R―ST 海風そよぐ

 今、海に来ている。もうあの場所から離れてしまい、山を越えてこの都市に来た。ここは海の近くの大都市。『自然と調和した生活』を目標に、環境第一の生活を送っている人々の様子は、とても落ち着いていた。これが、求めていた大人っぽさなのかもしれない。

 あれから、まだ一か月も経っていないのに、もうほとんどのことを忘れ、それでもここの生活になれずにいる。ずっと、夢うつつのような状況が続いている。あまりにも変わり過ぎた生活のせいだろうか。もう学校のあの図書室もないし、慰めてくれる仲間は……。

 いや、違う。

 新しい生活におびえている自分のせいだろうか。学校に通い始めてからまだ一週間しかたっていないが、本で読んだ通りの疎外感は否めなかった。流石隣町だ。前の町であったことはすでに周りの児童には伝わっている。

 まあ、知らなくても当然気にするが。

 でも、違う。

 なぜだろう。


 今日もこの海に来た。コンクリートを固めて作られた堤防には白いペンキの塗られた柵があり、そこから顔を出すような風貌で海を眺めていた。これが長く望んでいた海か。

 その海は少しエメラルドグリーンがかった群青色で、隅のほうには誰かが捨てたごみが海面に固まってよどんでいる。遠くには、海上遊園地がキラキラと輝いている。あんなに大きな観覧車から見た海は、もっとすごいのだろうか。今度、連れて行ってもらおう。

「海は限りなく広い、か」

 すっかりかすれた声で独り言をつぶやいた。

 観覧車から少し近くに目を向けると、同じように海を眺めている女の子がいた。活発そうな女の子で、今まで関わったことのないようなタイプのようだったので、余計この町での疎外感が増してきたのを感じ、また海に目を戻した。

 昔読んだ小説、『海山道中』の一節に、こんなものがあった。


 “海はただ広い

   大海を蛙は知らない

    上を向いても

     大海を知ることはできない“

 

 海を初めて見た山丞やますけ海丞うみすけが言ったものだ。

 そもそも、この小説は特に面白くなかった。

 書いていたのがまだまだ未熟な作家のデビュー作だったからかもしれない。新聞か雑誌か単行本か。どの媒体で読んだのかはわからない。内容は支離滅裂だったし、小学生には難しすぎたのかもしれないが、内容は一切頭に入ってこなかった。

 このように、知識は永遠に残るが、思い出は風化してしまう世界の残酷さを胸に、今日は海を去ることにした。

 海を背にすると、後ろから大きな音が聞こえた。船だった。上のほうで人々が手を振っている。

 ふと、左を見ると、そこには周遊クルーズの看板があった。なるほど、灯台下暗し、ということか。ここに来るのはもう五回目なのに、今初めて気付くなんて、驚いた。しかし、安全のために、乗ることができるのは中学生以上だそうだ。いつか、あれに乗ってみたいな。

 いつの間にか、ぼーっとしていたようだ。

 船はもう港について、人々はもう降りてきて隣を過ぎていった。声をかけられるまで、気づかなかった。


「ねぇ、そこの君」

 はっと気づいて後ろを振り返ると、大学生ぐらいの女の人が立っていた。

「君さ、海好き?」

 突然の質問に少し驚いたが、

「はい、それなりには」と、答えた。

「そう? それなりっていうようには見えなかったけどね」

「……どういうことですか?」

「だって君、海を見ながらどうしていたと思う?」

「え、特に何も、してないですけど……」

「やっぱり気づいてなかったんだ。ほら」

と、近づいてきて、顔に手を伸ばしてきた。

 何をされるのかわからず、逃げようかとも思ったが、妙な安心感もあり、その場にとどまった。

 ほほを手で撫でられた。かすかに何かが離れた気がした。

「君、泣いていたんだよ? 海見ながら。私ね、大学で心理学の勉強をしているの。まあでも、まだ入学したてだけど。人の気持ちを読み取るのが好きなんだ」

 そういって、彼女は柵の上に、さっきの自分と同じようにひじを置いた。

「面白いと思わない? 顔を見ただけでその人の感情が分かったら、その人を助けてあげられるじゃない?私ね、将来養護教諭になりたいんだ。あ、養護教諭っていうのは、学校で言う保健室の先生ね。昔、学校でいじめられていて、相談師によく保健室を訪ねていたの。おかげで気分は晴れて一日一日大切に過ごして行けたんだけどね。って、私何話してるんだろ、小学生相手に」

 彼女に並んで先ほどと同じ体勢になり、

「やっぱり、小学生に見えますよね」と不意につぶやいた。

「あ、やっぱり小学生だったんだ。だって中学生ならあの船に乗ってクルーズに出て海を見たほうがおもしろいもの。さっき見たとき、君のことを高校生ぐらいだと思ったのが本音よ?小学生にしては大人びているというか、考えすぎで疲れてきっているというか……あ、また泣いてる」

「あ、すいません」

 涙をぬぐって、爪でカリカリと涙の跡を削った。

「君、それどうしたの?」

「あ、これですか? ちょっと、やんちゃしてしまって……」

「そう。きみ、名前なんて言うの? あ、こういう時は自分から名乗るのが普通ね。私は、南方慶子。現役大学生一年」

 この人になら名前を言ってもよさそうな気がした。まさかこの町に来て初めてまともに話すのが見知らぬ大学生だとは思わなかった。

「僕、町田啄木っていいます。小学六年生」

「そう、いい名前ね」


「じゃあ、今日はもう帰るので」

「君、またこの海に来るんでしょ?」

「さあ、わかりません」

「ふふっ。じゃあね」

 そういって、南方さんは手を振った。僕は軽く頭を下げ、その場を去った。

 あの謎めいた女性には、特に惹かれることもなく、日々の喧騒の中に消えていった。

 

 それから、あの海にもう一度行ったのは、中学一年生の最後のころだった。

 その日の朝、土曜の休日で家族全員が集められた居間で、人生で二度目の引っ越しを告げられた。今回に関しては、この町を離れることに対しての悲しみはなかった。むしろ、以前感じた虚無感を思い起こした。もうすっかり薄れてしまったが。しかし、今回引っ越すために、まさかまたあの山を越えなければならないとは思わなかった。しかし、前住んでいた場所とはかなり離れた場所なので、あの場所に戻るには変わらず遠い。でも、ここには何も思い出がないので、すんなり次の生活に移行できそうだ。なじめるかどうかは別として。でも、この街も、次の街も、人生の何ページかを埋めるものだから、何かアクションは起こさないと損をした気になる。なので、せっかく中学生になったものだから、あの船に乗ってみようと思ったのだ。


「次はー、ショッピングモール前ー、ショッピングモール前ー」

 今日はちょっと贅沢をして、観光周遊バスに乗っている。のんびり、外を眺めることが最近多くなったなあと感じる。

「次はー、ポートアイランド前ー、ポートアイランド前ー」

 そんな日々が、僕には似合っているのかもしれない。いつしか、みんなを引っ張っていたあの日々の“モード”は、その姿を見せなくなっていた。一度気を抜いてしまったら、もう一度スイッチを入れることは難しい。あの日からの『ブランク』は、僕とスイッチとの距離同然、大きくなっている。まあ、僕がスイッチに手を伸ばす気力さえ失っているのかもしれないが。この町も、そこまで悪くはなかったとは思う。特に今から行く海。通学路からはるか先にあるそれを見ていた日々が思い出される。

「ポートアイランド前ー、お降りの方はいらっしゃいませんかー」

「あ、すみませーん、降りまーす」

 僕は慌てて席を立ち、切符を運転手さんに見せてバスを降りた。

 久しぶりにこの海に来た。あまり変わっていない。この町についた時、本当はどんなことを思っているはずだったんだろう。新天地に思いをはせながら、それでも元の場所に帰りたい自分がいて。それも新鮮な気持ちに思えたんだろうな。でも、この町では楽しいことがあって、新しい仲間を作っていけるって、思ってたんだろうな。でも、都会の街に染まった同級生にたじろいでしまって、昔の台本を毎日読んで、ホールで撮った写真を見て、本を読んで。少しも前のことが切り離されない日々を、送っていたんだろうなと思うと、それらがすべて夢物語なのだと残念がってしまう自分がいた。

 潮騒のメモリー、なんて言葉があるが、この海の向こうに求めていた世界もなく、愛すべき仲間もいない。この先にあるのは、遠い異国の街だ。

 でも、唯一残っているのは、家にある写真だ。五年二組のみんなで撮った、ホールでの写真だけは、不鮮明な記憶の代わりに物として残っている。僕は最前列中央で、刀を構えたポーズをしていた。顔は、全くひきつっていない、笑顔だった。その隣では、もう一人のキャプテン役の子が、反対向きに同じポーズをしている。改めてみれば、統一感のない写真だと思う。何枚か写真を撮って、この写真だけ愛着がわくのはなぜだろうか。

 実は今日、家から持ってきている。みんなにもこの海を見せてあげたかったから。

 僕は切符を買って、船に乗った。船にかかっている板の横についている手すりの上にかもめが止まっていたが、すぐに逃げてしまった。僕はすぐに、一番頂上の場所に行き、ベンチに腰かけた。


 船は出航した。港で修学旅行生らしき子供が手を振っていた。僕は手を振り返した。彼らが点に見えるほど遠くなってから、僕は海に向かい直した。物心ついてから、初めて海というものと向かい合って、いつしか見た稲穂よりもっと速い波に感銘を受けた。これが、キャプテンの言う「海」なのだ。

 かなり進んできて、埋め立て地らしい絶海の孤島が見えた。その人工島にはいくつか鉄骨のみの建物があった。どうやら新しい居住スペースを作ろうとしているようだ。人類の進歩を感じながら、また、その島の周りに油がたまっているのを見て、人とは計り知れない生き物だと思った。

「本日はご乗船、真にありがとうございます。今しがた右手に見えてまいりましたのは……」

 後ろのスピーカーから船内放送が流れた。

 港から見えていた大きなクレーンたちは、船の修理、メンテナンスをする場所のものらしい。不意に下を見ると、船の通った後に白波がたっていた。それをたどって海岸線に目を向けると、うっすらと島が見えた。キャプテンたちは、海賊たちは、見つけた何があるかわからない島に冒険しに行くのだ。たいてい、何かわからないようなものには自分からは近づきたくないが、海の男たちはそこに潜むスリルを探しに、かつそのスリルを楽しもうとする。それはどれだけ勇気のいることだろう。

 しかし、すぐ隣を見ると橋が架かっていて、本島とつながってしまっていた。少し、悲しくなった。

 一度船の中にあるソファーに向かった。海風に全く痛んでないようで、ふかふかだった。

 天井の通気口からほのかに潮の香がする。

 普段からのんびりしがちな僕でも、最近では平日の朝に早起きしてこの海を見に来ていた。何か習慣づけたいと思ったからだ。僕の場合は、その環境を利用したルーティーンしか身につかないことが試行錯誤した結果わかっていたので、以前は朝起きて伸びをして早口言葉を唱える、ここでは毎朝早く起きて海を見て一日を始める、という習慣があった。 

 今日は、例外的におやつ時に来てしまったけど。でも、習慣はいつかマンネリ化してしまう。僕ももう少しこの町にいたら、海のにおいを当たり前として考えてしまうのだろうか。

「間もなく、折り返して帰港いたします」と、放送があり、もう一度窓越しではない海を見たくなって、もう一度頂上に登った。

 先ほど座っていたベンチには、一人の女性が腰かけていた。その女性は、僕が知っている人物だった。

「あら、久しぶりね。もう何年経ったかしら」

 南方さんがこちらに微笑みかけてくる。初めて彼女と会ってからかれこれ二年が経つが、変わらず元気そうだ。

「もう二年近くですね。隣いいですか?」

「どうぞ」と、手で隣に「座れ」という合図をした。

「君は前に増して、落ち着いた雰囲気になったよね。もうここの生活には慣れた?」

「まあ、馴染めてないですけど。もう馴染めないものだって、割り切っちゃいました」

「そう。それも人生よ」

 南方さんは自分に言い聞かせるかのように言った。

「実はね、私ここの出身じゃないの。大学休んで、たまにここにきてこうして船に揺られて、自分は何がしたいんだって問いかけてるの。変でしょ?」

「いや、僕も同じようなものですよ。というか、つまりあなたは偶然ここにきて、僕も偶然ここにきて、ってことですか?」

「そういうことになるわね。これも運命よ」

 さっきと同じていで、南方さんはつぶやいた。前から、彼女にはどこか自分と通ずるところがあると思っていた。もしかしたら、彼女になら自分のことを話してみてもいいのかもしれない。

「あの……」

 僕は初めて、赤の他人に全てを話した。

「そうだったんだ。私も今日聞こうと思っていたんだけど、なるほどね。私もニュースで見たけど、やっぱり報道なんて勝手な情報操作に過ぎなかったってことね」

「全く関係のない人に話したのはこれが初めてなんです。どうですか、養護教諭になる前のいい経験になりましたか?」

「ええ、ありがとうね。もう腕は治ったんだね」

「はい、まだまだ完治までは遠いですが」

「体をせかしたら、もっと悪化するからね。それこそのんびり待つんだよ」

「そうですね。頑張りすぎた身体ですから、もう少し休ませてあげます」

 僕はポケットからあの写真を取り出そうとした。すると、海風が僕の背中を押し、同時にその写真を飛ばしてしまった。一瞬心がギュッと縮まった気がした。

 写真は風に飛ばされたが、奇跡的に一番下のフロアの、立ち入り禁止の鎖でふさがれた甲板の上に落ち、ちょうど壁のところに引っ付いていた。

 僕はほっとした。そして、係員の人が甲板に出てきたタイミングを見計らって、呼びかけようとした。しかし、大声を出そうとしても、自信をすっかり失った僕の声は、女子が陰口を言うときの囁き声にも及ばないぐらい小さくかすれ切った声しか出なかった。何度も叫んでみようとしても、結果は同じだった。

「すいませーん!」

 隣で大きな声が聞こえた。南方さんの高くよく通る声は、一回で係員の耳に届いた。

「どうかしましたかー?」

「この子が写真を落としてしまったみたいで、あそこにあるんですけどー」

 係員は後ろを見て、写真を見つけて、拾い上げた。そして、小走りで上がってくるのを見て、僕は二階に下りた。

「どうぞ」

「すみません、気を付けます」

 僕は写真を受け取って、ベンチに戻った。

「すみません。わざわざありがとうございます」

「そういうところも、まだまだってことね」

 南方さんは笑みを浮かべながら言った。


 港についた。もう日は傾いていて、出航前はかもめが飛んでいたのが、カラスに変わっている。着いたときにばらけた油の汚れもまた隅のほうに集まりつつある。

「あ、そういえば、君の引っ越す町、私の大学がある場所からかなり遠いから、もうここで会うのが最後かもね」

「そうですか。連絡先交換なんてできませんが、応援しています。頑張ってください」

「君もね、また縁があったら、どこかで」


 一週間後、僕は海の見える街を引っ越した……と思ったら、引っ越した先にも海があった。この海も、あの海につながっているのだと考えると、やはり僕が見ていた世界は狭かったのかもしれない。


 三つ目の町。ここで僕は、


“本物の自分と向き合い直す”

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