第014戦:心あてに 折らばや折らむ 初霜の
きらきらと眩い朝日が細かな光を溢しながら世界を照らしている、麗かな日曜日――。
ちゅんちゅんと小鳥の囀りを子守唄に、すっかり夢心地に浸っていた牡丹だが、しかし。
「牡丹お兄ちゃん! おっきろー!!」
「ぐふっ!??」
どたどたと慌しい雑音が、せっかくの心地良い音色を掻き消すと同時。彼の腹に、突如鈍い衝撃が降って来る。その痛みに、しまった――! と、後悔するも遅く。牡丹は背中を丸め、腹を押さえ込む。
「牡丹お兄ちゃん! 朝だよ、起きろー!」
「おい、芒。偶の休みくらい、ゆっくり寝させてくれよ」
「駄目だよ。休みの日だろうと、早寝早起きしないと。それに、朝ご飯だってもうできているんだから」
「早く来ないと冷めちゃうよー」と、とたとたと軽い足取りで部屋を出て行く末っ子に。子供は朝から元気で良いよなと。牡丹は一種の羨望の眼差しを向けながらも、ずるずると重い足取りでベッドの中から抜け出した。
「ふわあ……、おはよう」
「おはよう、牡丹。なんだかまだ眠そうだな」
「はい。次の日が休みだと思ったら、つい夜更かししちゃって……」
むにゃむにゃとまだ開き切っていない眼を擦りながら、牡丹は自分の席に着き。眠気覚ましに、藤助が注いでくれたオレンジジュースをぐいと勢いよく飲み込んだ。
「今日の朝ご飯は、ホットケーキだから。ジャムでもバターでもメープルシロップでも、なんでも自分の好きな物を掛けてね」
「牡丹お兄ちゃん。メープルシロップ取ってー」
「はい、はい。ほら」
「へへっ。ありがとう」
「ううん……」
「どうしたんだ、牡丹。ホットケーキ、美味しくない?」
「いえ、そんなことは。寧ろ、とっても美味しいです。そうじゃなくて、なんだか家の中が妙に静かだと思って」
「そうだなあ……。鶴野さんが帰ったからじゃない?」
「そっか」
だからかと、牡丹は納得しながらスープを啜る。
台風一過とでも言うのだろうか。嵐の後の静けさに、ちょっと物足りなさを感じながらも、牡丹はたっぷりのメープルシロップを掛けたホットケーキに噛り付く。
彼等の話からも分かるよう、鶴野は昨日、突如彼女の父親が訪れ共に家へと帰って行った。
以下、その時の回想スタート。
✳︎✳︎✳︎
「道松様! 鶴野特製・極上オムライスです」
「召し上がれ」と鶴野はスプーンで一口分掬い取ると、ぐいと道松の口元へと運ぶ。
けれど、彼はそれを拒絶し。
「おい、鶴野。飯は自分で食べると言っているだろうが」
「そんな遠慮なさらず。はい、あーんですわ」
「だから……。いいからスプーンを寄越せ」
「あんっ、嫌ですわ」
「いいから寄こせ! 食えないだろうが!」
スプーンを奪い合う彼等の間に、藤助は割り込み。
「もう、二人とも。あまり騒ぐなよ。近所迷惑だろう」
「ったく。なーんで食事中まで、兄貴達のバカップルぶりを見せつけられなくちゃならないんだよ。大体、どこがどう極上なんだ? 俺達のとたいして変わりないじゃん」
「それが、道松のだけ、一個五百円以上する最高級の卵を使っているんだよ。わざわざ農家から取り寄せたんだって。他の具材も高級品のオンパレードだしね」
「はあっ!? 五百円って……。普通の卵なら、それ一個で四、五パックは買えるじゃねえかよ」
「そうだよなあ。やっぱり鶴野さんって、住む世界が違うっていうか……」
毎週近くのスーパーで行われている特売品の卵のタイムセールには欠かさず参戦している藤助には、鶴野の金銭感覚が余程のショックだったのか。焦点の合わない瞳を揺らしている。
いつにも増して、ご奉仕ぶりに拍車が掛かっているなと。適当な感想を抱きながらも牡丹がかちゃかちゃとお山を崩していると、不意に室内にチャイムの音が鳴り響いた。
「こんな時間に誰だろう」
「ウチの新婚夫婦がうるさいって、近所からの苦情じゃないか?」
「おい。誰が新婚だ、誰が!」
「いやですわ。新婚だなんて……」
「僕、見て来るね」
ぎゃあぎゃあと一層騒しくなる中、芒はぴょんと椅子から飛び降り。とことことリビングから出て行った。けれど、直ぐにも扉の隙間からひょいと顔を覗かせ。
「鶴野お姉ちゃん。お姉ちゃんのお父さんが来たよ」
「えっ、お父様が?」
「うん、鶴野お姉ちゃんを迎えに来たって。あのね、すっごく大きな車がね、家の前に停めてあるの」
芒はきらきらと大きな瞳を輝かせ、興奮気味にそう話す。
牡丹達は互いに顔を見合わせると、ぞろぞろと野次馬がてら先頭を歩く鶴野に付いて行き。
「うわあ、本物のリムジンだ……。俺、初めて見ましたよ。でも、こんな狭い路地の中をどうやって通って来たんですかね」
「さあな。きっと運転手が、余程のドライビングテクニックの持ち主なんだろう」
牡丹達は玄関の扉を薄らと開け、こそこそと外の様子を窺う。すると、家の前には一台のリムジンが停まっており。その前には黒いスーツに身を包んだ男が二、三人。刃に似た鋭い視線を漂わせている。
彼等が外に出ると、車の中からまた一人。恰幅の良い男性が外に待機していた男に扉を開けてもらいながらも降りて来て。
「あら、お父様。なにしにいらしたんですか?」
「鶴野! やっぱりここにいたんだね。随分と探したんだよ。なにしにって、お前を迎えに来たんだ。さあ、パパと一緒に帰ろう」
「嫌ですわ。私は道松様とここで暮らしますから」
一瞬の躊躇もなく、さらりと返す鶴野に。鶴野パパは。
「なっ……、何を言っているんだ!? 大体、道松くんは、お前とはそのつもりがないらしいじゃないか」
「嫌だわ、お父様ったら。一体いつの話をなさっているのかしら。道松様が私をお嫁にもらって下さると、認めて下さったんですもの。離れるなんてありえませんわ」
「おい。前向きに検討するとは言ったが、誰もそこまでは言っていないだろうが。大体、お前の髪が伸びたらって話で、勝手に捏造するな」
「なに、それは本当か!? それでは、道松くん。豊島家に復縁することに決めたんだね」
「あら、お父様ったら。何を仰っているのかしら。道松様は、豊島家にお戻りにはなりませんわ。でも、道松様は道松様ですもの。復縁をしようとしまいと関係ありません」
「なっ、なっ……!? 許さんぞ、鶴野! 朝夷家の跡取りであるお前が、庶民の元に嫁ぐなど。そんなの、断固として反対だっ!
道松くん。よくも大事な一人娘をたぶらかしおって……!」
鶴野パパは拳を強く握り締め、ファイティングポーズを取り出した。拳を前に突き出し今にも殴る気満々の彼に、天正家一同は苦笑いを浮かばせ。
「うわあ。鶴野ちゃんの親父さん、めちゃくちゃ怒っているぞ。どうするんだよ、道松お兄ちゃん」
「こういう時ばかりお兄ちゃんって呼ぶな、気色悪い。ったく、仕方がねえなあ……」
一発くらい殴られてやるかと、道松は半ば諦め気味に。すっかり興奮している鶴野パパを出迎えようとする。
けれど、そんな二人の間に、咄嗟に鶴野が割り込み。手を大の字に広げて立ちはだかる。
「お父様、お止め下さい!」
「ええいっ。そこを退くんだ、鶴野!」
「道松様に手をお出しになったりしたら……。鶴野は、お父様とは一生口を利きませんわ!」
きっぱりと鶴野の口から言い渡され。鶴野パパは、どさりとその場に崩れ落ちる。そして、おいおいと地面に伏して泣き出し。
「ううっ……。鶴野、つるのお……」
「旦那様!? しっかりして下さい、旦那様!」
「分かっている……、分かっているんだ。鶴野はパパのこと、なんとも思っていないって。家でも道松くんのことばかりだし、“パパ”と呼ぶように言っても、一度たりとも呼んでくれた試しはないし……」
「そんなことありませんよ、旦那様! お嬢様も旦那様のこと、とても気に掛けていられますって」
「あーあ。どうするんだよ。いい歳したおっさんが、泣き出しちまったよ。おまけになんか愚痴り出したし……」
「ちょっと、道松。これ以上騒いだら、本当に近所迷惑になっちゃうよ。早くなんとかしてよ」
「なんとかしろって、俺がかよ?」
「当たり前だろう。他に誰がいるんだよ」
じとりと天正家全員からの視線を受け。道松は、顎に手を添え考え込む。
そして、ごほんと一つ咳払いをすると、一歩前へと進み出て。
「あの、お義父さん」
「なっ……!? 私はまだ、君にお義父さんと呼ばれる筋合いはない!」
「はあ。それでは、朝夷社長。お宅の娘さんですが、熨斗を付けてお返ししますので」
そう言うと道松は、ずいと鶴野を彼の方へと差し出す。
「道松様!? どうしてですか?」
「いや、だってなあ……。お前、いい加減に家に帰れよ」
「嫌ですわ。私は道松様と一緒にここに住みます」
「そんなこと言って、学校はどうするんだ。まだ正式に転入手続きをしていないことくらい、とっくに分かっているんだぞ。籍はまだ前の学校のままだろう? せっかく難関の学校に通っているんだ、ちゃんと卒業しろ」
「学校なんて、道松様の傍にいられるのであればどうでもいいですわ」
「お前なあ……」
道松の腕に自身のそれを絡ませ身を寄せる鶴野に、彼は呆れ顔で溜息を吐く。
そして、いつまでも地面に伏している父親と彼女とを交互に見つめ、もう一度、小さく息を吐き出させ。
「あのさ、鶴野」
「はい。なんでしょうか」
「その……、なんだ。その時が来たら、迎えに行くから。だから、おとなしく家で待っていろ」
✳︎✳︎✳︎
以上、回想終了。
「それにしても。道松も随分と鶴野さんの扱いに慣れたもんだね。でも、鶴野さんも、まさかあの一言であっさり帰っちゃうなんて」
「まあ、家にいないと待てないからな。誰かさんが迎えに来てくれるのを。でもよう。『嫌でも俺が連れ去っちまうんだから、それまでの間、親父さんに孝行しろよ』って。素直に言ってやれば良かったのに」
「なっ……、勝手なことを言うな! 別にそんなんじゃねえよ。あれ以上騒がれたら、迷惑だったからだ」
「どうだかなあ。鶴野ちゃんがいなくなって、本当は寂しい癖に無理しちゃって。俺が慰めてあげようか? お兄ちゃん」
「うるさい。それと、お兄ちゃんって言うな!」
「なんだよ、本当のことだろう」
「道松お兄ちゃん!」と、またしても。梅吉はけらけらと笑いながら繰り返す。
鶴野さんがいてもいなくても、結局もう騒がしくなっているやと。目の前で展開される兄弟喧嘩をひっそりと見守りながら牡丹は思う。
「もう、二人とも。喧嘩なんかしていないで、さっさと食べてよ。いつまでも片付かないだろう」
「牡丹お兄ちゃん。苺ジャム取って」
「はい、はい。ほら。……ん? なんだ、これ。こんなの置いてあったっけ? ええと、演劇のチケット……?」
「ああ、菊が置いたんだよ。俺達の分のチケットだ。菊は、ほら。直接、『観に来て』って言えないからさ」
「ふうん、そうなんだ」
(兄さん達にも言えないなんて。でも、アイツらしいや……。)
相変わらず素直じゃないと、牡丹はふっと鼻先で笑う。
「公演は再来週の日曜日だから、みんなで観に行こう……って、あれ? チケット、六枚しかないな」
「兄さん、ちょっと出掛けて来る」
「あっ、菊。あのさ、チケットなんだけど……。六枚しかないぞ」
「えっ?」
「うん。もう一度数え直したけど、やっぱり六枚だ。あのさ、まさかとは思うけど……」
ちらりと瞳を揺らす藤助に、菊はぽつりと。
「……いつもと同じ枚数しか用意してなかったから」
「ええと、それって……」
「つまり、牡丹の分をすっかり忘れていたってことだな」
躊躇っている藤助の横から、梅吉がさらりと口を挟む。
それを訊き、本当はわざと用意しなかったんじゃないのか……? と。しれっとしている菊に、牡丹はむすりと眉間に皺を寄せた。
「菊ってば、しょうがないなあ。そしたら俺はいいから、牡丹、観に行ってきなよ。まだ菊が出ている舞台、観たことないよな?」
「えっ? 俺はいいですよ。演劇ってよく分からないし……。藤助兄さんが観て来て下さい」
「でも……」
「俺のことは気にしないで。それに、菊だって俺よりも、藤助兄さんに観て欲しいと思いますし」
ちらりと菊に視線を向けると、彼女はこくんと素直に頷く。その返答に、牡丹はぴしりと額に青筋を立てるも、どうにか怒りを抑え込ませ。代わりに、あはは……と笑みを取り繕った。
✳︎✳︎✳︎
翌日――。
「えーっ!?? それじゃあ、牡丹さん。公演、観に来てくれないのーっ!?」
朝特有の新鮮さに包まれた空気とは裏腹、紅葉の悲痛の音が教室中へと響き渡る。何事かと同級生等から集まる視線を物ともせず(正確にはそれ所ではない為、全く気付かぬまま)、彼女は菊を責め立てる。
「仕方ないじゃない。アイツのこと、すっかり忘れていて。チケットを確保し損ねたんだから」
「そんなあ! せっかく牡丹さんが観に来てくれると思っていたのに……」
「なによ、悪かったわね。大体、紅葉は裏方じゃない。舞台に上がる訳でもないのに、アイツが観に来た所でなんだっていうのよ」
「そんなことないよ! だって、同じ場所にいられるだけでドキドキするじゃない。それに、もしかしたら話す機会もあるかもしれないし……」
紅葉はいつの間にか、すっかり夢見モードへと入ってしまい。瞳を輝かせながら、うっとりと己の妄想を語り出す。
そんな彼女とは裏腹。一度こうなってしまうと、なかなか現実には戻って来ないのよねと。すっかり彼女の世界から弾き出されてしまった菊は、どうしたものかと思惑する。
「ちょっと、紅葉。妄想するのは勝手だけど、反って虚しくならないの?」
「はうっ、そうだった! はああ……。せっかく牡丹さんとの仲を進展させるチャンスだと思ったのに……」
「悪かったわね。アイツの分だけチケットを用意し忘れて」
「そうなんだよね。問題は、チケットなんだよね。チケットさえあれば簡単に解決するのに……って、あれ。ちょっと待って。そう言えば私、手持ちにまだチケットが……、あっ、あった! あった、あった! 良かった、二枚だけ残っていたわ」
がさごそと、制服のポケットを漁り。紅葉は掴み取った二枚の長方形の紙切れを、天井に向けて掲げて見せた。
「あとはこれを牡丹さんにあげるだけ……。はい、菊ちゃん」
「はあ、なに?」
「なにって、今度はちゃんと牡丹さんに渡してあげてね」
「なんで私が……」
「なんでって、牡丹さんは菊ちゃんのお兄さんでしょう?」
「あんな奴、兄じゃないわよ」
「またそんなこと言って! 菊ちゃんは牡丹さんの何が気に食わないの?」
「それは……って、とにかく私は嫌よ。今更そんな真似できない。それに、そんなに観に来て欲しいなら、自分で渡しなさいよ。それこそあなたの言う話すチャンスだと思うけど」
紅葉は、きょとんと目を丸くさせ。
「そっか。確かにチャンスだよね……」
「そうだよね」と自身に言い聞かせるよう、紅葉はもう一度繰り返す。
それから、どうやって牡丹に渡そうかと。今度は百面相をし出す彼女に、菊は大変そうねと憐みの視線を向けた。
「ねえ。そんなにアイツに観に来て欲しいの?」
「へへっ、勿論だよ。だって、たとえどんなに小さな可能性でも、もしかしたらそこから発展するかもしれないじゃない。
たった一言でもいいの。もし言葉を交わせたら、それだけでも次に繋がると思うから」
「ふうん。可能性ね……」
紅葉は薄らと頬を赤く染めたまま、未だ良い考えが浮かばないのか。真剣な眼差しでチケットと睨めっこを続けている。おそらくもう直ぐ始まる授業など、少しも真面に受けられないことなど明白だ。
その必死の背中を見つめながら、菊は、「そうね……」と。ぽつりと口先で繰り返すが、その儚い呟きは始業を告げるチャイムの音により、誰に聞かれることなく掻き消された。
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