第018戦:ほととぎす 厭ふ時なし 菖蒲草

 とある麗かな昼下がり――。


 長閑な天気とは裏腹。はあと重たい溜息が、だらりと机に項垂れている竹郎の口から漏れる。



「あーあ、そろそろ定期テストか。やだなあ。なんでテストなんてものが世の中に存在するんだろう……」


「そんなこと言ったって、どうにもならないだろう。言うだけ無駄だよ」



「テストなんてなくなれー」と奇妙な雄叫びを上げている竹郎に、牡丹は呆れ顔を浮かばせる。


 彼等の会話からも分かるよう、南総学園はテスト期間へと突入し。校内は、いつもとは些か異なる空気が流れている。


 うだうだと現実からすっかり目を背けている友人に、牡丹は仕方がないとばかり。形ばかりの励ましをする。



「いつまでも現実逃避していないで、いい加減受け入れろよ。そんなことを言っている間に、英単語の一つでも覚えた方が余程時間を有効に使えると思うけど」


「分かっているさ。分かっているけど、そう簡単に割り切れるほど人間は単純じゃないだろう。

 でも、牡丹はいいよな。菖蒲がいるんだから。学年一位に教えてもらえるなんて、羨ましいよ」


「えっ? 菖蒲にって……」


「だって、菖蒲はお前の……、ええと、あれ。兄になるんだっけ?」


「うん。菖蒲の方が俺より誕生日が早いからな」


「そんな優秀な兄が同じ家にいるんだ。分からない所があっても、直ぐに訊けるだろう……って、菖蒲と家で話たりしないのか?」


「そうだなあ、あまり……」



 そう言えば、菖蒲とはまだそんなに話をしたことがないんだよなあと。その事実に、牡丹はふと気付かされる。



「へえ、そうなんだ。同じ家にいるのに?」


「俺は部活で家を空けていることが多いし、菖蒲は家だとほとんど自室にいるからな。多分、勉強をしているんだと思うけど……。顔を合わせるのは、食事の時くらいだな」


「ふうん、そういうもんか」



「同じ家にいるのになあ」と、竹郎はぽつりと口先で繰り返す。



(確かに竹郎の言う通り、あの家に来てから半月近く経つのに、菖蒲とはまだそんなに関わったことがないんだよな……。)



 まあ、それを言うなら妹の菊との関係はちっとも改善されない所か、日々反って悪化しているなと。よく考えたらもしかして、兄弟達とあまり上手くいってはいないのではないだろうかと、不意に不穏の念に駆り立てられる。


 そんなことを考えてしまい。牡丹が少しばかり気落ちをしていると、ふと頭上に黒い影が掛かり。



「ちょっと、与四田。早くプリント出してよ。今日が締め切りの」



「出してないのはアンタだけよ」と、彼等の傍らに仁王立ちした女生徒――古河こが明史蕗めじろは、つんと口を尖がらせる。少し吊り上がった瞳に、肩上で綺麗に切り揃えられた短い髪が、強気そうな彼女をより演出している。



「プリント? プリントって、なんだっけ?」


「だからあ、レクリエーションに関するアンケートの!」


「ああ、あれか……」



 竹郎は漸く思い出したのか、がさごそとファイルを漁り出す。



「ええと、あのプリントは……と、あった、あった。ほら、これだろう」


「もう、言われる前にちゃんと出しなさいよね。それに、なによ、さっきからだらしないわね」


「そんなこと言われたって、嫌なもんは嫌なんだよ。あー、テストなんてこの世から消えればいいのにー……」


「そうだぞ、竹郎。古河の言う通りだ。それで、どうするんだよ」


「へっ。どうするって、何が?」


「何がって、竹郎が一緒に勉強しようって言い出したんじゃないか。一人だと絶対にしないからって。やる気がないなら俺はもう帰るぞ」


「する、する、します! ちゃんと勉強するから!」



「頼むから見捨てないでくれ!」と、竹郎は牡丹の足にしがみ付く。そんな二人の遣り取りに、「天正くんも大変ねえ」と、明史蕗は憐みの目を向ける。



「分かったよ、分かったから。そしたら、ほら。数学のプリントから片付けちゃおうよ。今日出された、テスト対策を兼ねた宿題の」


「ああ、そうだな。よし、やるぞ! ええと、この問題は……」



 竹郎は自身を意気込ませながらもシャーペンを握り締め、プリントへと目を通す。けれど、手は止まったまま全く動かず。首ばかりがまるで振り子時計みたいに、ちくたくと左右に揺れている。



「与四田ってば、一問目から閊えているじゃない」


「なんだよ、うるさいなあ。古河だって俺とそんなにたいして成績変わらない癖に」


「悪かったわね、頭が良くなくて。でも、私だってさすがに一問目くらい、簡単に解けるわよ」



 そう宣言すると、明史蕗は竹郎のプリントを奪い取り。



「あっ。おい、なにするんだよ。返せよ」


「なによ、こんな問題。これくらい……、ううん……。ちょ……、ちょっと難しいわね……」


「なんだよ。簡単に解けるんじゃなかったのかよ」


「ちょっと考えているだけじゃない! 私だってねえ、これくらいぱっと……」


「これくらい、なんなんだ? もういいから返せよ。なあ、牡丹。一問目ってどうやって解くんだ?」


「ごめん。俺も解からない……」



 ふいと竹郎に期待のこもった瞳を向けられるも。牡丹は降参とばかり、ふるふると首を小さく左右に振る。その返答に、「なんだよ。誰も解からないのかよ……」と、竹郎の虚しい声ばかりがその場に響く。


 すっかり暗い空気が漂う中。けれど、その重たい雰囲気を掻き消すよう、とたとたと軽快な足音が鳴り。



「ごめんね、明史蕗ちゃん。待たせちゃって」



 軽く呼吸を乱しながら現れたのは、眼鏡を掛けた女生徒だ。その動きに合わせ、三つ編みに結われた髪が彼女の肩の上で軽く揺れている。



栞告かこ! 丁度良い所に。あのさ、この問題なんだけど……」


「えっ? ああ、今日出された数学の宿題ね。これはね、この公式を使えば、ほら……」


「さすが、栞告! こんなにすんなり解いちゃうなんて……」


「おい、おい。感心している場合かよ? こんな調子で、俺達、テスト大丈夫なのかな……」



 かくして、現実を突き付けられ。三人は揃ってずんと肩を落とす。


 そんな彼等の鬱蒼とした様子に、栞告は一人慌ててフォローを入れ。



「大丈夫だよ! 勉強すれば……。その為のテスト週間期間でしょう?」


「ははっ、そうだよな。まだ戦いは、始まったばかりだもんな……」


「ええ、そうよ、そうよね! それに、私には栞告がいるもの!」


「お前、復活早いな」


「だって、いつまでも落ち込んでなんていられないでしょう?

 ……あっ、そうだ! ねえ、今度の土曜日にでも、みんなで天正くんの家で勉強会しようよ!」


「はあ? 勉強会って……。ウチで?」


「うん、天正くんの家で! ほら、みんなで分からない所を教え合えば、捗るでしょう?」


「おっ、いいじゃん、それ!」



「やろう、やろう!」と、竹郎と明史蕗はすっかり意気投合し。当事者である牡丹を置き去りに、勝手に話を進めていく。


 しかし。



「あのさ。盛り上がっている所、悪いけど……。どうしてウチなんだよ?」


「なんでって……。それは、ねえ」


「それは、なあ」



 ちらりと、竹郎と明史蕗は互いに顔を見合わせ。にたりと気味の悪い笑みを浮かべる。


 にやにやと笑い続ける二人に、牡丹も漸く彼等の意図に気付き……。



「あー、分かった。さては竹郎、お前、菊が目当てだろう。そんなんだから、勉強ができないんだぞ」


「だってさあ、馬にニンジン作戦っていうの? 目の前にニンジンがぶら下がっていた方が、俄然とやる気も出るじゃんか」



 妹(半分だけ血の繋がった)を、勝手に餌にされ。菊はニンジンかよと、牡丹は思わずつっこんだ。



「そんな風に腑抜けていて、テストを落としても知らないぞ。

 でも、どうして古河まで賛同しているんだよ? 菊のファンなのか?」


「ふっふっふっ……。俺は知っているぞ。ずばり、古河の目当ては道松先輩だろう!」



 自信満々に竹郎が訊ねるも。



「ぶっぶー、残念でした。違います」


「なんだよ。この前まで道松先輩、道松先輩って騒いでいた癖に。どういう心境の変化なんだ?」


「だってえ、道松先輩。朝夷先輩とくっ付いちゃったんでしょう?」


「そうだなあ。古河は髪まで切ったのにな」


「違うわよ! 私は前から短かったでしょう。いい加減なことを言わないでよね。

 だから、今の私の押しは、ずばり! 桜文先輩よ」



「やっぱり男は強くなくっちゃね!」と、明史蕗は声高々に続ける。



「なあ、竹郎。古河って、その……、桜文兄さんのことが……」


「ああ、大丈夫、大丈夫。古河はミーハーなだけだから。気にする必要なんてないぞ」


「ふふっ、土曜日が楽しみね」


「良かったね、明史蕗ちゃん。勉強会、頑張って来てね」


「はあ? なに言っているのよ。栞告、あんたも参加するのよ」


「えっ、私も?」


「そうだよ。神余かなまりも参加しろよ。できない人間同士で集まっても、意味ないだろう?」



 そうだ、そうだと牡丹と明史蕗は、竹郎の言葉に深く頷く。そして、それと同時、その台詞が栞告を勉強会に参加させる最も説得力のある言葉だと、彼等は自害しながらも深く実感させられる。



「それじゃあ、決まりだな。いいよな、牡丹」


「俺は別に構わないけど、でも、ウチに集まっていいかどうか、兄さん達にも聞いてみないと……」



 なんだかすっかり妙な流れになってしまったと、既にそのつもりでいる二人を遠目に眺めながら。牡丹は一人、軽く息を吐き出した。






✳︎✳︎✳︎






「えっ、ウチで勉強会?」



「良いんじゃない」と、牡丹の予想とは裏腹。藤助はさらりと答える。


 彼のその反応に、牡丹は呆気にとられ。



「えっ。本当ですか?」


「うん、別に構わないよ。人を家に呼ぶくらい。それに、みんなで勉強なんて感心だな」


「はあ……」



 にこにこと笑みを浮かべている藤助に、おそらく別な目的がある人間が何人かいることは内緒にして置こうと。すっかり感心している彼を眺めながら、牡丹はひっそりそう思う。


 そんな遣り取りをしていると、ひょいと次男が顔を出し。



「なに、なに。誰か来るのか?」


「うん、牡丹の友達が。ウチに集まって、みんなで勉強するんだって」


「へえ、そうなのか。ふうん……。なあ、牡丹。その勉強会に、女の子は来るのか?」


「えっ? ええ、二人ほど来る予定ですが……」


「その子達って可愛い? 彼氏っているのか?」


「へっ? さ、さあ……」


「おい、梅吉。弟の友達に、ちょっかいなんて出すなよ」


「なんだよ。冗談だよ、冗談。そんなことしないって」



 ははは……と軽快に笑い出す梅吉に、「お前が言うと冗談に聞こえないんだよ」と、藤助はむすりと口を尖らせる。


 こうして、なんだかあっさりと話が通り。ほっとしたというよりは、一気に拍子抜けしてしまうも。もう一つ、彼には重要な任務があり。牡丹はぶんぶんと首を大きく振ると、とんとんと階段を上って行く。


 そして、とある部屋の前で立ち止まると、ふうと一度深呼吸をして。それから、ドアを軽くノックする。



「あのさ。菖蒲、いる?」



 一拍の間を置き、内側から短い返事が聞こえ。



「どうしたんですか? 珍しいですね、牡丹さんが尋ねて来るなんて」



 扉を開け中に入ると、菖蒲は彼の予想通り、やはり堅苦しい口調で。くいと人差し指で銀縁眼鏡を持ち上げる。それから、「座りますか?」と、座布団を差し出した。



「いや、大丈夫。直ぐ終わるから」


「そうですか。それで、用件とは?」


「うん。あのさ、今度の土曜日に、俺のクラスの奴等とウチで一緒にテスト勉強をしようってことになって。それで、もし良かったらなんだけど……。その、菖蒲も一緒にどうかと思って」


「その勉強会に、僕もですか?」


「うん。ほら、俺達って同い年だろう? だから、一緒に勉強するのも良いかな……っていうか、クラスの奴等が菖蒲に勉強を見てもらいたいんだって。でも、菖蒲は頭が良いから、誰かに教えてもらう必要なんてないだろうし、反って邪魔になるか」



 そう提案する牡丹に、菖蒲は一寸考え込むも――。



「……いえ。そんなことはありません。僕で良かったら、ぜひ参加させて下さい」


「えっ……? ああ、うん」



 自分で誘って置きながらも、まさかの好意的な返事に。牡丹はつい呆気に取られてしまい。「それじゃあ、今度の土曜日に」と。それだけ告げると、菖蒲の部屋を後にする。


 なんだかあっさりと話がまとまり。心配を他所に、牡丹はやはり意表を突かれ。


 けれど、お陰でどうやら勉強は捗りそうだと、心配事が一つなくなり。少しだけ、ほっと安堵の息を吐き出した。

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