第074戦:我が宿の 池の藤波 咲きにけり

 時分は夕暮れ時――……。



「ただいま……って、藤助兄さん……」



「今日もいないのか」と、いつもなら直ぐに返って来るはずの挨拶は、いつまで経っても聞こえて来ることはなく。部屋の中はしんと静まり返っている。


 そんな中、牡丹は奥へと進んで行き。他の兄弟達が帰って来るまで、ゆっくりテレビでも見て待っているかと。ソファに座ろうとするも、その手前。不意に足に異様な重さを感じ。彼は素っ頓狂な音を上げながら直ぐ様頭を下げると、そこにはコアラみたく足にくっ付いている末っ子の姿があった。



「びっくりした。なんだよ、芒。いたのか。道理で部屋の明かりが点けっ放しだと思ったら。藤助兄さんなら、絶対にそんなことしないもんな……って、いつまでくっ付いているんだよ。早く離れろよ、重いだろう」



 牡丹が文句を言うも、芒はいつまで経ってもなかなか離れようとはせず。そんな弟の違和感を覚えさせる様子に、牡丹は首を傾げさせたまま問い掛けるが返事はない。


 その代わりとばかり、芒は牡丹の足にまとわり付いたまま。すっ……と一枚のプリントを彼へと手渡す。



「なんだよ、これを見ればいいのか? ええと、なになに……。『親子レクリエーションのお知らせ』だって?

 へえ、近くの森林公園でバーベキューをするのか」



 秋真っ只中の今の時期、食欲の秋と言うけれど、まさにぴったりだと。“バーベキュー”というフレーズだけで、牡丹は単純にもそんなことを考える。



「それで、これがどうしたんだよ?」


「……」


「……もしかして、俺が一緒に行けばいいのか?」



 相変わらず引っ付いたままではあるが、漸く芒はこくりと小さく頷いてみせた。



「今度の日曜日か。うーん、まあ、この日は丁度部活が休みだから、参加するのは構わないけど……。でも、親子レクだろう。お前の同級生の親もたくさん来るんだよな? 

 確かにこの前の授業参観には参加したけど、あれはただ見ていれば良かっただけで。だけど、今回は色々と準備を手伝うんだよな? 『保護者の方は、なるべく準備のお手伝いをお願いします』って、プリントにも書いてあるし。

 バーベキューなんかやったことないからどうしたらいいかよく分からないし、それに、他の保護者の人と上手く話せる自信もないしなあ……」



 牡丹は腕組みしながら考え込むも。



「そうだ、藤助兄さんに頼めばいいんじゃないか? 兄さん、いつもこういうのに参加してくれていたんだろう」



 名案とばかり、牡丹が得意になって提案するも。それは、

「ダメ――!」

と。間髪入れることなく、あっさりと芒に却下されてしまう。



「駄目って、藤助兄さんだと嫌なのか?」


「藤助お兄ちゃんは、駄目なのお。お兄ちゃん、その日もきっとお出掛けするから」


「お出掛けって、そう言えば。この前の休日、兄さん、珍しく家にいなかったっけ……」


「だから、駄目なの。お兄ちゃんは駄目なの……」



 絶対に駄目だと、そればかりを繰り返す芒に、牡丹はお手上げとばかり。やきもきさせるしか他はなく。



「はい、はい。分かった、分かったから。俺が行けばいいんだろう? 一緒に行ってやるから、いい加減離れろよ。

 でも、どうして俺なんだ? 藤助兄さん以外なら、誰でも良いんだろう」


「だって、道松お兄ちゃんは前に参加してくれた時、お母さん達やクラスの女の子達に散々絡まれて、『二度とごめんだ』って、そう言っていたし。梅吉お兄ちゃんはたとえ部活が休みでも、デートの予定が入っているに決まっているもん。

 桜文お兄ちゃんだと男の子達が寄って来ちゃって放置されちゃうお父さん達が可哀想だし、菖蒲お兄ちゃんも原稿の締め切り前で忙しいでしょう。菊お姉ちゃんだとお父さん達が見惚れちゃって、下手したら家庭崩壊を巻き起こしちゃうかもしれない。

 そうなると、特に周りに影響を及ぼさない牡丹お兄ちゃんしかいないよね」



「ねっ!」と、たっぷりの愛嬌を込め。同意を求めて来る弟に、牡丹は薄っすらと苛立ちを覚えながらも。改めて自分の立ち位置を嫌というほど痛感させられる。



「藤助お兄ちゃんには、牡丹お兄ちゃんがどうしてもお肉を食べたいから参加するって言うんだよ」


「なんだよ、その理由は。まるで俺が食い意地を張っているみたいじゃないか。

 でも、本当に俺でいいのか? 芒だって、俺より藤助兄さんの方が良かったんじゃないか?」



 ちらりと、芒の顔色を窺うも。



「いいの。最近の藤助お兄ちゃん、楽しそうだから。邪魔したら可哀想でしょう」


「楽しそうって……」



(確かに、)



 そうかもしれないと、最近の兄の様子を思い返しながら。現金にも急に明るくなった芒を牡丹は見つめるが。



(それにしても――……。

 この様子だと、芒も藤助兄さんが嘘を吐いていることを知っているのか……?)



 もう一度、観察するみたく。牡丹はじっと芒のことを見つめるが。



「ただいまー」


「あっ、桜文お兄ちゃんだ! お兄ちゃん!」


「んー。どうした、芒?」


「桜文お兄ちゃん、遊ぼう! 遊ぼう!」


「ああ、いいぞ。それで、何をするんだ?」


「プロレスごっこ! プロレスごっこがいい!

 牡丹お兄ちゃんだと弱くてつまんないから、お兄ちゃんが帰って来るの、ずっと待ってたの!」


「おい、芒。バーベキュー、一緒に行ってやらないぞ」



 きゃっきゃ、きゃっきゃと甲高い音を上げている弟に、そんな訳ないかと。先程の考えなど、どこか遠くへと行ってしまい。牡丹は簡単にも結論を出す。


 それから。



「ていうか、家の中でプロレスごっこなんかして。物でも壊したりしたら……」



「藤助兄さんに怒られますよ」と。せっかくの彼の警告も、ほんの少しばかり遅く。その直後、虚しくもバッシャーン――!! という音が響き渡る。


 音のした方に顔を向けると、そこには二リットルのオレンジジュースのペットボトルがぽつんと扉の前に転がっており。また、どぼどぼと、豪い勢いで中身が漏れ出している光景が広がっていた。



「あっーっ!!? ちょっと、何しているんですか!?」


「えっと、いやあ。テーブルの上にペットボトルが置いてあるとは思わなかったし、その上、まさか蓋まで開いていたなんて思っていなくて……」


「うん、うん。でも、すごい飛んだね。さすが桜文お兄ちゃん。ちょっと手がぶつかっただけなのにね」


「感心している場合か!?

 そんなこと言っていないで、早く拭かないと……。ああっ、カーペットにまで零れているじゃないですか! 染みが残っちゃう!」



 能天気にもぼけっとしている桜文と芒の尻を叩き、こうして牡丹を先導にジュースで汚れてしまったカーペットを拭いていくも……。



「ああっ。駄目ですよ、桜文兄さん。そんな風に横に擦ったりしたら。反って染みが広がるだけで、こういう時は上から叩き付けるようにしてですね……って、桜文兄さん。兄さんが持っているそれって……」


「ん……? ああ、これ? いやあ、たくさん溢しちゃったし、布巾よりタオルの方がいいかなーと思って。吸水力も高いしさ」


「いいかなって……、それ、道松兄さんのタオルじゃないですかっ!?」


「えっ……。あれ、そうだった? あっ、よく見たら本当だ」



(まさか、道松兄さんのタオルでジュースを拭いたなんて。

 もしもそのことがばれたりしたら……、)



 絶対に怒られるっ……! と、思わずご立腹顔の長男を想像してしまい。牡丹は、ひいいっ! と、声にならない悲鳴を上げる。



「とにかく道松兄さんが帰って来る前に、先にこのタオルの染みを落とさないと……!」


「ただいま……って、うわっ――!?

 いってえ……。なんだよ、これ。もしかしてジュースか?」


「げっ!? 道松兄さん……」



 タオルに気を取られている隙に、二次災害とでも言うのだろうか。部屋に入るなり床一面に広がっていたジュースに足を取られ、尻餅をついている長男の姿がそこにはあった。



「おい、お前等。これは一体なんの騒ぎだ?」


「へっ!? お前等って、もしかして俺も含まれていますか?」


「当たり前だろうが。しかも、桜文。お前が手にしているのは、もしかしなくとも俺のタオルじゃないか?

 ……へえ、ほう。俺のタオルを雑巾にするなんて、一体どういうつもりだ……?」


「いや、これは、その。偶々適当に取ったのが道松のタオルだっただけで、別に悪気があった訳では……」


「ええいっ。言い訳はいいから、早くそのタオルをっ……!」



 おそらく、「洗え」と言いたかったのだろう。しかし、その一言が述べられることはなく。代わりに、

「っつう……」と短い悲鳴が吐き出された。



「たっだいまー! あー、腹減ったー……って、おい、おい。道松ってば、何を扉の前で座り込んでいるんだよ。通行の邪魔だろうが、早くどけよ」


「……おい。人の頭に思い切りぶつけておいて、言うことはそれだけかよ、ああっ!?」


「ぶつけてって、そんな所で座り込んでいるお前が悪いんだろう……って、げっ、なんだよ、これ。うへえ、随分と派手にやったなあ……」



 漸く部屋の惨状に気が付いた梅吉は、へらりと苦笑いを浮かべさせる。



「それに、桜文の持っているそのタオル、道松のじゃねえかよ。しかも、鶴野ちゃんからもらった超お気に入りの!

 あーあ。そんなにべっとり染み込んでいたら、もう取れないぞ」


「てっめー! なんでお前がそのことを知っているんだよ!?」


「だって、俺も付き添いで一緒に買いに行ったんだもん。ちなみにタオル差し入れ作戦を提案したのも、この俺だしさー」


「こんの、お前はいつも、いつも……っ!!」



 くすくすと気味の悪い笑みを溢す次男に、長男の怒りは簡単にも達してしまい。その感情は、真っ直ぐにそのまま梅吉へと向けられ――。



「わーっ!?? ちょっと、道松兄さんってば……!」



「こんな時に止めて下さいよ!」と、やはり最後まで発せられる前に。道松が足を踏み込み、腕を大きく振り回すも、本人達もすっかり忘れているようだが床には未だジュースの海が広がったままで……。


 またしても足を取られた道松は、半ば突っ込むようにして梅吉の方へと倒れていき。その衝撃に、梅吉は手にしていた鞄を思わず手放し、それはぽーんと大きく宙で弧を描きながらも華麗に飛ぶ。挙句の果てに、チャックの開いていたそこからは、ぼとぼとと中身が零れ。ジュースの池の中へと落ちていき……。



「いってーっ!??

 おい、何するんだよ。俺は男に抱き着かれる趣味はないんだよ……って、あーっ、俺の荷物がー!??

 うげえ、ジュースまみれだ。しかも、栞告ちゃんがくれた本まで……」



 嘘だろう!? と、珍しくも悲壮な音を溢す梅吉に、一方の道松はけろりとした顔で。



「けっ、本なんてどうせ読みもしない癖に。お前には豚に真珠じゃないか」


「なんだとーっ!? この本はな、栞告ちゃんが俺の為に選んでくれた本なんだよ! 『先輩でも読めそうな本を選んだんですけど……』って、顔を真っ赤にさせながらくれた本なんだよ。ただの本じゃないんだからな!」


「ちょっと、兄さん達ってば。こんな時に喧嘩なんかしないで下さいよ! ていうか、濡れている服で動き回らないで下さい、汚れが広がるじゃないですかっ……!」



 直ぐに牡丹が止めに入るも、最早二人の耳には彼の言葉は全く届かず。バチバチと、激しい火花を飛ばし合う。


 それでもめげることなく仲裁に入ろうとするも、その甲斐も虚しく。牡丹は、ぽーんと大きく弾き飛ばされてしまい。どさりと床に転がるが、しかし。不意に頭上に薄らと影が掛かり。



「いたたっ……、ん……? チェック柄……って、げっ――!?」



(このパターンはっ……!?)



 久し振りだが間違いないと、牡丹が確信すると同時。ゆっくりと頭を上げていくと、まるでゴミでも見下ろしているみたいな眼差しと絡み合い……。



「あっ……、いや、これは、その……」



 違うんだと、いくら言い訳を並べ立てた所で、鬼の形相をしている菊に通じる訳もなく。


「変態っ――!!」

と、怒声と共に。その刹那、バッチーン! と甲高い音が家内中へと響き渡った。

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