弐 夢遊
第1話 ホラ吹きとしか
「あのさ秋村、一回軽音楽の楽器にも触ってみないか?」
柿原がそう言い始めたのは、僕が軽音部に関わり始めてからおよそ一週間たった頃だった。
僕はあの日から、二人と組んで音楽に関わることになった。一度は逃げた音楽、絶対に許してはくれないだろう。でもどこかに、もう時効が来ているのではないかと考える楽観的な自分がいた。何年も前のことを今更掘り返しているなんて、小さい男だなと思う。でも、過去を捨てきれないのが人間の性でもある。結局、あの時自分が何にも負けない強い心を持っていれば、今も自分の手には当然かのようにトランペットがあったはずだ。自分の挫折の原因は未だにわからない。でも、トランペットがそれではないことだけは確かだ。
そんな僕が、吹奏楽以外の楽器に触れてみるのはいい経験になるかもしれない。
「やってみてもいいけど……本当に触ったこともないよ?」
「いいんだよ。多分まいちゃんとどっこいどっこいだから」
「なんですか−?」と、机を挟んだところで楽器にチューニングをしながらまいちゃんが笑いながら睨んできた。
「柿原さーん? 怖いよこの子」
「まあまあ、事実なんだからそう言い返せないから」
「そんなに露骨にできないことを言わないでくれます? けなされているようにしか感じないんですけど」
「違うよ。からかっているだけ」
まいちゃんは不満げに、僕の隣の柿原の顔を見た。柿原は大声を上げて笑った。まいちゃんは諦めた様子でギターに目線を戻した。
「で、楽器の話なんだけど」
「あの、まいちゃんはもういいの?」
「あー大丈夫。今日は自分でできる練習を課しておいたから。流石にあの練習もできないようでは、ねぇ」
前方で殺気を感じたので僕は話を急ぐことにした。
「あのさあのさ、楽器は何をするんだ?」
「ああ、楽器だな。アコースティックギター、エレキギター、ベース、キーボード、ドラムが主流だな。あとはそのバンドの特性や、楽曲ごとで編成が変わる」
「もしかして、トランペットもあったりするのか?」
「もちろん。ジャズバンドだったらトランペットでもトロンボーンでもサックスでも。ジャズナンバーだったら、お前も吹いたことがあるんじゃないのか?」
「そういえば、そのときだけコントラバスの人がエレキベースを持ってきていたような」
「そうそう。で、何がしたい?」
一番簡単な楽器はどれだろうか。やはり、叩けば音が出るドラムなのか。それとも何となくでギターも引けるのだろうか。しかし、指の動かし方には自信がない。
僕はドラムを選んだ。柿原は空いているドラムのセットを借りて、そこに僕を呼び込んだ。
「じゃあ、早速やってみるか。ここに座って。で、スティックを持って」
僕はスティックを渡された。持つのは吹奏楽部に入部したときにオーデいション以来だ。
「あ、違う」と、柿原が得意げに言った。
「何が違うんだ? やっぱり僕にはドラムが似合わないとか」
「そうじゃなくて、持ち方」
ほら、ともう一セットのスティックで柿原が持ち方を示した。
「えーと、こうか?」
「違う違う。左手はこうで……」
僕は柿原に教えてもらったが、正しい持ち方ができる気配はなかった。
「もういいや。そのまま叩いてみて」
「何を?」
「えーと……まあ、フィーリングだ」
「フィーリングって」
悩みながら僕は何となく『シング・シング・シング』を脳内で流しながら叩いてみた。
もちろん、すぐに手がぐちゃぐちゃになってだめになった。
「おっと、これはまいちゃんレベルか?」
遠くの方で先程より増した殺気を感じた。もはやそれはオーラとして出ているかのようだった。
「地獄耳だな」
「吹奏楽やっていた人間はたいていそうだよ。全員で指揮者のタクトを見てリズムを合わせて、同時に他の人の音を聞いて和音を合わせなきゃいけないからな」
「え、でもまいちゃんって打楽器だよな」
「打楽器パートも、他の管楽器みたいに息を吸ったり、管楽器のソロにリズムを合わせたりしなくちゃいけないからな」
「へぇ、吹奏楽って深いんだな」
「そう、極めれば極めるほど楽しくなる」
僕は自分から進んで吹奏楽のことについて説明している自分が少し気持ち悪くなってしまった。こんなことを語る資格はないはずなのに。
「そうか。まあ軽音も同じようなもんだ。俺もここに入っていろんな楽器を触れて楽しかったし、それらを知っていくに連れて好奇心がより多く湧いてきた」
「そういえばお前ってさ、ここに来るまでに楽器経験ってあったんだっけ」
「少し昔話をするか。俺はこの学校に入って初めてバンドを知った」
「えー、ホントですか?」
いつの間にかまいちゃんが柿原の背後に立っていた。
「まいちゃん、練習は?」
「ちょっとしたら戻るんで、休憩です」
休憩と言っても、さっきからまだ三十分しかたっていない。それでも、親指を立ててニコッとしているまいちゃんを止める権限は僕にはないし、隣の柿原も諦めているようなので、放っておくことにした。
「で、バンドを初めて知ったってどういうことだ?」
「俺は高校生になって新しいクラスメイトと話していて、初めてバンドを知ったんだ。小学生の頃はあまりテレビも新聞も見なかったし、あまり外にも出ていなかったからね。でも高校生に上がるときに、父親からなにか新しいことを始めることを勧められて。何なら初めて知ったものをやってみるのも面白いんじゃないかって、こういうことになったわけ」
「じゃあ小中学生の頃は何をして過ごしていたんですか?」
「小学校の休み時間は同級生と外で遊んだり先生のお手伝いをしたりと、他のことは変わらないことをしていた。中学に上がったら本を読んでいることが多くなったし、小学生の頃から本は好きだったからね。放課後は小学生の頃からずっと読書をしていた。九年間でだいたい千冊は読んだとは思う」
「そんなに読んでいると、いつか飽きたり新しい魅力的な作品に出会わなくなるんじゃない?」
「いや、本はその種類の分だけストーリーがあるし、それ以上の登場人物がいる。もちろん、それらの全部に固有性があるとは限らない。同じような境遇や性格のやつもいる。でも、たくさん読んだからこそ、それらを頭の中で関連付けたり同じものをグループ化することによって、よりその作品が面白くなるんだよ」
柿原は熱く語りだした。
「ちょっと待って。今お前の話をしているからその話は帰り道とか教室でしよう」
「わかったけど、もうあとは話すことはないけど……」
「そこからは俺が話そう」
いつの間にかいた九条さんが、さもヒーロー番組の途中に出てくる説明役のような口調で話に入ってきた。
「わああ部長! すみません練習してきますからどうか……」
「まあいい。代わりに後でみっちり練習するからな」
まいちゃんは焦ったりしゅんとしたり、九条さんが来た瞬間に忙しなくなった。もしかしたらこの人は怒らせると相当怖いのかもしれない。普段笑っている人は、たいてい怒らせると豹変するのが定石だ。
「こいつは入ってきた時、本当に何も知らなかった。あのビートルズでさえ知らなかったんだ。本をたくさん読んでいると聞いてはいたが、一度もバンドを主とした作品もバンドの名前が出てくる作品を読んでいないとは。流石に驚いた。でも初めてギターを触らせた時、なにか才能があるような気がしたんだ。そこで半年間、同じチームに入れて練習を見ていたら、あれ程の実力になったんだ」
僕は頭の中で、ステージの上でギターを弾きながら歌う彼の姿を思い出した。
「文化祭が終わってからこいつはとにかく歌を極めて、たくさんの舞台に呼ばれた。それで今年、まいちゃんが入ってきて指導係に任命したってわけ。俺が弥生に色々教えているうちに、自分の演奏についても考えさせられていたからな。きっといい経験になると思って頼んだんだ」
そして、九条さんは僕の方を見て「だから君もこの経験は何かにつながるから。こいつら二人とも面白いし」と肩を叩いた。
「頑張れ」
「あ、ありがとうございます」
「さあ、練習再開だな」と、九条さんは不服そうな顔をしたまいちゃんを半ば強引に連れて行った。
「じゃ、俺達もやるか。次はギターに触ってみるか?」
「いや、やめとく。僕は昔から指が不器用なんだ。それに、まだ音楽に許されていないような気がして」
「音楽に許されるってどういうことだ?」
「え? いや、それは……」
すると柿原は僕の腕を引っ張って、「すぐに言えないならそれはそんなに重要じゃないってことだ。過去に囚われているままじゃ、成長はない。成長する気がなくても、ここで俺がお前に音楽の楽しさをもう一度感じさせることができたら、俺の成長につながる。だからとりあえずついて来い!」
本当はそういう理由じゃないと思ったが、それはそれで筋の通った話だったので反論の余地はなく、僕は柿原に連れて行かれるまま自分たちのテーブルに戻った。テーブルの前まで来ると柿原はすばやくギターを手に取り、僕にトランペットを取るよう促した。僕はトランペットのケースを持って、もう先に行っている柿原に小走りで追いつくと、そこは例の隠し扉の場所だった。
「ひらけ、ごま! オープン・ザ・セサミ!」
僕は少しふざけて手を扉の方にかざした。しかし、
「何言ってるんだ。早く行くぞ」と、柿原はいつもより手際よくドアを開けた。もちろん、開け方も解読できなかった。今の柿原にはなぜか冗談が通じなかった。先程までのノリの良さは全くなかった。とはいえ普段の僕に対する受け答えとも異なった。
「もしかして、音楽についてあんなこと言ったから怒ってる?」
「いや、よくわからない。でもその言葉に一瞬カチンときたことは確かだ」と、カチンという言葉と同時にドアは閉められた。言うまでもなくそこは視聴覚教室だ。
「ごめん。僕もずっと音楽から逃げたことに勝手に執着して、悪いとは思っている。でも、今の僕の中で音楽は足かせにしかなっていない。本当は続けたいと思ってた。僕は一度も音楽に裏切られたことがないのに、僕は音楽を裏切り、その結果大切な人を傷つけた。こんな僕を音楽が許してくれると思うか?」
僕は勝手に体から出てきた思いを柿原にぶつけた。
「許してもらうには、謝らなければならない。それは何においても同じことだ。でもいきなり謝るのは難しいし失敗してしまったらという恐れもある。だから予行演習をするんだ。とりあえずお前の知ってる曲を教えてみろ」
「えーと……でもロックとかだよね」
「何でも言ってみろ。多分知ってるから」
「え? じゃあ『マードックからの最後の手紙』とか知ってる?」
僕は吹奏楽の曲では王道とも言える曲名を言ってみた。樽屋雅徳さん作曲の、映画『タイタニック』で有名なタイタニック号に乗っていた一人のクルーについての曲だ。
「……もう少しメジャーなのを。あと歌詞があるやつがいい」
「そんなこと言われても、合唱曲のビリーブぐらいしか」
「オッケー」
柿原はすぐにギターのチューニングを始めた。ものの十秒で終わり、弾き始めた。
それはまさに僕のよく知るビリーブだったのだが、彼なりのアレンジがなされているようだった。前奏が終わると、彼は歌い始めた。
「例えば君が傷ついて、挫けそうになったときは」
僕はこの歌が好きだった。昔は何もわからずにただ歌っていたのだが、中学に入ってから改めて歌詞をよく見るとその深さを痛感した。一見誰かに対するエールの曲と思えるが、これを歌っている人が自分自身に聞かせているかのようにも感じられる。つまり、自分を励ますためにもこの曲が存在していると思ったのだ。
一番が終わって間奏が始まると「次はお前の番だ。歌ってみろ」と顔で柿原がいつの間にか机の上に置いたマイクを指した。僕は仕方なくマイクを持った。
「もしも誰かが君のそばで、泣き出しそうになったときは」
「黙って腕を取りながら、一緒に歩いてくれるよね」
柿原と自然なメロディーの受け渡しが起こった。これこそ音楽の楽しさだ。他人と自分が調和して美しい音楽を織りなす。それも決められたものにただ従うのではない。範疇でどれほど楽しめるかにかかっている。一種のエンターテイメントでもある音楽は、演奏者が楽しくなければ、聞き手は素晴らしいと思うことがあっても楽しいとは思えない。ある意味それは感情が載せられていないものであり、中途半端である。でもここにあるものは即興でできたものなのにそれなりに成り立っていた。柿原の技量に改めて感心した。
二番のサビが終わり、最後のサビを歌おうとしたら、柿原が別のメロディーを弾き始めた。でも、それは聞いた人のほとんどがビリーブと答えるであろうものだった。
「トランペット出して。この間奏が終わる前に」
「わ、わかった」
僕は言われるがままに楽器を手早く出した。最近は定期的にオイルを指しているおかげでピストンもちゃんと動くようになっていた。
(ラスサビ行くぞ)と、目で合図が送られてきた。
僕はうなずき、演奏を初めた。ユニゾンで前半部分を演奏し、後半からはハモリで演奏をした。ギターとトランペットという、自分の中では関係ないと思っていた楽器同士が、ここまで合わせられるなんて。少なくとも、僕はこの瞬間を楽しいと思えた。
***
「よし、どうだった? 音楽は許してくれたか?」
柿原は少し息切れしながら問いかけてきた。
「それはわからないけど……楽しかったよ」
「そうか、それで何よりだ。ちょっと外見てみ」
「外って……うわっ、何この人数」
「ここはいつもの場所や音楽室とは違い、完全防音じゃないんだ。だから、今のクオリティなら廊下を通る人を立ち止まらせる」
「あんなにギャラリーがいるとは」
柿原は立ち上がって、教室のドアを開けた。
「君すごい演奏するんだね。感動しちゃった。あの、君吹奏楽部に入らない? 絶対強力な戦力になるよ」
クラスメイトで、話したこともない女子が近づいてきた。
「どう?」
「いや、吹奏楽はもうやめたんで。ちょっと遠慮させてほしいです」
「ですって、同い年なんだから敬語は使わなくていいから。まあ、気が向いたら来てね。えーと……」
「秋村皐月」
「秋村くん。これからよろしくね」
吹部の子は手を差し伸べてきた。
「あ、うん。よろしく」
僕は恐る恐るその手を握った。触れた瞬間に彼女は力強く握ってきた。
「じゃあね。頑張って」
そして、彼女は帰っていった。その他の人もそれに続いた。
「どうだ? 音楽は」
柿原は笑いかけてきた。
「ああ、楽しいな」
僕は嘘をついた。仕方なかった。今の自分にはやはり音楽は、つらいものでしかなかった。でも演奏している間には無心になれただけ、成長したのかなと思った。
***
「へぇー、そんなことがあったんですか。私もそこにいたかったです」
その日の帰り道、今日は夕日は雲に隠れてしまって、いつもより赤くない空だったが、それでも落ち着いた。人間が一番受容する光の色は赤らしい。確かに直射日光を見なければ、心地よい赤だ。というより、オレンジ。
「まいちゃんの方の練習は?」
「もう部長の練習本当にきついですよ。先輩よくあんなのに耐えられましたね」
「まあ、ポテンシャルの差かな」
「もー!」
まいちゃんは牛の鳴き声のように不満をあらわにした。
「でも、そんなに楽しかったんならいいじゃないんですか? これからもっと慣れていきましょう。私も頑張るんで」
「そうだね。僕ももう少し頻繁に触ってみようかな」
僕は演奏が終わってから嘘しかついていない。本当はまだ音楽が怖い。そもそも怖かったものを劇的に克服するなんてことはありえないのだ。いい話に落ち着きそうだから、なんとなく合わせているだけ。
どうしても、拒絶してしまう。
そんな自分も、僕は嫌いだったし、恐れていた。
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