第063戦:鴬鳴くも 春かたまけて
こうして牡丹の戦いは、主に精神に多大なダメージを受けた上に、散々な結果で終わってしまい――……。
「うっ、うっ……、道松兄さん、藤助兄さん。俺の仇を取って下さい。梅吉兄さんをボコボコにっ……!」
「ボコボコにして下さい!」と今一度声を張り上げ、牡丹は涙ながらに訴える。
そんな弟の頭を撫でながらも、藤助は大きな息を吐き出させる。
「よし、よし。今日の夕飯は、牡丹の好きな物を作ってあげるから。泣かない、泣かない。それに、写真だって、ほら」
「桜文の兄貴。どうぞ、頼まれた写真です。これで全部回収できたと思いますが……」
「ああ、悪かったな。こんなことを頼んで」
「いえ。兄貴の頼みとあらば、なんでもしますよ」
こういう時、便利だなと。舎弟達から写真を受け取っている三男を横目に、藤助は深くそう思う。
「ったく、あの馬鹿は一体どこでこんな写真を手に入れたんだ?
それにしても。この写っている幼女は、牡丹なんだよな。お前、この頃からたいして顔が変わっていないな」
「うん。本当に女の子みたいだね」
「だから、見ないで下さいってば!」
じろじろと回収した写真を眺め出す道松と桜文の手から、牡丹は咄嗟に写真を奪い取る。
けれど。
「あれ……。この写真、俺じゃない……」
「えっ。この写真に写っている女の子……じゃなくて、男の子? は牡丹じゃないの?」
「はい。確かにこういう服を無理矢理着せられて写真も撮られていましたが、でも、間違いなく俺ではありません。この子の髪は長いですが俺は短かったし、背景に映っているこのお屋敷みたいな場所にも全く見覚えがありませんし……」
「本人が言うなら間違いないだろうけど。でも、それにしては牡丹にそっくりだよね。
それじゃあ、この写真に写っている子は一体……」
もう一度、写真をよく眺めた後で。牡丹等は揃って首を傾げさせたまま、互いの顔を見合わせた。
暗転。
写真を前に頭を捻らせている牡丹達を余所に、体育館から所変わり。ここは施設の裏側。
薄らと顔を強張らせている栞告とは裏腹、梅吉はにこにこと満面の笑みを浮かばせている。
「あ、あの、先輩……」
「ここなら人も来ないしさ」
いつでも準備万端といった様子で梅吉が飄々と続けるも、栞告の態度は相も変わらず。ただ徒に、時間ばかりが過ぎる一方で。
いつまで経っても小さく縮こまったままの彼女に、梅吉の顔からは次第に笑みは消えていく。
「……頬でも嫌なの?」
栞告は何も答えない。いや、答えられないといった方が些か正しいだろうか。
俯くことしかできない彼女に、梅吉の面から完全に笑みは消え。
「それじゃあ、いいよ。俺がするから」
そう言うや梅吉は栞告の手首を掴み取り、とんっと軽く後ろの壁へと押さえ付ける。そのまま栞告の顔に自身のそれを近付けていくも、指先から伝わってくる微弱な振動に彼の動きは自然と止まり。
いつまでも降って来ない圧力に、ぎゅっと強く目を瞑っていた栞告はゆっくりと瞳を開かせていく。
が――。
その直後、予想していた感触とは全く異なる重みが、代わりとばかり首筋に降りて来て。
「あの、先輩……?」
どうしたんですかと訊ねるも、その声は空気混じりではっきりとした音にはならず。梅吉の耳に届いているのか否や、彼の髪の毛は変わらずに栞告の首元を擽る。
「……俺、栞告ちゃんのこと好きだよ。誰でもいい訳じゃない。それだけじゃ駄目? 信用できない?
――どうしたら許してくれる?」
「え……、許すって……」
「あの時だけじゃない。俺、栞告ちゃんには言えないようなこと、今まで散々やってきた。キスなんか数え切れないほどしたし、それ以上のことだって。
でも、なかったことにはできないから。栞告ちゃんが許してくれない限り、俺は……」
「俺は……」と、もう一度。吐き出されると共に息を小さく吸い込むが、その続きが音になることは決してなく。
押し付けるみたく梅吉は栞告の肩に更に体重を掛けるも、直ぐに顔を上げ。
「……あーと、その、ごめん。今のなし。全部忘れて。
へへっ、ちょっとふざけ過ぎたよね。次の試合、始まるから。そろそろ行かないと……」
それだけ言うと、栞告の手首に絡まっていた指先は一本ずつ解かれていき。それは静かに虚空へと還る。
雑音が全て消え、無音が広がる中。一人残った栞告の体からは一気に力が抜け落ち、すとんとその場に座り込んだ。
✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎
相変わらず活気の溢れている館内に。戻って来た梅吉を見るなり、桜文は彼の元へと駆け寄り。
「おっ、やっと戻って来た。今までどこに行っていたんだ? もう直ぐ試合が始まるぞ」
「んー……。いやあ、ちょっと野暮用」
梅吉は口先では謝るも、全く誠意は感じられず。けれど、一方の桜文も気にはしていないのか。顔色一つ変えることなく、手にしていたゼッケンを彼の方へと差し出す。
「ほら、ゼッケン。それから、さっきの写真のことなんだけど……」
「写真? ああ。その話なら後にしてくれないか」
それでも続けようとする桜文を、梅吉はさらりと躱し。審判の誘導に従い、彼はコートの中央へと移動する。
試合は開始早々、三年三組が先手を取り。その流れがひっくり返ることもなく、刻一刻と進んでいく。
が。
(あーっ、くそっ!
全部受け入れるって決めたのに。なのに、栞告ちゃんに押し付けて。
……俺にはもう、栞告ちゃんしかいないのに。代わりなんていないのに。
それなのに信じさせてあげられないのは、過去の俺の所業の数々で。言われなくても分かっている。
これが、)
報いなんだ――と。雑音ばかりが響き渡る中、口先で紡ぐも。それは前半の終わりを告げるブザー音によって呆気なくも掻き消される。
湿った息を吐き出させ、乱れた呼吸を整えていると、ふと辺りに人影を感じ。
「先輩、後半も頑張って下さい!」
「あの、これ飲んで下さい! 特製ドリンクです。先輩の為に作りました」
「私のタオル、使って下さい!」
「ちょっと、先輩は私のタオルを使うんだから! 横から割り込まないでよ」
「アンタこそ! 引っ込んでよ。はい、先輩。私のドリンクの方が美味しいですよ」
キャッキャ、キャッキャと飛び交い出す甲高い音に、いつもの要領で。梅吉は咄嗟に笑みを取り繕い。押し寄せて来る女生徒の群れに目を動かしていくも、それは直ぐにとある一点でぴたりと止まり。
「みんな、ありがとう。
……けど、ごめん」
謝罪の言葉と共に片手を挙げ、梅吉はふいとその場から駆け出す。
「ごめん、ちょっと通して。ごめんね」
観衆の波を掻き分けながら、奥へと進み。
「やっぱり、栞告ちゃんだ……」
拓かれたその先に、自然と頬が綻んでいく。
「へへっ。なんだ、見に来てくれてたんだ。そこからだと全然見えないでしょう。そんな所にいないで、こっちにおいでよ」
「あっ……、いえ、その……。私なら、ここで大丈夫です」
「大丈夫って、だって」
「えっと、その……。やっぱりあの席は、私には勿体無いですから」
そう遠慮がちに、栞告はへらりと弱々しい笑みを浮かべさせる。
だが、それ以上口が開かれることはなく。いつまでも俯き続ける栞告であるが、そんな彼女に向け不意に梅吉の手がすっと伸び。
「あのさ、タオル」
「えっ……」
「汗、掻いちゃったから。だから、貸して欲しいな、なんて」
その突然の申し出に栞告は一瞬躊躇するも、震える手をそのままに。こくんと小さく頷くと、持っていたタオルを差し出す。
が、栞告の手から梅吉へと渡ると、彼女は徐に顔を上げ。林檎みたく真っ赤な顔をそのままに。
「あっ……、あの! その、さっきのお話なんですけど……。
許すとか許さないとか、そもそも私にはそういう判決を下す権利はないと思うんです。先輩の言う通り、過去はなかったことにはできません。でも、今の先輩がいるのは過去があってのことで、現在って、結局は過去の積み重ねで。
先輩は優しくて、私のことよく見てくれていて、今だって見つけてもらえて、とても嬉しかったです。それから、それから、タオルも渡せて。
上手く言えないんですけど、私は今の先輩が……、いいえ、今も過去もひっくるめて、好きだって。そう思うから……。だからっ……!」
「うん、ありがとう。でも、だったら、どうして……。
あの時のこと、気にしているからキスしたくないんじゃないの?」
「それは……。あの時の先輩達が、本当の恋人同士に見えたから……。でも私は、……したことがなくて……。
どうしたらいいのか全然分からなくて、自信なくて。上手くできなかったらどうしようって。先輩に嫌われちゃうかもって。そう思うと怖くて……。
だから、その、それで今はまだ、練習している最中なんですっ……!」
「練習? 練習って、誰と?」
「えっ? 誰って、それはその……。ぬ、ぬいぐるみ……です」
「ぬいぐるみ? ぬいぐるみって……」
「だから、ぬいぐるみです。うさぎのぬいぐるみです……」
予想にもしていなかった返答に、思わず呆気に取られ。無意味にも瞬きを繰り返す梅吉を余所に、栞告はまたしても俯きながら消え入る声で繰り返す。
すっかり耳まで真っ赤に染めた彼女を、見下ろすような形で。梅吉は漸く意識を取り戻すや、薄らと口の端を緩ませながらも。
「ふうん。栞告ちゃんはぬいぐるみとはキスできて、俺とはできないんだ」
「だから、それはまだ練習中だからで……」
「それから。キスが下手なだけで、俺が嫌いになると思っているってことなんでしょう?」
「ちがっ……。あの、そういうことではなくて……」
「それじゃあ、どういうことなの?」
「だから、それは、その……。私が自信ないだけで、先輩がどうこうという話ではなくて……」
わたわたと全身を使って必死に異を唱える栞告を見つめながら、「自信か……」と。ぽつりと呟くと、梅吉は顎に手を添え一瞬考え込む。
それから、ゆっくりと息を吐き出させ、そして。
「ねえ、栞告ちゃん。目、瞑って」
「えっ?」
「女の子は、目を瞑っているだけでいいから――」
刹那、その言葉と共にぱさりと栞告の頭にタオルが掛けられ。急に狭くなった視界の中、息を呑み込む暇もなく。二人の距離は、一気に縮み――。
唇を圧迫していた柔らかな感触から、名残惜しいとばかりに解放されていくも。けれど、いつまでも残り続ける仄かな熱は、徐々に身体全体を巡って行き。栞告の身体は、ふらりと後ろへと下がっていった。
「わっ、栞告ちゃん!? おーい、栞告ちゃんってばー……。
うーん、これでも十分抑えたつもりだったんだけど……」
やり過ぎたかなと、珍しくも反省する一方で。梅吉は、ぐるぐると腕の中で目を回している栞告を一瞥し。
「……まあ、いっか」
満足気な笑みを溢しながらも、後半戦の開始を知らせるブザーの音を遠くに聞きながら。
いつまでも顔を上げてくれそうにはない彼女を、そのままむぎゅっと抱き締めた。
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