第015戦:置き惑わせる 白菊の花

 結局、菊の予想通り、嫌な予感は的中し。紅葉は学生の本分である勉学には一切手付かずで、指名されても生返事、シャーペンを持つ手は全く動かず、今日一日分のノートは真っ白。ずっと上の空で授業中を受け続け、現在に至る。


 こんなにも紅葉を悩ませている原因は、彼女が握り締めているチケットにあり。意中の相手である牡丹へと渡したいのだが、乙女心は複雑で。渡したい、でも、恥ずかしくて渡せないと。相容れない思いがぐるぐると巡り巡って、また巡り。二進も三進もいかない状況だ。


 そして、昼休みとなってしまった今。お昼の時間だというに、それでも紅葉はチケットと睨めっこしたまま。お弁当さえ広げようとしない始末である。



「ちょっと、紅葉。昼休みよ。早くお昼食べなさいよ」


「うん……」


「紅葉ってば。聞いているの? 昼休み、終わっちゃうわよ」


「うん、そうだね」



 菊が何度も声を掛けるものの、やはり紅葉は生返事ばかりだ。とうとう菊の額に一筋の青筋が浮かび上がり、ぐいと紅葉の頬を思い切り横に引っ張った。



「いひゃい、いひゃい! いひゃいよ、きくひゃん……!!」


「どう? 目は覚めたかしら」



 ぐいぐいと横に引っ張り続ける菊に、紅葉はこくんこくんと何度も頷く。涙ながらに懇願する彼女に、菊は漸くぱっと手を離した。



「酷いよ、菊ちゃん」


「何言っているの。お陰で目が覚めたでしょう。もう、さっさと渡して来ちゃいなさいよ。じれったいわね」


「だってえ……。どうやって渡したらいいか、全然分からないんだもんっ!」



 そう訴えると、紅葉は机に突っ伏し。声を上げて泣き出した。


 一方の菊は、本当に面倒臭いと。この調子では、先が思いやられると。ひょいと摘まんだ卵焼きを食べながらも、綺麗に整った眉を歪めさせた。






✳︎✳︎✳︎






 同時刻、二年三組の教室では――。


「はああ……」と鬱蒼とした空気が、室内いっぱいに流れている。出所を探ると、それは牡丹の友人である竹郎の元からだ。


 いつもなら騒がしいくらいの彼の容体の違いに、牡丹は疑問を抱かずにはいられない。



「どうしたんだよ、辛気臭い顔して」


「それが、今度の演劇部の公演のチケットが手に入らなかったんだよ……」


「ふうん、そうなんだ。それは残念だったな」


「残念所の話じゃないよ!」



 机に突っ伏していた竹郎だが突然顔を上げ、ばんっ! と拳を強く叩き付ける。その音に牡丹は思わず驚き、びくんっと肩を震わせた。



「なんだよ。そんなに観たかったのか?」


「当たり前だろう! これは、ただの舞台じゃない。天正菊の出る舞台だ! この前の公演も本当に良かった。天正菊は可愛いだけでなく、演技も上手いから文句の付けようもない。ああ、天正菊は本当に可愛いよなあ……」


「そうかあ? そんなに大騒ぎするほどかな」


「この、贅沢者! あれ以上に可愛い子なんて、なかなかいないぞ」


「いくら可愛くても、性格に問題のある人間はどうかと思うぞ」


「ちょっとツンツンしているだけで、そんなに悪いとは思わないけどな。寧ろ、そういう所が反って可愛いというかさー」



 恋は盲目、あばたもえくぼと言うけれど。これほどまでに可愛いと思える彼が羨ましいと。顔を合わせば憎まれ口ばかり叩いて来る妹を、少しでもそんな風に思えたらと、牡丹は淡い思いを寄せた。



「なあ、牡丹。天正菊に頼んでもらえないのか? 今度の公演のチケット」


「それは無理だな。アイツ、兄さん達の分のチケットは用意していたけど、俺の分だけなかったくらいだからな。忘れていたとか言って」



(本当の所、どうだか知らないけど……。)



 昨日のことをまだ根に持っているのか。そのことを思い出すと、牡丹は眉間に皺を寄せた。



「そういう訳だから、潔く諦めてくれ」


「そんなあ……。あーあ、どこかにチケット余っていないかなあ……」



 なんて。せっかくの昼休みなのに、竹郎がうだうだと過ごしている壁の向こうでは――。



「はうう、どうしよう……」



 一人の女生徒が先程から、教室の前に行っては引き返してを繰り返し。うろうろと歩き回っている。


 その人物こそが紅葉であり、菊に尻を叩かれ教室から追い出された彼女は、取り敢えず牡丹のいる教室までやっては来たが……。勇気が出ず、チケットを片手にうろうろと教室の前をもう何周もしていた。



(どうしよう。ここまで来たのはいいけど、でも。やっぱり……。やっぱり直接渡す勇気なんて……。)



 そんなのちっとも出ないよー!! と、紅葉は相変わらずぐるぐると回り続けた。






✳︎✳︎✳︎






 そんで以って、とうとう昼休みも終わってしまい……。



「で、結局チケットは渡せなかったのね」



 と。未だ紅葉の手に握られているチケットを眺めながら、菊はきっぱりと言い放つ。じとりとそれを見つめ続ける彼女の視線に、返す言葉もありませんと。紅葉は小さくなるばかりだ。



「そんな調子だと、チケットを渡す前に公演が終わっちゃうわよ。大体、その公演に来てもらって、話をするチャンスを得るんじゃなかったの?」



「今からそんなんでどうするのよ」と、菊は捲し立てるよう言い放つ。確かに彼女の言うことは正論で、これではたとえ運良く牡丹とそのような機会を得られたとしても、話をする所ではない。


 このままではいけない。それは、百も承知だ。しかし、だからといってそう簡単に割り切れる訳もなく。


 気持ちの整理が付かないまま紅葉は菊に引っ張られ、次の授業が行われる教室に向かい、とぼとぼと廊下を歩き出す。



(ああ。私ってば、本当に意気地なしだ……。)



 はあと、紅葉の口から深い息が吐き出され。すると、まるでそれに呼応するよう、窓の隙間からひゅうっ……と強かな風が入り込む。それは、紅葉の手元を刺激し……。



「えっ……、きっ……、キャーッ!?? うそっ、チケットがーっ!」



 その神風に攫われて。紅葉の手から、するりとチケットが抜け出した。思わぬ展開に、彼女は声にならない悲鳴を上げ。



「うそ、やだっ! ちょっと待って……、お願い!」



 ふわふわと風に乗って逃げて行くチケットを、紅葉は必死に追い掛ける。手を伸ばすも寸での所でひょいと躱され、すっかり遊ばれてしまっている。


 失くしたりなどしたら、それこそ牡丹と関われるせっかくのチャンスが消えてしまう。


 紅葉はまさに決死の思いで腕を伸ばし、その願いも神様に届いたのか。ぱしんっ! とチケットを掴み取れ。



(良かった……。チケット、失くさずに済んで……。)



 どうにか思い人との好機を繋ぎ止められ。紅葉の喉奥から、ほっと安堵の息が漏れる。


 本当に良かったと、感慨に耽ろうとするが、しかし――。



「あれ……?」



 急に体が軽くなり。紅葉の足は何故か地から離れ、ふわりと宙に浮いている。しかし、その原因を考える暇もなく、後ろから菊の声が聞こえ。それから、ずざざざざんっ……と鈍い音が廊下中に鳴り響いた。






✳︎✳︎✳︎






 一方、二年三組の教室では――。


 未だに竹郎がじめじめと鬱蒼とした空気を放っており、周囲に茸が繁殖されそうだ。彼の喉奥からは、意味を成さない声ばかりが出続けている。



「おい、竹郎。いい加減、元気出せよ」


「いや、無理」



 竹郎は机に突っ伏したまま即答する。先程から何度も牡丹が励まそうとするも、その度に瞬殺されてしまっている。


 どうすることもできないと、牡丹が潔く諦めた刹那。突然、スパンッ――! と扉が勢いよく開け放たれ。



「えっ……。菊……?」



 扉を開け放った犯人が、思いも依らぬ人物で。きょとんと目を丸くさせている牡丹を置き去りに、菊はずかずかと中へと入って来る。



 そのまま牡丹の前まで来ると、ぐいと彼の胸倉を掴み上げ。



「おっ、おい。いきなり何を……」


「……るさない……」


「はあ?」


「許さない……。紅葉に……、紅葉に何かあったら、絶対にアンタを許さない……!」



「許さないんだからっ!!」と一層と甲高く、菊は声を張り上げる。


 一方の牡丹は軽く首を締められたまま、全く状況を理解できず。ただ茫然と、いつも以上に瞳を鋭く尖らせた菊のそれを見返すばかりであった。






✳︎✳︎✳︎






(あれ、どうしたんだろう。なんだか体がふわふわする……。)



 おかしいなあと思いながらも、紅葉の視界は薄ぼんやりと開けていき。目の前では黒い影が、うようよと左右に揺れている。


 すると、今度は「紅葉、紅葉」と、聞き慣れない声が何度も彼女の名を紡ぐ。けれど、どこかで聞き覚えが……。ああ、そうだ。忘れもしない。だって、この声はあの人の――。


 刹那、紅葉は背中にばねが入っているみたいに、勢いよく上半身を起こし上げる。晴れ渡った先の景色に、何度も瞬きを繰り返す。夢? それとも現実? と、すっかり混乱している紅葉の隣では、牡丹がふうと肩の荷を下ろしている。


 どうしてこんな所にいるのだろうかと、紅葉は目を点にしたまま。きょろきょろと首を左右に振り。



「えっと、大丈夫? 紅葉、階段から落ちたんだって。そのチケットを追い掛けて……」


「チケット? 階段? あっ……」



(そう言えば……。)



 そうだったと、握り締めているチケットを眺め。漸く記憶を取り戻したものの、紅葉は途端に恥ずかしくなる。



「でも、特に外傷は見られないって。なんだか上手く受け身を取っていたみたいだよ。落ちたショックで、気絶していただけだってさ」


「そっか、そうだったんですね。私ってば、鈍臭いな。でも、どうして牡丹さんがここに……」


「ああ。それが、菊が豪い剣幕で俺の所に怒鳴り込んで来てさ。『紅葉が落ちたのは、アンタの所為だ』って。紅葉がこのまま目を覚まさなかったら、俺のこと、一生恨んでやるって喚き切らして。そんで以ってその責任として、紅葉が目を覚ますまで傍にいろって言われたんだよ」


「そうだったんですか……。本当に済みません。その、ご迷惑をお掛けして」


「いや、そんな。別に紅葉が悪い訳でもないし。菊から聞いたんだけど、そのチケット、菊の為に守ってくれたんだろう?」


「えっ……?」


「あれ、違うのか? 菊が俺の分のチケットだけ確保し忘れたのを気遣って、紅葉が代わりを用意してくれたんだろう?

 俺はてっきりそうだと思っていたんだけど……」



 こてんと首を傾げさせる牡丹に、「私があなたに来て欲しかったからなのよ」と、このタイミングで赤裸々な思いを吐露する度胸などある訳もなく。紅葉はおとなしく、「はい」と小さな声で返した。


 しかし、どう考えても、やっぱり私の所為だよなと。根底から湧き上って来る罪悪感に耐え切れず、紅葉は思わず牡丹から目を逸らした。



「でも、意外だよな。びっくりしたよ、菊があんなに感情的になるなんて。アイツって、いつもクールぶっているだろう? 怒ることはあっても黙ったまま人のことを叩くとか、そんな感じでさ。だから、あんな風に赤裸々に怒鳴り散らす菊は初めて見たなって。

 少しだけ見直したよ、友達思いな所もあるんだなって。でも、その代わり、アンタなんかいなければ良かったのにって。俺の存在も強く否定されたけどな……」



 つい数刻前の菊との遣り取りを思い出し。牡丹は遠い目をしたまま、ははは……と乾いた音を漏らす。



「それで、チケットなんだけど……」


「あっ、はい。あああ、あの、良かったらどうぞ……!」



「ぜひ来て下さい」と、消え入りそうな声で。紅葉はぐいと握りっ放しだったそれを差し出す。


 牡丹は一瞬躊躇するも。



「そうだなあ。本当は菊が出る舞台なんて、泣いて頼まれたって絶対に観に行くもんか! って、思っていたけど……。

 そこまでしてもらったら、行かない訳にはいかないよな」



 彼はへらりと笑みを浮かばせながら、紅葉がぷるぷると手を震わせながらも差し出したチケットを受け取る。



「それにしても。紅葉って、本当によく落ちるよな」


「そ、そんなこと……」



「ありません」と、言い切りたいのに。ここ最近の己を省みて、そう言えないのがもどかしい。


 けれど、目の前で楽しそうに笑っている牡丹を見ていたら。そんなちっぽけなことは、最早どうでも良くて。代わりに、「そうですね」と。はにかみながらもそう返した。

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