第053戦:今も見てしか 妹が笑まひを
(あなたの為に――……。)
なんて。
(……違う。天羽さんの為とかいって、本当は何よりも自分の為だ。あの人の重みにだけはなりたくなくて、あの人にだけは失望されたくなくて。
ああ、そうだ。
だから、俺は――……。)
「俺は……」と、呟くと同時。
「漸く目を覚ましたか――」
と、凛とした声が清閑とした室内に響き渡る。
声のした方へ、ちらりと顔を向けると。
「……道松?
あれ、俺……」
「寝不足と軽い栄養失調だと」
道松は手短に、ぶすりと眉間に皺を寄せたまま答える。
「ったく、いつまで経っても学校には来ないし、電話を掛けても一向に出ないし。それで様子を見に家に戻れば、お前は床にぶっ倒れているし……って、おい、聞いているのか?」
彼はやや乱暴な口調で問い掛けるも、藤助の瞳は薄ぼんやりと。未だ定まっていない焦点をそのままに。
「……ねえ。今、何時?」
「もう夕方の四時だが、それがどうかしたのか? おい、藤助?」
「どうしたんだ」と、訊ねるよりも先に。藤助は上半身を起こし上げ、すっ……とベッドから足を出した。そして、立ち上がるなりふらふらと、覚束無い足取りながらも扉に向かって歩き出し。
「……洗濯しなくちゃ。それから夕飯の準備を……。
ご飯作って、掃除して、それから、それから洗濯して……」
「おい、藤助。落ち着けっ……」
「離して! やらないと……、ご飯作って、掃除して、……でないと、俺の居場所、なくなっちゃう……。洗濯して、それから掃除して、居場所がなくなったら、俺は、俺は……。
俺には他に行く所なんて……、行く所なんてっ……!」
「――――――――――――!」と、喉奥を揺らして吐き捨てようとするも。最後まで言い切るより前に、不意に身体が大きく後ろへと下がる。
ぐらりと視界が大きく揺れ。鈍い衝撃に続きゆっくりと目蓋を開いていくと、瞳の中は白一色に染まっており。
「……なくなんねえよ。そんなことくらいで、簡単にはなくならねえから。だから、少し落ち着け」
溜息混じりに道松は腕の中に藤助の肢体を閉じ込めたまま、ぽんぽんと彼の頭を軽く叩く。藤助は一瞬躊躇するも、そのリズムに合わせるよう。おそるおそる顔は下を向けたまま、こてんと道松の胸に頭を預けた。
「……ったく。何を考えているんだか知らないが、少しは落ち着け。それに、洗濯なら芒が片付けたし、夕飯は牡丹が作ることに決まった。
それから、ほら、これ」
道松はズボンのポケットに手を突っ込み何か取り出すと、それを藤助の顔へと突き付ける。
突然の衝撃に、藤助は強く目を瞑るも――。
「えっ……。あれ、これって……。
これって、俺の時計……?」
(誕生日に、天羽さんからもらった腕時計。壊れて動かなくなっちゃったけど、俺の宝物で……って、あれ。確かに、)
壊れたはずなのに――と、我が目を疑い。藤助は、ぱちぱちと何度も瞬きを繰り返す。
しかし、何遍見直しても、やはり秒針はカチカチと一定のペースで回っており。短針も、先程道松に教えられた通りの刻を示している。
「なんだ、忘れたのか。お前が俺にどうにか直せないか、持ち掛けて来たんじゃないか」
「うん。でも、時計店に持って行ったけど、無理だって言われたって。そう言っていたはずじゃあ……」
「ああ、近所の店ではな。だから鶴野の伝手で腕の良い職人を紹介してもらって、それであの日、持って行って直してもらったんだ。けど、思いの外、時間が掛かって。それですっかりあんな時間に……」
(ああ、そっか。だから……。)
じっと時計を見つめながら。もう一度、「そうか」と、藤助は小さな声で繰り返すものの。
矢庭に、むすうと頬を膨らませ。
「でも、いつの間に持って行ったの? この時計、机の引き出しにしまって置いたはずなんだけど」
「だから、それは、その……、お前がいなかったから……。どこにしまってあるか、大方検討は付いていたし……」
「それと。あの日を忘れていたのは、どの道変わりないんでしょう?」
責め立てるよう藤助にじとりと見つめられ、道松は直ぐにも跋の悪い顔を浮かばせる。視線はふよふよと、いたずらに宙を泳ぎ回るばかりである。
けれど。
「あのなあ。俺はお前みたいに、ああいう記念日みたいなもの、一々覚えてねえんだよ。どうでもいいって言うと聞こえは悪いかもしれないが、その、なんだ。もう、特別じゃないから。わざわざ祝う必要なんてないというか、拘らないというか……。とにかくだな……。
ああっ、もう。俺が悪かった。
……これでいいか?」
本人としては、これでも充分謝っているつもりなのだろう。
半ば投げ遣りに頭を下げる道松に、相変わらずだと。藤助は強張らせていた口元をふっと崩し、一つ乾いた息を吐き出させる。
「それなら、卵粥」
「はあ……?」
「卵粥を作ってくれたら、許してあげる――……」
✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎
「それにしても、兄さん達が料理できないなんて……」
「意外ですね」と、スーパーの袋を携え。リビングに入って来た牡丹は飄々と告げる。
すると、ソファで横になっていた梅吉が、彼の登場に合わせてひょいと上半身を起こし上げた。
「んー、そうか? いや、できないというよりは、ほとんどしたことがないんだよなあ」
「ああ、いつも藤助兄さんに任せ切りですもんね」
「まあ、それもあるが……って、それにしても随分と買い込んだな。一体何を作るんだ?」
「簡単に丼飯にしようかなと。八人分なんて初めて作るので、どれくらい量があれば足りるかよく分からなくて。適当に買って来たんですけど……って、あっ、道松兄さん。
藤助兄さんの具合はどうですか? 食べられるようなら、兄さんの分も作るんですけど……って、あれ。珍しいですね、兄さんが台所に立つなんて」
台所へ行くと先客がおり。また、それが意外な人物であったことも加わり、牡丹は興味深げにひょいと道松の手元を覗き込む。
「何を作っているんですか?」
「卵粥だ」
「卵粥ですか。へえ、美味しそうですね」
「なんだ。お前も食べるか?」
「えっ、いいんですか?」
思いも寄らなかった返答に、牡丹はぱあっと瞳を輝かせ。頷き掛けるも、不意にぐいと梅吉に首根っこを掴まれ。
「おい、おい。これから夕飯を作る奴が何を言っているんだ。
牡丹、ちょっとこっちに来い」
「えっ。急にどうしたんですか?」
「いいから来い」
そう強引に腕を引かれ、牡丹は台所から遠ざけられる。
そして、リビングの端の方に連れて行かれるなり、梅吉はこそこそと彼の耳元で囁く。
「いいか、牡丹。命が惜しければ止めて置け。あれ、死ぬほど不味いから」
「へっ!? 不味いって……」
「見た目は普通だが、とても人間が食べられるもんじゃねえよ。まさに殺人料理だな」
「殺人ですか? でも、あの卵粥って、藤助兄さんに作っているんですよね? そんな物を食べて、藤助兄さんは大丈夫なんですか? ますます体調が悪くなるのでは……」
「ああ。それなら平気、平気。藤助だけはぺろりと平らげちまうから。ちなみにアイツの好物なんだよ」
「そうなんですか? そんな物が好物なんて、藤助兄さんって舌が悪いのかな。もしかして、味音痴ですか?」
「いや、そんなことはないとは思うが……。現にアイツの作る料理は美味いしな。
なんていうの? 愛っていうか、要は味ではないんだろうな」
「はあ。愛……ですか……」
牡丹は半ば呆然と、道松を一瞥し。片言ながらも梅吉の言葉を繰り返す。
こうして、長期に渡る兄弟喧嘩も漸く終焉を迎えるものの。小さな鼻歌を口遊みながら調理をしている道松に、牡丹は不穏な眼差しを向けながら。四男が無事であればいいのだが……と、やはり彼の心配は、今暫く尽きそうにはなかった。
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