第020戦:人知れず 思ふ心は 深見草
問題は、突如天正家に降り注いだ――。
それは、とある日の放課後の出来事が発端で。テスト期間も終了し、いつもの活気を取り戻しつつある南総学園内で爆弾は投下された。
「はあ……。昨日は割引品をまとめ買いできたお陰で、買い物に行く必要はないし。今日はゆっくり掃除と洗濯ができるぞー」
そう恍惚とした表情で廊下を歩いているのは、天正家四男・藤助――。
天正家の家事全般を取り仕切っている彼は、ふんふんと鼻唄混じりに鞄を軽く振り回し。冷蔵庫の中身を思い返しながら、すっかり上機嫌で夕食の献立を思索するが、しかし。
「あ……、あのっ! 藤助さん」
「ん……? あれ、紅葉さん」
不意に声を掛けられ。振り向けば、そこには天正家長女・菊の友人である紅葉の姿が。
珍しい人物からの突然のアプローチに、藤助は一拍の間を空けるも。いつも通り、人の良さそうな笑みを浮かべさせる。
「珍しいね、どうかしたの? 俺に何か用事?」
「はい。その、ちょっとお話したいことがありまして……」
「お時間大丈夫ですか?」と、紅葉は不安げな表情を揺らし。控え目な声で訊ねる。
そんな彼女の様子に、ことの重大さを感じ取り。話を聞かぬ内から藤助もつられて顔を曇らせた。
「藤助さん。あの……!」
そう、全てはこの、彼女の一言がきっかけであった――。
✳︎✳︎✳︎
「えー……、これから第九十二回、天正家・家族会議を開始する」
冒頭の麗かな空気とは一変。藤助の喉奥からは、酷く低い声音が発せられる。その声のトーンに呼応するよう、室内には重苦しい空気が流れ出す。
藤助からの突然の緊急収集宣言の元、集まったのは菊と芒を除いた長男・道松から六男・牡丹までの計六人だ。彼等は食卓の自分の席に、それぞれ腰を掛けている。
この家族会議とは天正家に何か起こった時に行われ、牡丹がここに来てからは今回が初めての会議だ。
なんだか重たい空気が流れている……というよりは、主催者である藤助から発せられているのだが。ずーんと暗い影を宿している彼をちらちらと眺めながら、牡丹は薄らと口を開く。
「えっと、家族会議って……。菊と芒は呼ばなくていいんですか?」
「ああ。今回の件は、二人は抜きで進めたいからな。逆に悟られないよう注意してくれ」
「ふうん。その二人が抜きってことは、それなりの事態ってことか。それで、今回の議題は一体なんだ?」
誰もが気になっている核心に、やはり天正家一の切り込み隊長である梅吉が、いの一番に声を発した。
藤助は、じっと机に視線を落としながら。
「議題は、その……、菊の小遣いについてだ」
「はあ? 小遣いだって? なんだよ、唐突だなあ。しかも、どうして“菊”限定なんだよ?」
「それは、紅葉さんに言われたんだよ。その、菊が……」
「ほう、菊がどうした?」
「だから、菊が、その……」
「だから、なんだよ。勿体ぶっていないで、さっさと言えよ」
「だからあ……。菊が、サイズの合わない下着を無理して使っているって……」
「……はあ?」
藤助は、すっかり真っ赤な顔で。最後の方は尻窄みに、ほとんど空気混じりで辛うじて聞き取れたくらいである。
全く以って思いも寄らなかった返答に、梅吉を始め残りのメンバーも、特にこれといった反応ができず。ぽかんと間抜け面を浮かばせるばかりだ。
「サイズの合わないって……。そりゃあ、なんでまた? 新手の苦行か?」
「違うよ! 新しい下着を買うお金がないからだろう? 紅葉さんが言っていたんだよ。その、小さいサイズの物を無理に使っているから苦しそうだって」
「そうだなあ。確かに菊の奴、高校に入った途端、一段と育っているからなあ。特に胸の辺りが」
「そんなにお小遣いをあげている訳じゃないからなあ。友達と遊びに出掛けたり、筆記用具とかちょっとした物を買ったりしたら、直ぐになくなっちゃうよな。それに、女性物の下着って無駄に高いし。ブランド物や良品ともなると一枚だけでも軽く万を超えちゃうし、それが何枚もとなれば……」
「なんでそんなに高いんだよお……」と、すっかりキャパオーバーしてしまったのか。藤助はそのまま前のめりに、最終的には机にごんっと頭をぶつけた。
「今の時期って、一番成長するもんな。しかも、下着だから芒の服みたいに大きくなることを見越して、余裕のあるサイズを買う訳にもいかないし……」
「そうだなあ。大きいサイズのブラなんて、ずれて着けられないもんな」
「更衣室で着替える時とか、周りの目だってあるだろうし。その辺のスーパーなんかで売っている安物じゃなくて、菊だって高校生になったんだ。どうせなら可愛い物を着けたいよな。でも、お金がなあ……。そうだよ、問題はそのお金なんだよ」
「お金なんだよ」と藤助は、遣る瀬無い声で繰り返す。いくら理想があったとしても、悲しいかな。夢を見る度に、現実との差をきつく思い知らされるばかりである。
「それに、下着だけじゃなくて、洋服とか化粧品とか。菊はそういう物も全然持っていなかったよな?」
「ああ。服はその辺の値段の安さが売りの店でまとめて買ったような物ばかりだし、化粧品なんて一つも持っていないんじゃないか? 持っていても、精々薬用のリップクリームとか、ハンドクリームくらいだろう」
「そう言えば、この前……。菊が服屋の前で、ずっと飾ってあった服を見ていたのを見掛けたことが……」
「なんだって!? 牡丹、それは本当っ!?」
「えっ? ええ、はい。ええと、あれは確か……」
藤助に、異様な圧力を掛けられながらも。牡丹はつい数日前のできごとを振り返る。
✳︎✳︎✳︎
あれは、三日程前――。
牡丹がクラスメイトの竹郎と、駅近くのショッピングモールに出掛けた時のことだ。
竹郎の用事に付き合い、会計中の彼を店の外で待っていた牡丹だが、ふと見覚えのある姿が目に入り。
「なんだ、やっぱり菊か」
偶然出くわした妹に、「おい」と声を掛ける牡丹であったが、しかし。彼の姿を目に留めるなり、菊はあからさまに怪訝な顔をする。
「おい、菊。今、露骨に嫌な顔をしただろう」
「だったらなによ。分かっているなら、話し掛けないでよ」
「相変わらず可愛くないな。そういうことしか言えないのかよ?
それで、こんな所でなにをしているんだよ。お前一人か?」
「アンタには関係ないでしょう」
「こ、このっ……!」
本当に可愛くない奴――! と、いつものことさながら。牡丹は心の中でこっそりと叫ぶ。
いくら訊ねた所で、教えてくれないことなど最早明白、百も承知。仕方がないので彼女の視線の先を追うと、そこは女の子向けのファッションアイテムを扱ったお店で、ショーウィンドウには新作の服がマネキンに着せられ飾ってあった。春先ということもあり、白いシャツにふんわりとした生地のスカートなど、窓の向こうは柔らかなパステルカラー調の色合いで染められている。
「ふうん……」
「……なによ」
「いや。もしかして、そこに展示されてある服が欲しいのか? へえ、お前もこういう女の子らしい服に興味があるんだな」
「別に。ただ見ていただけよ。それより……」
「気安く話し掛けないでって言っているでしょう!」と、菊は牡丹のことを睨みながら。またしても彼女は、つんと強く言い退けた。
✳︎✳︎✳︎
「……なんてことがあったなあって」
言われて思い出しましたと、牡丹は当時のことを適当に締め括る。
「結局、菊は紅葉の買い物に付き合っていたみたいで。紅葉は色々と買っていましたが、アイツは特に何か買っていた様子はなかったですね」
「そっか……。やっぱり菊も本当は、もっとお洒落がしたいんだよな。でも、ウチには充分に着飾らせてあげられる余裕なんて……、そんな余裕……」
またしても、厳しい現実との直面に。藤助は深い溜息と共に、酷く落胆の色を見せる。
そんな彼を横目に、梅吉は淡々と。
「あのさ。天羽のじいさんに頼んで工面してもらえないのか? せめて菊の下着を買う分くらいはさ」
「ただでさえ俺達は、充分に養ってもらっているんだ。やっぱり、そう簡単には……。天羽さんは最終手段だと思ってよ」
「まあ、そうだよな。さすがに頼み辛いよな。『妹の下着を買う金が欲しいからくれ』なんて、兄としては情けないよなあ。そんじゃあ一つ手っ取り早く、みんなでバイトでもするか?」
「何を言っているんだよ。お前達は、部活があるだろう。しかも、大会を控えているんだから、ちゃんとそっちに集中しないと」
「それじゃあ、どうするんだよ? 他に何か当てでもあるのか?」
「当てというか、やっぱり家計の中で一番削り易いのは、食費なんだよな。みんなには悪いけど食事の量を少し減らして、浮いた分を菊のお小遣いに回したいと思っているんだけど……」
異論はないかと、藤助が決を採り。ぐるりと周りを見渡せば、誰もが手を挙げていた。
「みんな、ありがとう……! うん、本当にごめんな」
「いえ。別に藤助兄さんが悪い訳ではないですよ」
「なあに、可愛い妹の為だ。ダイエットだと思って、暫く我慢するよ」
そう言うと梅吉は、藤助の丸まった背中をばしばしと強めに叩いた。その痛みに、彼は若干顔を歪ませる。
こうして、話もすんなりとまとまり。天正家の家族会議は静かに幕を閉じ。そして、同時にそれは、節約生活の始まりでもあった。
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