第060戦:春されば 木末隠りて 鴬ぞ

「あの、送って下さって……」



「ありがとうございました」と、家の路地付近で。淡い薄紫色に染まる空を背景に、栞告は軽く頭を下げる。


 いつもと変わらぬその景色に、梅吉も定例とばかりの言葉を掛け。本来なら、そこでそのまま別れるのだが、しかし。梅吉はその場から離れることはなく。いつもと違う展開に、栞告がこてんと首を傾げさせると同時。彼の顔がゆっくりと彼女のそれへと近付いていく。


 十センチ、八センチ、五センチ……と。一点を目指し、二人の距離は次第に縮まっていく。そして、とうとう残り僅か数センチ足らずという距離にまで来た所で――。


 刹那、想像していた柔らかな感触とは全く異なり。バンッ! と鈍い衝撃が突如梅吉の顔面を襲う。その痛みの原因は、何故か一冊の本であり……。顔に張り付いている本をそのままに、梅吉は珍しくも、「へっ……!?」と間の抜けた声を漏らした。



「あっ……。あの、その……。ごめんなさいっ! えっと、その、私……、」



 その本の出所は、言わずもがな栞告の手からであり。しどろもどろに後を続ける彼女に、梅吉は赤くなった鼻を擦りながらもどうにか生返事をし。


 すっかり窮屈とした空気の中、栞告はもう一度頭を下げ。そそくさと彼女が家の中に入るのを見届けてから、梅吉はくるりと身体を半回転させ。


 そして。



(……なんで、どうしてっ――!??)



 ぐわんぐわんと揺れる頭をそのままに、どうにか気力ばかりで家へと辿り着き。玄関の扉を開けるなり、丁度藤助と出くわす。



「あっ。おかえり、梅吉。夕食ならもう直ぐできるから」


「夕食? ……ああ。悪いがパス……」


「えっ。パスって、いらないってこと? どうしたんだよ、具合でも悪いの?」


「別にい……」



 梅吉はそれだけ言うと、眉を顰めている藤助の脇を通り過ぎ。一人のたのたと、階段を上って行く。


 部屋に入るなり、身体を沈めさせるようベッドへと横たわり。



「うーん。まさか、キス一つでこんなに悩む日が来るなんて……」



 思いもしていなかったと、そのまま枕に顔を埋めさせた。



「そりゃあ栞告ちゃんは、ちょっと抱き着いたくらいで直ぐ顔は真っ赤になるし、気絶しちゃうけど。でも、別に嫌がってはいなかったし、そろそろキスくらいしても良い頃合い……なはずだよな? 付き合い出して、一ヶ月以上経つんだから。

 普通なら……って、そういやあ、普通はどうなんだ? キスするのに付き合ってからどれくらいとか、そもそも基準なんてあるのか? ううん、周りの連中はどうなんだ……って、待てよ。ウチの連中でまともに彼女がいたのなんて、よく考えれば道松くらいだ。桜文は問題外で話にならないし、藤助だって、中学の頃に一人だけ。おまけに数ヶ月で別れているし、菖蒲も参考になりそうにはない。牡丹もおこちゃまだからなあ……。

 ……。

 なんでこんなに野郎がいるのに、誰一人当てにならないんだっ!? これじゃあ、全然参考にならないじゃないか。依りにも寄って、一番経験の多い道松には……」



 絶対に訊ける訳がない! と、こんな時でもプライドが働き。その怒りの矛先は、何故か他の兄弟達へと向けられる。


 怒り任せに拳を布団へと叩き付けるも、へにょりと柔らかな弾力が返って来るばかりでなんの慰めにもならず。反って虚しさばかりが降り積もり。


 一度は起こし上げた顔は自然と徐々に下がっていき、梅吉は再び枕へと顔を埋めさせた。



「拒絶するってことは、あれだよな。したくないってことだよな。したくないってことは、したくないなりの理由がある訳で。考えられる理由としては……」



「やっぱりアレしかないよなあ」と、直ぐにも導き出された結論に、梅吉は苦虫を噛み潰す。


 自業自得、身から出た錆。さすがにこればかりはどうしようもないと、自分を責める以外に他はない。が、押すなと言われると押したくなるように、できないとなればどうしてもしたくなるのが人間という厄介な生き物な訳で……。


「あーっ、ちゅーしたいーっ!!」

と、一夜明けるも。その心情は全く変わらぬ所か、反って強くなっており。一本の矢が放たれると同時、その雄叫びは道場中へと響き渡った。



「なっ……!? 天正、貴様!? いきなり何を酔狂なことを口走っているんだ!」


「あん? もしかして、口に出てたか?」


「出ていたとか、そういう問題じゃないだろう! 部活中に、貴様は一体何を考えているんだ!?」


「だから、栞告ちゃんとキスしたいなって」


「違う、そういうことを訊いているんじゃない! 稽古中に何を腑抜けているんだと訊いているんだ!」



 穂北はいつもの如く、思いっ切り眉を吊り上げ。くどくどと説教をし始める。


 けれど、せっかくの彼の言葉など、梅吉が素直に聞く訳もなく。一人小言を漏らし続ける穂北を無視し、ついと後方に移動すると壁に身体を預けるよう座り込む。



「なんだよ、天正。お前の彼女、させてくれないのか?

 確かにおとなしいというか、ガード堅そうだもんな、あの子」


「んー……。させてくれないというか、なんというか。原因は、やっぱりアレしかないよなあ……」


「アレってなんだよ?」


「いや、それが前に見られちゃっているんだよ。他の子とキスしている所を。あの時、思いっ切り舌も入れてたからなあ」


「げっ、マジかよ。ははあ、大方それで決まりだな」


「なんだよ、天正。早速浮気かよー」



 やっぱりなと言わんばかりに、周りから野次が飛び交い。その数々の声に、梅吉の眉間には自然と皺が寄っていく。



「違う、付き合う前だって。今は栞告ちゃん一筋だし」


「彼女一筋ねえ。まさか、あの天正がそんなことを言うなんて。付き合い出した当初は、直ぐに別れると思っていたが……」


「俺も、俺も。そういやあ、すっかり忘れていたけどさ。天正が何日で彼女と別れるか、賭けていたよな? あの結果って、どうなったんだっけ?」


「ああ、そう言えば……。確か一日、二日に集中して、結局全員外れだった気が……」


「おい。勝手に人を使って賭けごとをするなよ」


「なんだよ。天正だって、よく穂北を使っているじゃないか。女子に何回、穂北が『でこっぱち』と言われるか、回数当てゲームとか言ってさ」


「穂北はいいんだよ。そういうキャラなんだから」


「でもさ、そんな現場を見られていながら、よくオーケーしてもらえたな。俺の彼女なんて、ちょっと他の女の子と話していただけでも、『なんの話をしていたの?』って、目を吊り上げながら訊いて来るぞ」


「へへっ、まあな。栞告ちゃんは心が広いからな」


「でも、させてはくれないんだろう? 結局は生殺しじゃないか」



「別れるのも時間の問題だな」と。またもや本人を置き去りに、好き勝手に話が盛り上がる中。梅吉は、その声を聞き流しながら的の前へと移動し。


「あーっ、キスしたいーっ!!」

と、半ば叫びながら。放った矢はスパンッと綺麗な弧を描き、見事、的の真ん中へと突き刺さる。


 その様子を傍から見ていた部員達は、

「なんであんなに邪心があるのに、命中するんだよ……」



 絶対に詐欺だと、その場にいた誰もが揃って思ったが、しかし。おそらく口にしてしまえば、余計に虚しさが増すだけだと分かっていたのだろう。


 なので、敢えて吐き出すような真似はせず。もう一発、おまけとばかり的に命中させる梅吉を疎ましく思いながらも、各々己の中へと呑み下した。






✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎






 そんなこんなで次男の悩みを余所に、とある日の二年三組の教室にて。ホームルームの時間。黒板には、『球技大会の種目決め』と書かれている。


 がやがやと賑わっている中、牡丹は頬杖を突きながら薄ぼんやりとその文字を眺め。



「ふうん、球技大会か。こんな時期にやるんだな。

 ええと、競技はサッカーにバレー、卓球にバスケか」


「そっか。牡丹は初めてだもんな。一人一種目、必ず出ないといけないんだよ。

 ちなみに総合優勝したクラスは、費用は学校持ちでの焼肉食べ放題という豪華特典付きだ」


「へえ、焼肉か。随分と豪勢だな」



 その単語を聞いただけで、ジュージューと香ばしい音を立てて焼ける肉の姿を想像してしまい。牡丹は口の端から垂れそうになる涎を手の甲で拭い取る。



「それでは、各競技出場するメンバーを決めていきたいと思います。基本、立候補制にするので、出たい種目に手を挙げて下さい。人数の多い場合は話し合いかジャンケンで決めます。

 まずはサッカーから……」



「出たい人は挙手して下さい」と、本来なら続けられるはずが、しかし。


「勝負だ、牡丹――!」

と、突然その場に立ち上がった萩の声により、その台詞は遮られてしまう。



「おい、牡丹。足利の奴、急にどうしたんだ?」


「どうしたもこうしたも、元々コイツはこういう奴なんだよ。昔から、直ぐに勝負、勝負ってしつこくてさ。

 おい、萩。勝負って言うけど、お前なあ。俺達は同じクラスなんだぞ、一体どうやって戦うっていうんだよ」



 牡丹が訊ねるも、その声はどうやら本人の耳には届いていないらしく。



(ふっふっふっ……。球技大会といえば、全校総出のイベントだ。クラスも学年も違う紅葉さんに、アピールできる貴重な機会だ。

 おまけに彼女の前で牡丹をけちょんけちょんに叩きのめして、奴との差を見せ付ければ。『キャーッ、萩さん素敵! 牡丹さんと違って、萩さんって運動ができてなんてかっこいいの!』なーんて思ってもらえる、絶好のチャンス!

 その為にも、競技選びは重要だ――。)



「そうだなあ。種目はこの四つか……。

 よし、それでは俺はバスケにしよう。そういう訳だから、牡丹もバスケを選べ」



(バスケなら、背の低い牡丹には不利なはず。)



 これで紅葉の気も牡丹より自分の方に傾くに違いないと、妄想が一人歩きをし。思わず高笑いを上げる萩に、牡丹はむすりと眉間に皺を寄せさせる。



「おい、だから人の話を聞けよ。それと、勝手に人の出る競技を決めるんじゃない」


「なんだ、逃げる気か?

 ……ふっ、牡丹はチビだからな。チビにバスケは難しいか」


「なにおーっ!?? 誰がチビだ!? それから、チビにバスケが無理なんて、一体いつ誰が決めたんだよ!?

 ああ、分かった。その勝負、引き受けた! 絶対にさっきの言葉、前言撤回させてやるっ……!」



 牡丹と萩、それぞれが別々な思いを胸に。こうして当日までまだ日があるにも関わらず、既に熱く燃え上がる中――。



「うるさいっ、話が進まないじゃないの!」



「義兄弟喧嘩なら廊下でしなさい!」と進行役である明史蕗から、二人仲良く鉄拳が飛ばされながらも。二人の醜い戦いの火蓋は、こうもあっさりと切られるのであった。

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