第3話 メモリーナンバー

「おはようございます」

「おはよ…ふわあぁぁぁ」

「おはよう、こいつは高校に入ってからずっと帰宅部だったから、何もない休日にこんな朝早くに起きるのは苦手になったらしい」

 全くその通りだ、と言おうとしたが、眠たすぎてその声も出ない。ひたすらあくびをするだけだ。今日は本当は学校が休みの土曜日。いつもなら十時過ぎまで寝て、そこから授業の予習やら課題やらレポートやらを一気に片付けるのがルーティーンだったのだが、今週は偶然少なめだったので、昨日の夜で全て終わった。少し時間はかかったが。そのせいもあって、早寝遅起きのいつもの生活が、今日は急に遅寝早起きになったので、眠いというわけだ。今すぐにでも布団にダイブしたい気分なのだが、いずれこの生活にも慣れていくのだろうと思いながら、僕は自分の席にずしんと腰を下ろした。今日も昨日と同じ席だ。

 今日はまず、昨日渡した小説を読んで来てくれているらしいので、それについての討論をして、早速曲のイメージとか引き方のレクチャーとかをするらしい。そのレクチャーのために、なぜか僕は自分のトランペットを持ってくるように言われた。全くメンテナンスをせずに、最後に吹いた去年の正月から屋根裏住まいだった”元”相棒は、どんな姿になっているのか全く想像できなかったが、多分動かないだろう。そう思ったから、今日は持ってきた。

「じゃあ、単刀直入に聞くけど、やつの小説はどうだった?」

 僕はつばを飲んだ。漫画でよく見る、ゴクリという効果音もあった。

「えーと、何かが足りないって思いました」

「具体的には?」

「うーん……わかんないです。とりあえず、構成とかはしっかりしていて、登場人物の個別化はしてあるのに、見たことがあるようで、見たことがないような作品でした」

「それってさ、見たことがあるようなマンネリ化した内容で、こんなものだったら誰かの目には留まる訳がないから見たことがないような作品になった、ということか?」

「そうです。多分。確信は持てないですけど」

「ほら、俺と同じこと言った。そういうことだ、秋村。あれは一旦登場人物だけ残して、別の作品に引越しさせたほうがいい」

「つまり、内容があんまりだったから、打ち切りにして新作を書き始めろってこと?」

「まあ、そうなる。でも、昨日からまた新しい生活が始まったわけだし、ちょうどいい機会なんじゃないのか?」

「そうだな、そうしよう」

「あ、でもいいところもあったんですよ。さっき言ったところもそうなんですけど、他には……」

 それから三人で議論をしていたら、終わる頃には軽音部の人はほとんど来ていた。

「ミーティング始めるから、全員いつもの場所に移って」

 部長さんらしき人がみんなに指示を出した。その後、体裁上の部室である視聴覚室に移動した。人が通るたびに僕はその人々の手元を見て舞台裏から出るための方法を探っていたが、みんな動きが洗練された動きを人間が生きるために息をするかのようにしていたので、結局わからず仕舞いだった。下手に触って壊してしまっては弁償しなければならないだろうし、僕は動けずにいた。悩んでいると、目の前の隠し扉となっている壁に柿原が手をかけた。そして、思い出したかように「あ、秋村。今日はお前も参加してくれ。みんなにお前のこと紹介しなきゃならないからな」と言って、やはり凡人が見てもわからないほどの速さで扉を開けた。

 そして心を見透かされたかのように、「残念だったな。逃げられないからな」という目線を送ってきた。諦めが着いた。


「じゃあミーティングを始めよう。まず、今日の流れについてだ」

 簡単な説明がなされた。僕らの班以外の説明がなされて、「弥生の班は、弥生に任せた」で終わった。

「で、今日はとある人に来てもらっている。昨日来た人は知っているだろうが、半分ぐらいは初めてだろう。弥生、説明よろしく」

 はい、と言って、柿原は僕を黒板の前まで誘導した。引っ張っていったというのが正しいのだろうが。やはり、不特定多数の前で話すより、三十人ぐらいの顔の見える場所で自己紹介をするのは不得手だ。入学式の後のホームルームでの自己紹介タイムに感じる妙な緊張感や、これだけで自分が判断されるといった恐ろしさによく似ている感情、いや、まさにその感情をいだきつつ、僕は息を大きく吸った。

「秋村皐月です。学年とクラスは柿原と同じ二年三組で、趣味は小説を読んだり、書いたりすることです。特に目立った音楽経験はないのにここに連れてこられて、ちょっと混乱している状態です」

「はい、嘘です。この人トランペットやってましたー」

「っておい!」

「秋村くーん。嘘は良くないですよー」

「柿原!」

 またたくさんの人に知られてしまった。しかも柿原曰く、この部活には各学年の影響力のある人がいるらしい。自分の素性を知られてしまったらいろんな人に絡まれて、普段の平和な生活がなくなってしまうかもしれない。

 身内にだけはバラしたくなかった理由はこれだ。

 僕はため息をついた。


 それが終わってから僕らは元の場所に戻り、早速各々の活動にかかった。その練習風景は、人数が増えてもゆるく、僕が中学時代に見ていた部活動の雰囲気とは程遠いものだった。しかし、僕はこっちの雰囲気のほうが好きだ。もしかしたら、僕ははじめから大勢の団体としてのパフォーマンスよりも、少人数のアンサンブルのほうが向いていたのかもしれない、そんなことを思うとやりきれない気持ちになる。

 そして、実際僕は全くバンドの演奏についての知識がないので、レクチャーは柿原と他数人に任せて、部長さんに案内してもらいながら活動風景を見学させてもらうことになった。

「紹介が遅れたが、俺は九条頼成らんじょうだ。頼朝の『頼』と、成功の『成』で、『らんじょう』という。かなり珍しい名前だから、できれば覚えてほしい。うん」

 部長の九条さんは一応、今度開催される地方大会にシード——つまり招待演奏として参加することになっているらしい。楽器は基本なんでもできる、いわゆるオールラウンダーだそうだが、今回はギター兼ボーカルとしてバンドのチームに入っている。あと、バンドをやっている高校生の中では、他のバンドと兼務している人もいるらしく、九条さんはメインのバンドである『六波羅道』ではギター兼ボーカルで、あと二つ、キーボードとベースで参加しているところもあるそうだ。

「ここが今日の『六波羅道』の活動場所だ。フリーアドレスと言っておきながら、基本ここにいる。他のところだってそうだな」

 たしかに、昨日来ていた人は昨日と同じ場所に座っている。

「あと、机を共有してやっているところもある。今、柿原も別バンドの人呼んで、まいちゃんに教えているところだ」

 その指の指す方を見ると、まいちゃんが不慣れな手つきでギターを弾いていた。柿原はこちらと目が合うと、やれやれという口の形と、両手を上げて首を振るというモーションをした。周りのバンドの人たちも、頭を抱えている様子だった。

「まあ、時間がかかりそうだが」


 その後、僕は更に九条さんに軽音楽やバンドパフォーマンスについて様々な質問をした。九条さんは初心者の僕にわかりやすく教えてくれて、時折ユーモアも交えて話してくれた。そして、時々部員に指示を出しているところを見ていて、こんな方が部長でいるからこそ彼らは音楽を楽しめるのだと思った。おそらく、顧問の先生は彼がいれば場が回るだろうと踏んで、事務的な作業に徹しているのだと思った。そして同時に、彼みたいな先輩がいれば、僕は堂々と最後の舞台に立てたのかもしれないと、その大きな背中を見て思ったのであった。カリスマ性、協調性、楽観的思考。どれも統率者にふさわしい能力だ。また、熱血漢でもあり冷徹でもある。それらの絶妙な調和。その全てが欠けていたのだろう、僕の先輩は。僕に無関心になることを禁じた、同級生たちは。

 僕たちは一周回って、初めの机に戻ってきた。途中では何人かの個性的な先輩や同級生たちと連絡先を交換したり、一緒に写真を撮ったりした。初対面の人とよくそういうことができるなあ、と感心していたら、九条さんが「この部活は変人しかいないから」と言われ、柿原の姿を思い浮かべ、納得できた。

「よし、案内終了。じゃあ最後に、ここまで案内してきたお礼に見せてもらおうか」

「見せるって、何をで……」

 その目線の先に僕の”元”相棒があるとわかった瞬間逃げようと思ったが、「お前は一人でここから出られないだろ?」と聞かれ、自分でもわかるぐらいくっきりと左眉の上に怒りマークを作って柿原を睨もうとしたが、何故かその目線の先には柿原を僕から隠すようにまいちゃんが立っていた。僕は仕方なく、怒りマークのしわを指で無理やり伸ばし、まいちゃんに向き合った。

「待ってましたよ。私達の青春」

 僕の脳内フィルターでは、まいちゃんの辺りで桜が待っている。もう校庭では葉桜が鎮座するようになった今日このごろ。僕にとっての青春はなんだろう?自分に問いかける。僕の青春は、ただひたすら顔を青ざめた思い出しかない。

「私はこれまで、あなたを目標にしてきたトランペッターを何人も見てきました。正直、パーカスをやっていた私にとって、管楽器の上手い下手に関しては素人でも聞き分けられるレベルですが、私はあなたの演奏を聞いて、たしかに鳥肌が立ったのを覚えています。もう一度、ここで吹いてください。お願いします」

「そうは言われても……」

 周りに助けを頼もうとしたら、周りには敵しかいないことを思い出し、仕方なく僕は一年半振りにハードカバーの鍵を回した。

 中身は思ったよりきれいで、ところどころにオイルをさせばすぐに吹けそうだった。まあここで幻滅させておいたら、もしかしたらこことの関わりも消せるかもしれないと思い、僕は動作確認のし終えたトランペットにマウスピースを差し込み、口をつけた。知らない間にギャラリーは増えているようだった。僕は覚悟を決めて、息を吸った。その時、幽霊となった記憶が脳内に帰ってきた。この感覚、あのときのミス、隣で吹いていた同級生。すべてが蘇り、僕は無心になった。


     *** 


 僕と彼女は、学校帰りに河川敷に立ち寄った。夕日が眩しかったので、高架下まで移動した。川に沿って歩いている間に自分の家に行くための曲がり角を通り過ぎたが、日は長いので問題はないだろう。

 それは、温暖で晴れた日が続いた週の終わり、土曜日の夕方のことだった。

「ここに座ろうか」

「そうだね。コンクリートだったら制服も汚れにくいだろうし」

 僕らは楽器を平らな地面に置き、そこから堤防にかけてのコンクリートの坂に腰を下ろした。

「にしても暑いね。まだまだ春だと思っていたのに。今日の最高気温二十七度だって」

 彼女は、手で仰ぐ素振りを見せた。片手で仰いでもほとんど風は着ていないはずなのに、涼しげな表情をした。

「やっぱり地球温暖化のせいでしょ。テレビでやってた」

「今日は特に暑く感じた。気温と体感温度は違うからね。今日こんなに早く帰れたのも、二人も熱中症で倒れたからだし」

「二人とも、保健室で休んだら回復したみたいでよかった。大事になったらニュースとかになっちゃう。特に大黒秦島の吹部の練習はきついからね。全国的に取り上げられて練習時間が減っちゃう」

「そうだね」

 そうやって僕らは他愛のない会話をした。

「じゃあ吹こうか」

 僕は腰を上げ、坂を下って相棒のもとに向かった。僕が入部したてで、楽器が決まったばかりに買ってもらったもので、まるでペットのように可愛がり、またコレクションのように丁寧に掃除をした。音を出すのには時間がかかったが、きれいな音が出た。学校の少しメッキの剥がれたトランペットも吹いてみたが、音が割れてしまった。僕のトランペットは、店員さん曰く癖が強いメーカーらしく、一度その楽器に慣れたら、それ以外の楽器の音はきれいな音を出すのに苦労するとのこと。裏を返せば、吹きこなしたら他の楽器にはない独特の音色が出せるということだ。それもなめらかで、かつよく通る音。僕は吹き方を研究した結果、ソロを吹くときはビブラートもフラッターもかけられるようになったし、他パートとのハモリも、あまり考えないで感覚でできるようになった。そのおかげで、直近のイベントではソロを一つもらえたし、そのイベントの前座でするアンサンブルでは、メインのパートを任せられた。僕は息を吸って、その中でもお気に入りのメロディーを吹いた。

「やっぱり上手だね。これだったら高校も吹奏楽の推薦で強豪校に入れるんじゃない?」

「いや、それは流石に厳しいでしょ」

「大黒秦島のネームバリューで十分通るし、その実力があるなら大丈夫だよ」

 彼女は楽器のケースを開けながら、優しい笑顔をこちらに向けた。

「じゃあ、一緒に吹いていい?」

「もちろん」

 今回僕たちがやる前座のアンサンブルは、フレックス五重奏というもので、楽器の編成は自由に変えられるというものだ。僕と彼女の楽器は異なるが、偶然同じグループになった。

 彼女はアルトサックスのマウスピースをくわえて、こちらを見上げた。

 僕はその目を見て、合図をした。二人の演奏が、夕日の中で調和され、次第に一つの音楽になっていった……。


     ***


 演奏を終えると、周りからは拍手が起こった。そして、ギャラリーの数は倍に増えていた。中には泣いている人もいたが、正直こっちが泣きたい気分だ。何の曲を吹いたかどうかは、終わってからじゃないとわからなかった。『ユー・レイズ・ミー・アップ』。僕が一曲通して吹けるようになった最初で最後の曲だ。小学生の頃にやった組体操のメインテーマソングで、僕は今でもこの曲を聞くと泣きそうになる。まだ純粋だった生活、そして一致団結していた素晴らしき仲間たちを思い出して、最近の惰性の日々を嘆く涙が、乾ききった僕の肌を走る。そして、漫画のように真下に水たまりを作ることもなく、地面を見てもただの地面があるだけだ。

「秋村……」

 柿原は泣いていた。ここまで様々な柿原の意外な面を見てきたが、涙ほど意外だったものはない。隣にいるまいちゃんは、笑っていた。もう乾ききっていたが、その頬には涙のあとがあった。

「秋村先輩。あなたの演奏はこんなにも多くの人々の心を動かすことができるんです。それってすごいことなんですよ。いくらあなたの満足の行く出来ではなかったのだとしても、素晴らしいことなんです。ホンモノの演奏、なんですよ」

 まいちゃんは自然に微笑んだ。その顔は天使を想起させた。

 そして、まいちゃんはアンコールを唱えた。それに続いて、他の人もアンコールを唱えた。仕方なしに、僕は宝島のサビを披露した。

 結局それも失敗という失敗はせずに吹ききった。歓声が上がった。そんなことは初めてだった。

 こんなに音楽が楽しいと思ったのは、懐かしいようで、初めてだったのかもしれない。

 僕は深く礼をした。


 上げられたその顔は、幸せそのものだったな。私はそう思って、拍手を送っていた。

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