りの笑みを浮かばせ。ゆっくりと上半身を起こし上げる。



「うん、平気、平気。ちょっとそこの椅子から落ちて、腰を打っちゃっただけだから。

 探し物をしていて……、ほら、これ」


「これって……。アルバムですか?」


「うん、なんだか急に見返したくなって。それで探していたんだ。

 藤助くん、見たい?」


「えっ? いえ、俺は別に……」


「ねえ、見たい?」



「見たい?」と、もう一度。時城は満面の笑みを添えて繰り返す。語尾にはクエスチョンマークを付けてはいるものの、それは決して疑問形ではなく命令形であり。


 藤助には拒否権など端から与えられてはおらず、仕方がないとばかり。彼は彼女の隣にそっと座り込んだ。



「へへっ。高校の時に撮った写真なんだけど、やっぱり懐かしいなあ」


「バレーをしている所の写真が多いですが、小長狭さんはバレー部だったんですか?」


「ええ、そうよ。これでも私、エースアタッカーだったんだから」



 ふふんと鼻息を荒く、時城はすっかり得意気に。時折説明を加えながら、ぱらぱらとページを捲っていく。


 けれど、とあるページに差し掛かった所で、藤助の瞳が平常より大きく開いていき。彼が問うよりも先に。



「見て、これがミノリよ。どう、かっこいいでしょう?」



 時城はご丁寧に、指まで差して示した。



「とは言っても、藤助くんの方が見た目はかっこいいかな。

 でもね、口は悪くて頭もあまり良くなくて。無鉄砲で後先考えない性格なんだけど、サッカー部のエースでさ。いつも自信に満ちて、みんなからも頼りにされていたの。そういう所は今でも変わりなくて、アイツの周りにはいつも自然と人が集まるんだよなあ」


「あの、その……。ミノリさんとは、高校の時からの付き合いだって。そう言っていましたが……」


「ええ、そうよ。でも、付き合い始めたのはお互い部活を引退してからだけどね。

 きっかけは、やっぱりあのことかなあ」


「あのこと……ですか?」


「うん。高校最後の大会前に、私ってば練習中に怪我しちゃって。でも、私って負けず嫌いでしょう。だからみんなには隠して試合に出ようとしていたんだけど、アイツにばれちゃって。止められたんだけど、それでも言うことを聞かないで試合に出ていたら、アイツ、自分の試合を放り出してまで会場に乗り込んで来て止めてくれたの。

 信じられないでしょう。いや、素直に言うことを聞かなかった私が悪いんだけど……。でも、やっぱり嬉しかったなあ。自分の試合より、私のことを選んでくれて――……。

 私の方は結局負けちゃったんだけど、ミノリの方は急いで会場に戻った後に逆転勝ちしてさ。なんだかそういう所も、アイツらしいなって。あの日のこと、今でも昨日のことみたいにはっきりと覚えているの」



 時城は静かにアルバムを閉じ。



「なんて、やっぱり恥ずかしいな。ごめんね、付き合わせちゃって……って、藤助くん? どうかした?」


「あっ、いえ。別になんでも……。

 それより、そろそろ始めませんか?」


「ええ、そうね。それでは。今日もよろしくお願いします、先生」


「だから、先生は止めて下さいって」



 この遣り取りは、今回で一体何度目だろうと。そんなことを考えながらも藤助は先行く時城に続き、重たい腰を上げて台所へと移動した。


 こうして、いつもの日課を熟していき。



「見て、見て、この卵焼き! 今までで一番綺麗にできたと思わない?」



 すっかり自信満々に、時城は自身の出来栄えに燥ぎ出す。


 そんな彼女の様に、藤助はくすりと笑みを溢し。



「はい。焦がしてばかりいた人が作った物とは思えませんね」


「もう、それは言わないお約束でしょう。でも、私だってやればできるって。藤助くんも、これで分かったでしょう?

 唐揚げも上手くできたし、こういう時は、ぱーっとお祝いしたいものよねー。こう、缶ビール片手に……って、今は禁酒中の身だったわ……」



 せっかく良い気分であったのに。そのことを思い出し酷く落胆する時城に、藤助は小さく噴き出しながら。



「いいんじゃないですか? 少しだけなら。我慢し過ぎるのも体に毒ですしね」


「えっ!? そ、そうかなあ……。うん、そうよね。だって、今日は特別だもんね。それじゃあ、一本だけ……」



(って、言っていたのに……。)



 結局次々に開けちゃっているし……と、藤助はすっかり酔い潰れた末に眠り扱けている時城を後目に。床に転がっている缶を拾い集めていく。


 それにしても。



「本当に不用心というか、信用してくれているというか……」



 いや、

「全く相手にされていないだけか」


 時城の気持ち良さ気な寝息が聞こえて来る中、藤助は溜息交じりに小さく呟く。


 ちらりと、絆創膏だらけの彼女の指先が目に入り。自然と伸びた手は、無意識の内にも彼女のそれへと触れていた。


 そっと、上下に動かし指の腹で撫でるも。薄い皮膚を通して仄かな熱が内側へと浸透するだけで、他にはなんの意味を持たず。それでも繰り返し撫で続けるも、ふと頭の中に響いて来た彼女の声に、指の動きは自ずと止まった。


 不必要な熱を帯びたそれは、直ぐにも彼女から離れ。行き場を失ったまま、処理し切れずに残ってしまった熱と共に、適当に宙を彷徨うばかりであり。


 試しとばかりにもう一度、彼女の方へと伸ばしてみるも。その手前に差し掛かると、己の手は勝手に止まり。暫くの間、無意味にもその様を眺めていたが、藤助は立ち上がると一人台所へと向かい。まるで仕事を与えるみたく、シンクの中に残っていた食器を洗い出した。






✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎






 話は数時間前にまで遡り。天正家にて――。



「あの。これ、一体どうするんですか……?」



「どうするもこうするも、どうにかするしかないだろう」

と、梅吉は淡々と牡丹に返すものの。いつもの風景とは豪く異なり、ぐちゃぐちゃになったリビングを見渡して、天正家の面々は揃って顔を蒼白させている。


 前回のできごとをざっと振り返るならば、第一に、桜文と芒がプロレスごっこをして遊んでいた拍子にテーブルの上に置かれていたペットボトルが大きく吹き飛び。中身が溢れ、床一面にオレンジジュースの池を作り。


 第二に、その直後に帰宅した道松がそれに足を取られて転倒。その上、続いて帰宅した梅吉とひょんなことから喧嘩に発展。


 そして第三は、そんな二人の喧嘩を止めに入ろうとした牡丹だが、力敵わぬ所か返り討ちに合ってしまい。突き飛ばされたことによりタイミング良く……、いや、悪く帰宅した菊の足元に転がって、ラッキーすけべ発動からの粛正を受けた所で終わった――かに思われたが……。


 第四、菊に思い切り叩かれた牡丹がまたしても吹き飛び。そのまま棚にぶつかり、飾ってあった表彰盾を落として粉々に破損してしまうという事態が起きていた。


 自室に控えていた菖蒲も下の騒ぎを聞き付け、変わり果てた部屋の有様に牡丹等と一緒になって眉を顰めさせる。



「それにしても。随分と派手に暴れましたね」


「ああ。藤助が見たら、絶対に怒るぞ。下手したら、三日間くらい夕飯抜きにされかねないな」


「あの。俺が割っちゃったその盾って、一体……」


「ん? ああ、これか? これは確かじいさんが、数年前にサバゲーの大会で入賞した時にもらってきた物だ。とは言っても、結果は三位だし所詮はお遊びの景品だけど、じいさん、豪く気に入っていたからなあ」



(うっ、そんな物を……。)



 壊しちゃうなんてと牡丹は胸を痛めるが、しかし。それだけでは元に戻る訳もなく。



「とにかく藤助が帰って来る前に、みんなで元通りにするぞ。盾はしょうがないな。じいさんが帰って来たら謝るとして、まずはガラスの片付けからだ。芒は危ないから下がっていろ……って、ちょっと待て。

 おい、菊。何を一人だけ暢気に飯なんか食っているんだよ。お前も手伝え」


「はあ……? どうして私が手伝わないといけないのよ。部屋をこんなにしたのは、兄さん達じゃない。私には関係ないでしょう」


「関係ないって、関係なくないだろう。お前が俺のことを叩かなければ、盾が壊れることはなかったんだぞ」


「なによ。人のスカートの中を覗いたアンタが悪いんじゃない。この変態!」


「変態って……。だから、あれは事故だって言っているだろう!」



 やはりいつもの調子で反論を述べる牡丹だが、しかし。



「いやあ、いくら絶好のチャンスでも、さすがに妹のスカートの中は覗かないよな……」


「ああ。そこは覗いた牡丹が悪い」


「ちょっと待って下さいよ! だから、事故だって言っているじゃないですか。まるで俺がわざと覗いたみたいな言い方しないで下さい。

 大体、兄さん達が喧嘩さえ始めなければ、俺だって見たくもない菊のパンツなんか見なくて済んだの」



「に」と最後まで言い切る前に、菊の手から胡椒のビンが放たれ。それは見事、牡丹の顔面へと直撃した。



「いっつう……」


「今のも牡丹が悪い。お前はもう少し、女心というものを勉強した方がいいぞ」


「おい。いつまでも無駄口を叩いていないで、早く片付けるぞ。藤助が帰って来ちまうだろうが」



 そうだなと道松の意見に同意するや、黙々と片付けをし出す兄達に。理不尽さを抱くものの、牡丹はそれ以上何も口にすることなく、おとなしくその輪に加わる。


 数時間が経過し――……。



「ふう。ガラス片は撤去したし、零れたジュースも拭き取った。あとは、カーペットの染みだけか。

 なあ、菖蒲。何か手っ取り早く落とす方法とかないのか?」



「そうですね、調べてみます」

と、梅吉から依頼され、菖蒲がスマホを取り出したのと同じタイミングで。


「ただいまー……」

と、玄関先から声が聞こえ。それに続き、廊下を歩く音が響いて来た。



「やばいっ、藤助が帰って来たぞ!? なんでこういう日に限って、いつもより早いんだよ。まだカーペットの染みが落とせてないのに……。

 取り敢えず、一旦その染みと盾を隠せ!」


「隠せって、言われても……」



 どうしようと牡丹は右往左往するも、考える暇さえ与えられることはなく。その間にもリビングへと続く扉は、無情にもゆっくりと開かれていく。


 もう駄目だ――! と、彼が思った瞬間。扉の開く音に合わせるよう、道松と梅吉は目配せするや立ち上がり。二人同時に手を伸ばすと肩を組んで、そのまま扉の前に立ちはだかった。



「ただいま……って、どうしたんだよ。二人とも、そんな所に突っ立って」


「えっ? 別に何も……。なあ、道松」


「ああ。何か変か?」


「……なんだかよく分からないけど、早くそこどいてよ。中に入れないだろう」


「わーっ!?? ちょっと待った! この部屋になんの用だ?」


「なにって、洗い物を」


「洗い物だと!? まだ夕飯を食べていないのに、洗い物なんて……」


「えっ。何か言った?」


「いや、なんでもない。それより、洗い物ね、洗い物。洗い物なら、あーと……、そうだ。俺達でやっておくから。だからお前は先に風呂に入れよ」


「ああ、そうだな、それがいい。バイトで疲れているだろう? ゆっくり浸かって来いよ。なるべく長くな」


「えっ、梅吉と道松が洗い物だって? いつもなら絶対にやりたがらないのに……」



 おかしいと、藤助が疑り深い目で二人を見つめるも。



「いいだろう、別に。今日はそういう気分なんだよ。ああ、なんだかとっても洗い物がしたいなーって。

 そういう訳だから、俺達にやらせてくれよ。なっ、いいだろう?」


「そこまで言うなら別にいいけど……。でも、食器を割らないでよ?」



 疑心を残しつつもそう警告するや、藤助は背を向け。それに続き、ぱたんと静かに扉が閉まる。


 その音に合わせるよう、道松と梅吉はまたしても一斉にその場に座り込み。



「ふー……っ。どうにか誤魔化せたな……」


「とにかく、もう時間がない! 藤助が風呂に入っている間に、なんとしてもカーペットの染みを落とさないとっ……!」



 決意を固く、珍しくも兄弟達が心を一つにした瞬間。不意打ちとばかり、またしても扉が開き。



「あっ、そう、そう。言い忘れたけど、洗剤がそろそろ切れると思うから。替えは上の棚に……って、え……。

 あれ。なに、これ……」



 再び開かれた扉を前に、全員の動きはぴたりと止まり。まるで静止画みたくなっている。タイトルを付けるならば、『悲劇との対面』……とでもしておこうか。


 上手く状況を呑み込めず茫然と立ち尽くしている藤助を余所に、しまった――っ!?? と。牡丹等は指先一つ動かすこともできず、心の中で同時に叫んだ。

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