第017戦:置きながらこそ 色まさりけれ
前略。
三男の桜文から、菊がストーカーに付け回されているという話を聞き。牡丹は彼女のボディーガードを頼まれるが、しかし。菊から非常に嫌われている彼は、果たして本当にその役目を全うできるのだろうかと不安ばかりが付きまとう。
そんな牡丹の複雑な心情を余所に、夜は次第に更けていき。
問題の翌日――。
朝から夕方まで、剣道の稽古は続き。菊と待ち合わせ場所等といった打ち合わせを全くしていなかったなと思いながらも、牡丹は取り敢えず袴から制服へと着替えていく。
擦れ違ったら面倒だなと、一応道場の付近を見渡すが、菊の姿は見当たらない。まだ活動をしているのだろうと推測すると、彼は演劇部が活動の拠点としている三階の視聴覚室へと向かった。
教室の前に着き室内を覗き込むと、中には数十人の生徒の姿がちらほらと見受けられる。彼等は各々周りの人達と談笑したり、台本と睨めっこをしたりと、どうやら活動は終わっているような雰囲気であった。
けれど、その中から、なかなかお目当ての姿は見つからない。どこにいるんだときょろきょろと何度も見回すが、やはり見つからず。牡丹が首を傾げていると、不意に後ろから、「あの!」と声が掛かった。
「ん……? あれ、紅葉。そっか、紅葉も演劇部か」
「はい、そうです!」
どうして牡丹さんがここに……!? と。思い掛けない人物とのまさかの接触に、紅葉は内心高鳴る胸を抑え込ませながらも平静を装う。先日、怪我の功名とでも言うのだろうか。意中の相手である牡丹の前だと極度に緊張してしまい、目も禄に合わせられなかった彼女だが、以前よりはこうして割と普通に会話ができるようにまで成長していた。
「あのさ、紅葉。菊がどこにいるか知らないか? 悪いんだけど、知ってたら呼んで来て欲しいんだけど」
「えっ。菊ちゃんなら、もう帰りましたけど……」
「はあっ!? 帰ったって……、一人で?」
「はい。部活が終わった途端、菊ちゃん、さっさと帰っちゃったみたいで。私も一緒に帰ろうと思っていたんですけど……」
全く以って、彼女には一切非がないにも関わらず。紅葉は済まなそうに、しゅんと小さくなっている。
そんな彼女に牡丹は礼を言うと、急いでその場から駆け出し。
「あの馬鹿っ……!」
(なんなんだよ、なんなんだよ。俺のことを変態扱いばかりして、嫌いなのは分かっている。けど、それとこれとは話が違うだろう。
こうなるんじゃないかとは少しは思っていたけど、でも、まさか本当に……。)
何かあったらどうすんだよ――!! と。牡丹は心の中で叫びながら、必死に手足を振り上げる。
階段を一気に駆け下り、校門を通り抜け。そのままの勢いを殺さぬまま、牡丹はただ我武者羅に走り続ける。すると、漸く遠くの方にだが、菊の姿が目に映り。牡丹はほっと一息、安堵の息を吐き出した。
速度を徐々に落とし、跳ね上がった心臓を宥め。ゆっくりと呼吸を繰り返しながら、牡丹は前を歩く菊へと近付いて行く。しかし、彼女よりやや後方、自分の少し手前に、ふとこそこそと怪しげに動いている黒い影が目に入る。
その影は全身が黒い服に覆われ、パーカーのフードを深く被った上に、サングラスとマスクという如何にも怪しい風貌だ。体格から見て、おそらく男だと思われる。
もしかして、コイツが例のストーカーだろうかと。牡丹は疑いを掛けると、ゆっくりとその影に近付いて行き。彼の肩に、ぽんと軽く手を乗せ。
「おい。ちょっと訊きたいことがあるんだけど……」
牡丹の存在に気付いた男は、咄嗟に彼の手を振り払い。右手をズボンのポケットへと忍ばせる。そして、次の瞬間、男は奇声を上げながら腕を大きく振り回した。
その突然な攻撃に、牡丹は反射的に大きく飛び退いた。男の腕をどうにか躱し、それから休む暇なく距離を取る。
身を屈め、じとりと男を見据えると、その右手にはきらりと鋭く輝いた……。
「げっ、ナイフ――!?」
嘘だろう……! と願う牡丹の期待を裏切るよう、男は彼目掛けて光る右手を振り回し続ける。
牡丹の額には、だらりと一筋の汗が浮かび上がり。どうしてこんなことになっているんだと。俺はただ、桜文兄さんに頼まれて、菊と一緒に帰ろうとしただけなのにと。これは、果たして本当に現実なのかと、思わず軽く現実から目を背けてしまうものの。残念ながら、先程から顔や体の脇を掠めている銀色の光り輝く物が、決して玩具なんかではなく本物だと。実感すると漸く覚悟を決め、額の汗を拭いながらも肩に掛けていた鞄を地面に向かって放り投げ。そして、竹刀袋から竹刀を取り出し構えるや、真っ直ぐに男と対峙する。
すると、ストーカーもぴたりと動きを止め。どうやら牡丹がどう動くか、窺っているようであり。どちらも相手の目をじっと見つめたまま、息を潜め。緊迫とした空気がその場を支配していく。
しかし、じりじりとどちらも動くことなく睨み合っていると、騒ぎに気付いた菊が肩を大きく揺らして彼等の元へと駆け寄り。
「ちょっと、何しているのよ!」
「菊!? どうして戻って来るんだ。いいからお前は下がっていろ。危ないだろう!?」
「何を言っているのよ。どう考えても、危ないのはアンタの方じゃない。なによ、そのへっぴり腰は」
「そんなこと言ったって、相手は本物の凶器だぞ。そんなのを持った相手となんて、戦ったことある訳ないだろう! って、うおっ、危なっ……!?」
きゃんきゃんと、牡丹と菊が喚き合う最中。すっかり蚊帳の外にされたストーカーは、先程よりも興奮した様子で牡丹へと襲い掛かる。ぶんぶんと鋭い閃光が、牡丹の周りを何度も行き来する。
背筋には自然と冷汗が浮かび上がり、その所為でシャツがべったりと肌に張り付き気持ち悪い。手汗で竹刀が滑り落ちそうになるが、それでも牡丹はぎゅっときつく握り締める。
(守らなきゃ、守らないと。
でも、どうして? 桜文兄さんに頼まれたから?
ああ、多分そうだ。いや、それもあるけど、でも。きっとそれだけではない。
だって、コイツは……。コイツは、俺の――。)
牡丹の中で、一つの答えがまさに導かれようとした、その刹那――。
しかし、彼の横を一筋の風が吹き抜け。頬を撫でる爽やかな風に呆気に取られてしまうと同時。その神風の正体である菊の片足が、スッ……と天に向かって綺麗に伸び上がる。
その光景に、思わず見惚れてしまったことがおそらく男の敗因だろう。彼女の足先は見事ストーカーの右手に直撃し、カッキーン……! と、甲高い音が辺り一帯に強く鳴り響かせる。ナイフはいくつもの弧を描きながら天高く飛び上がり、そして。宙の一点で止まると、そのままカランッと地面へと転がり落ちた。
呆然と、ナイフの軌跡を眺めていたストーカーであったが、異様な殺気を感じ。慌てて振り向くも、時既に遅く。続けて男の鳩尾に一発、菊の渾身のストレートが抉り込むようにして炸裂した。
「き、菊さん……?」
ぱちぱちと、牡丹が瞬きを繰り返す中。ストーカーは、ごほっと腹から気の抜けた声を出し。ずるりとその場に崩れ落ちるようにして座り込んだ。
その一瞬間の出来事に、牡丹の思考は付いていかず。現状を把握し切れずに、呆然と立ち尽くすばかりだ。
しかし、いつまでも棒立ちになっている彼を、菊がきっと瞳を細めて鋭く睨み付け。
「ちょっと、余計なことしないでよ。アンタみたいなのが手を出したら、反って面倒なことになるじゃない」
「なっ……! お、俺は、お前を心配してだなあっ……!!」
「だから、それも含めて余計なお世話だって言っているの! そんなこと、誰もアンタみたいな変態で弱い奴になんか頼んでない!」
「くっ……! なんだよ……、なんだよ、二言目には、いつも文句ばかり言いやがって……。
大体俺は、桜文兄さんに頼まれたからで、兄さんがお前のことを心配して……。ああ、そうだよ。兄さんの言う通り、たとえお前が俺のことを嫌いでも、半分しか血が繋がっていなくても、それでもお前は俺の妹だ! 人の顔を見れば、『変態、変態!』って、そればっかりで。おまけに生意気で、ちっとも可愛げもない。
俺だってお前のこと、ちっともそんな風には思えないけど、でも……。それでもやっぱりお前は、俺の妹なんだよ――!!」
牡丹は息を荒げさせ、思うがまま、一気にそう捲し立てる。興奮からか顔は真っ赤に染まり、ぜいはあと肩を激しく上下に動かす。
けれど……。
「……誰が誰の妹だって? 私はアンタみたいな変態、兄だなんて。これっぽっちも認めてないから」
「なっ……!??」
一方の菊はじとりと牡丹を見据えると、呆気なくも。ふんと首を大きく回して、そっぽを向いた。そんな彼女の態度に、牡丹はぶつけようのない怒りを覚え。ふるふると、拳を大きく震わせ、そして。
可愛くない奴――! 茜色に染まっていく空に向かい、心の中で思い切り叫んだ。
✳︎✳︎✳︎
その後、騒ぎを聞き付けた警察がやって来て。牡丹と菊は、揃って事情聴取をさせられた。
その所為で、いつの間にか辺りはすっかり暗くなり。ぽつぽつと先を照らしている仄かな街灯の光を頼りに、二人は間に距離を置くも肩を並べて家へと向かう。
(結局、一体俺は何の為に……。別に俺なんていなくたって、ストーカーの一人や二人、コイツ一人で十分だったじゃないか……。)
桜文兄さんも人が悪いと、牡丹はぶつぶつと愚痴を溢す。
コイツを心配する必要なんて、ちっともなかったじゃないかと。でも、本当にストーカーがいたんだなあと。何事もなくて良かったなあと。
ほっと小さく安堵の息を漏らしながら、牡丹はちらりと隣を歩く菊を盗み見る。しかし、その視線に気付かれてしまい。逆にじろりと菊は鋭い瞳を以って牡丹を睨み。
「ちょっと。なにじろじろ見てるのよ、変態」
「なっ……! だから、俺は変態じゃない!」
「なによ。昨日だって人のスカートを捲ったくせに。白々しい。アンタも一緒に逮捕されれば良かったのに」
「なんだとっ!? だから、あれは事故で、故意にやった訳じゃないって何度も言っているだろう!」
「口で言うのは簡単よね。けど、誰が変態の言うことなんて信用できると思うのよ?」
「なっ、なっ……、だからあーっ!!」
「違うって言っているだろう!」と。牡丹の必死の抗弁も、いつもの如くあっさりと無視されてしまい。菊は一人すたすたと、先に行ってしまう。
果たして、コイツは本当に俺の(半分だけ血の繋がった)妹なんだろうかと。牡丹はやっぱりそう思わずにはいられず。こんな妹はこっちから願い下げだと。別に誰に宣言する訳でもないが、それでもそう叫ばずにはいられない。
先を行く憎たらしい彼女の背中を思いっ切り睨み返しながら、本当に可愛くない奴――!! と。
おまけとばかりにもう一度、牡丹は心の中で繰り返した。
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