第4話 半端者の舟歌

 その日の帰り、相変わらず赤い夕日に照らされて僕らは帰った。相変わらず、僕の脇に抱えたカバンは息をしているし、彼の足取りは軽く、彼女のリュックは上下していた。少し違うのが、僕の背中に背負っているのが、今日はリュックではなくトランペットであることだ。心なしか、朝より軽く感じられる。それは長年溜め込んできた重たい空気が抜けたからなのか、もしくは自分の中に知らぬ間に溜まっていたフラストレーションが解消されたからなのか。今はそんなことはどうでも良かった。とにかく今日は、小説のネタが思い浮かんでくるのだ。早く帰って執筆活動をしたい。そう思うと自然と体が軽くなる。

「本当に感動すると、なんにも言えなくなるんですね」

「そういうもんさ。何であれ、作品に心をつかまれた瞬間、もうそれの虜さ。少なくとも、秋村にはそちらのほうが才能がある」

「ふん。勝手に言っとけ。今日小説のネタが山ほど思いつくんだ。次の作品こそは」

「数打ったら当たるってわけでもないですけどね」

「まいちゃん、毒舌キャラだったっけ」

 まいちゃんははてなマークを浮かべてこちらを見た。それがあまりにもおかしくて笑ってしまった。

「私もなぜか、よくわからない曲を口ずさみたい気分です」

 そう言って、まいちゃんはハミングを始めた。落ち着いた曲調で、お母さんが赤ん坊に聞かせる子守唄のようだった。また、それはのどかな田園風景を思わせるもので、僕は自分の行ったことのない、思い出の故郷に無性に帰りたくなった。その故郷には、今のような夕日が差し込んでいるのだろうか。

 ハミングを終えると、

「これ、オリジナルですよ? 今思いついた曲です。すぐ忘れちゃうんですけどね」と笑った。しかし、その思いつきの音楽でさえ、僕は彼女に思考回路を持って行かれ、脳内スクリーンに映像を投影されたのだ。

 たしかに秋村が認める才能だ。自分なんかとは全く違う。


 いくら期待されても応えられないのならそれは評価で止まってしまう。

 その以前吹奏楽に対して感じた焦りは小説を書き進めるうちにも頭の中でちらつき、山ほどあった小説のネタを一つに絞らせてそれしかないものだと思わせた。他にもいくらでも比較対象はあるのに、それらを飛躍してそれが絶対的なものだと、一種の信仰かのように心にへばりついた。大抵、そのようなネタは空回りに終わる。今回のものだって例外ではないはずなのに、思いついた瞬間にはわけの分からない自信がそれを助ける。でも、その時々の感情に身を委ねなければ生きていけないのだ。確実な信念をいつの日か失い、黄昏の中を放浪するだけになってしまったからだ。

 吹奏楽から逃げたとは思っていないが、後悔はあった。あのまま自分が続けていれば、今頃強豪校で疲れながらも楽しい音楽を奏で続けられたのかもしれない。小説を書いても、今は中途半端なものしか作れないのだから。時間の無駄だとも思った。

 僕はとりあえず、今の物語を形にすることを考えていればいい。そう言い聞かせて、僕は真っ赤な道を歩いていた。柿原と別れ、まいちゃんと二人になったが、特に目立った会話も行動もなく、各々の帰路についた。


      ***


 夜。真っ暗な世界が辺りを包み込んで、窓の外では街灯の明かりがぽつぽつと規則正しく並んでいるだけだった。そして人の帰る家に、さも当然かのようについていた電気はほぼついていなかった。自分の部屋にだけ蛍光灯の明かりがついているのは、自分にスポットライトが当てられているようにも思える。もし、自分がもう一度軽音楽の舞台で、みんなの前で激しくドラムを叩けたら。そう思っても、今日も相変わらずたたけなかったときの恐怖感がその理想をどこかへかっさらっていき、自分の道が全く見えない虚無感にとらわれるだけだ。

 舞は本を読んでいた。秋村の書いた本だ。自分の習うべき相手として、どのような価値観の持ち主かを知っておく必要があったからだ。それと、単純に誰かの描いた作品を読んでみたかったというのもある。内容は今のところ面白い。でも、所々におざなりになっている部分があるのは惜しい。

 そんなことを思いながら二周目を読み切った。そしてふと窓の外を見上げると、不意に彼に電話したくなったきた。今日交換したばかりで、挨拶もまだだったのでちょうどよかった。プルルルル……と三回なってから彼女は電話に出た。

「もしもし、どうかした?」

「夜分遅くにすみません。交換したのにまだ何もしてないなって思って、かけてみました。もう寝てましたか?」

「いや、新しい小説書いてたから、別に暇っちゃ暇だよ」

「そうですか。ならよかったです」

「それだけ?」

「あ、あの。月見えますか?」

「月?」

 秋村はデスクの上にペンを置き、立ち上がって窓の前まで行った。たしかにそこからは真ん丸な月が見える。しかし、今日は中秋の名月というわけでもないので、特別には思えなかった。

「見えるけど」

「今日の月って、宇宙感じません?」

「は、宇宙?」

「はい、宇宙です。なんか、こう、宇宙って感じです」

 意味がわからない。自分の素性を見抜かれた時や、公園に行ったときにはあまり感じなかったが、やはり柿原の言うとおり、まいちゃんは天然なのかもしれない。というより、独特の感性を持っているのかもしれない。でも『宇宙を感じる』と言われたらそんな何の変哲もない月でさえ、普段より輝いて見えるのはなぜだろう。一種のプラセボなのかもしれない。

「……たしかに感じるかもね、宇宙」

「はい」

 少しの間、沈黙が流れた。それに気まずくなったのか、まいちゃんが「そ、それだけです。すいません!」と言って電話を切った。


 僕はそれからしばらく、デスクに戻らずに窓から月を眺めていた。宇宙か。最近の現実的な世界に慣れすぎたのか、その言葉でさえ架空のもののように感じられる。太陽の光に照らされて他の星に負けずに大きく光っている。そして、月は地球の周りを回っている。そう思うと、月は宇宙という壮大な言葉で表現しきれないと感じられた。月というたった半径千七百キロメートルの球に、永遠に続く宇宙を表現することはできない。

 それでも僕は、今日の月に宇宙を感じずにはいられなかった。本当にその場に収まっているのかどうかを疑うほどの広大さを。するとまた新しいアイデアが思い浮かんだ。そしてそれは相変わらず、今のものよりもずっとよく思える。

 僕はメガネを外して机の上に置いた。ふと気づいてレンズを見るとかなり汚れていたので、服の袖を使って拭いた。でも結局汚いから階段を降りて、洗面所まで行って水で洗う。ついでに歯を磨く。そして、ティッシュペーパーでポンポンと押し拭きしながら階段を登った。そして、同じ場所にそれを置いた。この動作も無駄だ。

 すでにパジャマに着替えていたのであとは寝るだけだったのだが、そんな気分にもなれなかった。両親は出張で一週間家をあけているので、夜ふかしする息子を怒る人は誰もいない。僕はもう少し月を眺めてみることにした。まいちゃんの感じる『宇宙』を味わえるまで。

 もう一度カーテンと窓を開けて空を見た。メガネを外しているので、月の形はくっきり見えない。メガネを取りに行こうかとも考えたが、一度ぼやけた月を見るともうそれはただの月としか思えなくなってしまっていた。

 電気を消して、布団に潜って今日を振り返る。

 でもそこでも、やはり、無駄なことしか思いつかなかった。

 だから僕は、いつまでたっても半端者なんだ。


 舞は携帯電話を布団に放り投げて、それに続くように自分も飛び込んだ。もちろん、敷布団なのでベッド程の包容力はないし、そのまま眠るようなこともない。ちょっと痛い。たまにこのように思い切った行動をしたくなる。自分がずっと他人に甘やかされて、守られて生きてきたからなのだろう。私はもっと、小学生の頃みたいに思いっきり遊んでいたかった。しかし中学受験をするために、私の「遊び」は小学校五年生で止まった。夏、周りのみんなが外で遊んでいる中、私はクーラーの効いた部屋の中で勉強していた。そして夏休みが終わってからのプールの時間で、自分だけ水着の形の日焼けがないのが悲しかった。でも今はそんなことどうだっていい。今が楽しかったらいいと、思えるようになったからだ。中学受験に失敗し、地元の公立の中学校に進学してから、吹奏楽を始めた。日々の中の「勉強」という空白を埋めたかったのだろう。

 あのことがあるまでは、楽しかった。私がコンクールでミスをするまでは。自信がある間は思いっきり叩けていたスネアドラムは、もうリムショットの音すら鳴らせない。何かを追いかけている間は楽しかったものの、何もすることがないとぽっかりと心に穴が空いたようだ。あれほど休暇を求めていたのに、皮肉な話だ。今は新しく軽音楽を始めたが、初めてだから慣れるのに必死で楽しむ余裕もない。でも、成長して自由にできるようになったらどれほど楽しいだろうか。初めてだからこそ、その楽しみを想像できるからこそ頑張れるのだと、ポジティブに考えるようにいつの間にかなっていた。それもまた、成長なのだろう。

 でも、私は今日無性に昔のことを思い出したくなる。流石にこれは、どんな人生を歩んできた人でもあるのではないか。私はずいぶん前に、今を楽しもうって決心したはずなのに。

 だから私は、いつまでたっても半端者なんだ。


     ******


「じゃあねー、早希」

「また明日ねー」

「うん、また明日!」

 一人の少女は友達と別れて、自転車にまたがって自宅へ漕ぎ出した。

 自転車は楽しい。乗っている間に感じる風は心地良いし、この時期になると特にいい。少し暑くなってきたから、自分とは逆向きに進んでいく空気の流れが涼しく感じる。そんなことを考える、五月晴れの夕方。私は信号を待っていた。

 彼は今も元気にしているだろうか。私が引っ越してから吹奏楽はやめてしまったらしいけど、他に代わるものが見つかったのかな。

 私は今の地域に引っ越してから、吹奏楽部にまた入った。でも大黒秦島とは違ってレベルが低く、週に三回しか活動しないという同好会みたいな部活だ。もちろんそれでいい結果を残せるわけがなく、コンクールは県大会銀賞止まりだった。でも、彼らは彼らなりに楽しんでいるようで少しは楽しめた。以前より地域のイベントに呼ばれることが多く、何回もいろんな人に演奏を聞いてもらえたからだ。今日は部活の日だったから、変えるときはもう空はオレンジ色に光っていた。

 信号が青になった。私は明日へ向かって漕ぎ出そうとした。

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