第2話 黄金の剣に手をかけて

 ピピピピピピ……といつも通りの目覚ましの音が鳴って僕は目を覚ます。今日はすんなり起きることができた。日曜日なので一応帰宅部の僕はまだ家にいたが、まだ両親が出張中だったのでもちろん家に人はいなかった。家の中で孤独になると、何歳でも本能的に小さな恐怖感を感じるものだが、今日は一層それが強まっているような気がした。そういえば、今日は頻繁にけたたましいサイレンの音が聞こえる。物騒な世の中だな、と思いながらテレビをつけようとする。しかし、いっこうにつく気配がない。リモコンの電池が切れているのではないかと疑い、主電源を押してみても、電源のランプは灯らないままだ。

 それだけではこの世の変化に気づくことができなかった僕は、諦めて朝ごはんを作り始めた。ビージーエムは数年前のコンクールの課題曲だ。マーチではないものなので、僕の希望は取り消されてできなかったが、この曲は好きな部類に入っていた。よくある構成の、初めが速く途中で遅く、最後に盛り上がって速くなる極めて単純なものだったが、その中身が豊かで僕は好きだ。速いところは自然に足がその拍のリズムを刻んでしまう。そして自分の吹きたかった、わざわざ耳コピしてまで覚えたソロのところは自然と口笛を吹いてしまうのである。完成し、お皿に盛り付け、誰も他にいないリビングのテーブルで手を合わせて、「いただきます」と唱える。そして食す。簡単なものだけで作ったが、普段のコンビニのパンよりは美味しく感じられた。

 そしていろいろ片付け、身支度をし、なんとなく外を歩いてみることにした。

 その時、ようやく僕は二階の自室の窓のカーテンを開けた。

 天気は曇りだった。

 そして、家の前をまた消防車が通ったのが、すりガラス越しにわかった。僕は扉を開けた。

 目の前に広がっていたのは、変わり果てた光景だった。

 街のあちらこちらで炎が見え、さっきは気にならなかった空気の濁りが感じられた。自然と咳が出た。急いでハンカチを口に当て、とりあえず風下に逃げ、ちょうどいい曲がり角で直角に曲がった。その時、スマートフォンがなった。

「もしもし」

「秋村! これは一体どういうことなんだ!」

 電話の主は柿原だった。心なしか震えているように聞こえる。

「僕にもわからない。とりあえず、どこかで合流しよう。避難所の学校の方向はもう行けないから」

 えーと、と周りを見渡し、長年の土地勘を活かして最適な場所を想像する。

「とりあえず、駅前に!」

「了解。死ぬなよ!」

 電話が切れると、続いて電話がかかってきた。親かと思ったら、まいちゃんだった。

「秋村先輩、無事ですかー?」

「大丈夫、そっちは?」

「いま駅前で避難してるので大丈夫です」

「駅か。僕たちもそっちに向かっているから。今どんな状況?」

「あんまり人はいないです。いる人は私と同じように電話してます」

「そうか、ありがとう。とりあえずそっちに向かう」

 電話を切ると、僕は一目散に駅の方に向かって走り出した。

 この時、自分に明日があるなんて思えなかった。すぐ横で助けてと呼ぶ声が聞こえて立ち止まり、声の主の方へ向かおうとしても、一歩踏み出したと同時に落ちてくる瓦礫にその声はかき消される。次は自分だ、とネガティブな自分は考えてしまう。それが自分のためにならないと思っていても、思考は止まらなかった。危機的状況だからこそ、自分の一番素の部分が出てしまうのだ。

 僕は悔しさ混じりに目線を前に戻し、走り出した。

 明日上がる幕がどれほど重いものだろうと、それを軽々と持ち上げるほどの余裕を持ち合わせていないこの無能な人間を、殴る勇気すら僕にはなかった。


     *** 


 駅につくと、まいちゃんから聞いた通り駅にいるのは家族連れ一組と、カップル一組という、この辺りの人口を考えると、どう見ても少ない人数だった。もし、この街のみんなが、僕の親と同じように旅行に出かけていたとしたら……という発想は僕にはなかった。そんな非現実的なことを考えている暇はなかった。何より、その二組は全くあの火事に気づいていない様子だったのが引っかかる。辺りをきょろきょろしていると、まいちゃんを見つけた。もう柿原とは合流していたようだった。

「なあ、これやっぱりなにかおかしくないか?」

「ああ、あまりにも人が少なすぎる。俺の親はちょうど出張が入って今日から東京に行くんだっていって朝からいなかったからよかったけど、みんながみんなそこに行くわけじゃないし……」

 柿原も同じ違和感を感じてくれていて助かった。しかし、僕は違和感の共有程度で安心しきれなかった。周りには数人、それ以外は全くの気配もなく、電車はまるでここに何もないかのように通過を続けている。先ほど全速力で走ったおかげで、まだ火は遠くの方で見えている。焦る必要はないが、電車もだめ、車もだめ、自転車もだめで、走って逃げることしか道が残されていない。でも、どこへ?

「秋村先輩、どうしましょう」

 まいちゃんが震えるような声でこちらに話しかけてきた。

「大丈夫、落ち着けばなんとでもなるよ」

「でも、もう逃げる道なんてないですよ」

「なんで? まだまだ道は……」

 見てください、と辺りを手で示すと、まだここには到達していないものの、すで

 に火は三方から迫ってきているのが煙の位置からわかった。

「もう……わたしたちはぁっ…………」とまいちゃんが嗚咽を漏らしながら顔を手で覆った。柿原も、普段とは全く違った様子で、今の彼の言葉はどんな大きな的も射得ないだろう。

 どうする、この状況。新田義貞に攻められた北条氏の気持ちがよくわかった気がした。でも、その時三方を囲む山と、一方に望む海。危険があろうと、もうそれ以外の選択肢はなかった。

 鎌倉を新田義貞が陥落させた際、こういう話があったという。鎌倉の北方に陣を構えていた新田義貞率いる倒幕軍は、鎌倉に入る際、七つの切通のうちの三つを攻め落とそうと企てて、そのうちの極楽坂を攻めようとしたとき、敵が強いという情報を得ていた新田は、極楽坂攻略を諦めて、その南の海岸沿いにある稲村ヶ崎から鎌倉に侵入しようとした。しかし、もちろん海には鎌倉軍が構えており、弓矢で一網打尽されること間違いなし。なので、新田は潮が引くことを願って金の刀を海に投じたところ、みるみる潮は引いていき、由比ヶ浜にたどり着くことができ、鎌倉入りを遂げたと言われている。

 僕には切通を破る力はないからこそ、大いなる海に金の剣を振り下ろすのだ。

「必ず生き延びよう」

「生き延びるも何も、まさか火の中を通っていくんじゃないでしょうね!」

 落ち着きをなくしたまいちゃんが激昂した。柿原がなんとかなだめて、議論は再開した。

「今から駅の改札内に侵入して、そこらに広がっている線路を渡ってなるべく遠くに行く。こんな状況で列車は通常通り運行している。そして普通列車すらここに止まらない。今なら多分、何をしても許される気がする。あまりにも今のこの街は不可思議すぎる」

「確かに。でも、怖い……」

「まいちゃん。ここはもう何もかもがおかしいんだ。だから一回秋村に賭けてみよう。ここで待ってても死ぬ。だからさ、頑張ってみよ?」

 まいちゃんは黙って頷き、普段では考えられないぐらい強引に涙を拭って、力強くこちらを向いた。その姿があまりにも子供っぽくて、笑ってしまった。

「よし、行くぞ」


 僕たちは改札の横の通路を通って構内に侵入した。案の定駅員はおらず、駅の中はもぬけの殻だった。しかし、駅に流れる機会音声は通常通りで、ちょうど両方の電車が来るまでに五分の猶予があった。なので、僕たちは駅のホームから飛び降りて線路を渡り、向かいのホームに到達した。そして、そこの作の破れている部分を見つけ、慎重に外に出た。途中、

「あっ、靴が……」と柿原の片方の靴が脱げたが、電車が来そうだったので仕方無しに片足だけ靴を履いた形で外に出た。そして持っていたカバンの中から新聞紙を取り出し、一瞬で簡易式のスリッパを作り上げ、それを履いた。なぜカバンの中に新聞紙が入っていたのか、また、そのサバイバル能力の高さに注目する時間はなかったので、助かってから聞くことにした。

 とりあえず川辺までたどり着いた。ここを渡れば助かる。でも橋は遥か遠くにあり、偶然にも一週間前にあった災害級の大雨のせいで川の水かさはとても高かった。後ろにはもう炎が駅を包み込んでいた。にも関わらず、橋の向こう側に見える鉄橋にはその駅に向かって走っていく電車が見えた。やはり今僕たちのいる世界は、何か狂っている。もしくは、この世界は夢なのか。いや、それにしては感覚がはっきりしすぎている。大抵の夢の中では、自分は本能のままに動くか、周りに流されていくかのどちらかであるから、自分の考えで二人が動いているこの状況は現実であると捉えていいだろう。要するに、今の世界は現実であり、非日常な状況である、ということなのだろう。今はそう考えるしかできなかった。

「少し……休憩しないか……」と柿原が息を切らしながらその場に座り込んだ。すでにまいちゃんは座り込んで、カバンの中から出したお茶をごくごく喉を鳴らしながら飲んでいた。

「そうだな。少し腰を下ろそうか」


「私達は、夢を見ているのでしょうか」

 唐突に俯きながら、まいちゃんがつぶやいた。

「たしかに。周りの人たちはまるで後ろで起こっている大火災に気づいていないかのようだし、何より俺たちに興味がないみたいだよな。普通死に物狂いで逃げている人を見つけたら、いくら日本人がシャイだからとはいえ、不審な目で遠くからひそひそ誰かと話をするだろう」

「まるで、僕らがここにいないかのようにね」

 柿原はこちらを向き、まいちゃんはビクッとした。

「僕らがおかしくなったのか、周りの人がおかしくなったのか、燃える炎がおかしくなったのか。多分、正解は世界だ」

「つまり、私達以外ってことですか?」

「そう、まるで小説の中にいるような、そんな気分なんだ。全く違う世界に、僕らは置かれている。僕ら三人だけ、だ」

「正確には、あの火もそうだろうがな」

「まるで、写真の中に写った三人だけが不老不死で、周りの環境だけ百年たったみたいですけど、そんなことあるんですか?」

「百年たった、とかではないと思う。あそこで犬の散歩をしている人の服は普段の僕らの服装と何も変わらないし、あそこで座っている人の触っているものはスマートフォンだし。しかも、ここは二週間前に両親と来たときから何も変わっていない」

 そう考えると、僕の中で出た答えは一つだった。

「ありきたりな話だけど、おそらくここは並行世界、パラレルワールドだ」

「でも、そんなオカルトじみた話、ありえないですよ」

 まいちゃんはまだ信じ切っていない様子だった。

「こんな状況を見てありえないなんて言えるのかい」と、柿原が目の前を指さした。そこには僕たちの影が……なかった。もちろん、今は遠くで入道雲が見えるが、太陽は街を照らしている。

「……嘘……影がないって…‥」

「しかも、こんなにギラギラと太陽が照らしているのに汗一つ流れない。疲れは感じるが」

「たしかに。これは科学とかじゃ証明できない。でも、パラレルワールドはもう一つの世界線。ここまで原理が違うなんて……」

「だから、パラレルワールドではないのかもな。俺は全く違う世界線、科学で説明しきれない領域だと思う」

「僕らだけが切り取られた世界。その他の世界は、全く違う論理で成り立っている。そう信じるしかないだろうね」

 まいちゃんは驚きながらも、なにか考えている様子だった。柿原はまだ周りの人々を観察している。僕にできることは。

 後ろを見ると、火は駅に隣接するマンションを全焼させようとしていた。

 もはやこの状況を違和感として捉える価値観だけは捨てた。

「あの、一つ考えがあるんですけど、聞き流してくださってもいいから、話してみていいですか?」

「いいよ。聞き流すけど」柿原はどこか一点を見つめているようだった。

「僕は聞いとくよ。自分でも何をしたらいいかわからないし」

「秋村先輩...…いや、めんどくさいので秋村さんでいいですか?簡単な漢字の、小説家ではない方の秋村さんで」

「ああ、この際どっちでもいいよ、呼びやすい方で」

  まいちゃんはちょっと息を吸って話を始めた。


  その話は、僕の想像していたもう一つの仮説に等しかった。

「だよね。確かにそう思ったんだけど、まだ確信を持つには早すぎる。だから、とりあえずあそこの橋まで行ってみない?橋さえ渡れば時間は稼げるし、行動を起こした方が効率的だ」

「はい!柿原さんもそうしましょう!」

「え?あ、うん、そうだね」と曖昧な返事をした後、少し間をおいて「話聞いてなかったんだけどね」と舌を出した。柿原もおかしくなったのか、はたまたこれが柿原の本性なのか。思い切りアツく叫んでいた文化祭の時のやつともまた、かけ離れた存在だと思った。僕はまいちゃんの手を取り立たせてあげた。先ほどまで泣いていたせいか、少し酸欠気味のようだ。

「まいちゃん、俺たちが交代でおぶってやるよ」

  柿原は親指を自分の胸に立てた。そして、もう片方の手の人差し指を僕の方に指した。

「そ、それは恥ずかしすぎます。私は一人で歩けますから」

「でもまいちゃん、酸欠気味だろ?」

  柿原も気づいていたようだ。別に同世代の華奢な女の子を背負うことは、何も問題がないわけではない。だけど、頑なに拒否するまいちゃんに、どう説得すれば良いだろうか。

「まいちゃん、じゃあこの話を聞いてくれ。俺はさっきまであそこにいるおじさんのことを観察していた。変な意味じゃないけどな。それだけは念押ししておく。あそこおじさんは人間観察が趣味なんだろうか、ずっといろんな人を見ている。俺たちの後ろにいる、あのカップルとかもね。でも、俺たちとは目が合わなかった。おそらくあの人の目には俺たちが映ってないんだろう。だから試すんだ。高校生男子が同じくらいの歳の女の子を背負って、全力疾走する。他の人にも俺たちが見えていないのだとすれば、そんなおかしな状況をちらりとでも見ないわけがないだろう? まいちゃん、俺たちはそれぐらい体力が有り余っている。ここは任せてくれないか」

「柿原の今の言葉は、力がある。もうこいつは大丈夫だから、ほら、背中に乗って」

  柿原にリュックを渡して、僕はまいちゃんに背中を向けた。

「……わかりました。でも私、重いですよ?」と、まいちゃんは僕に体を預けた。やはり、軽かった。

「重くないですか?」

「重くないよ。さっきまで背負ってたリュックより軽い」

  ふふっ、とまいちゃんは笑って、力強く肩に手を回した。僕らは橋に向かって歩き出した。

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