第2話 調律がずれてても

 三人は一つ、さっきまで座っていたテーブルを確保し、座り直した。

「あの……秋村先輩、なんか、えっと、その……触れてはいけないところに触れてしまったみたいで……ごめんなさい!」

「あ、いや、まいちゃんは悪くないよ。僕が勝手にしたことだし。それより、どうしてわかったの?」

「こいつ自然にまいちゃんと呼んでる……」

「え、えーと、癖なのかわからないんですけど、秋村さん暇な時に手がなんか動いてるなーって思ったんです。気になってじっくり見てみると、人差し指と中指と薬指だけがせわしなく動いているな~って思ったんです。だから、金管楽器の、ピストンかロータリーのものかなって思ったんです」

「指が、かぁ。体までは嘘をつけなかったようだね」

「すまん秋村、全く吹奏楽に関わってこなかった俺にとって、そういう専門用語はなるべく避けていただけるとありがたいんだけど。あと、結局お前は何者なんだ」

「秋村皐月。中学校時代には吹奏楽部でトランペットを吹いていた」

「待て、お前出身校確か大黒だいこく秦島しんとう中だったよな。あそこの吹奏楽は強いって聞いたことが……」

「だだっだっ、大黒秦島!? 超強豪校じゃないですか! そこのトランペットって……」

「そう、三年前にコンクールの自由曲でペットソロを吹いていたのは、俺だ。でも、今年は全国銅賞だったがな」

「なんで高校で吹部入らなかったんですか? 絶対学校の吹部が強くなれるのに」

「もう、やめたんだ。ペットは」

 彼から発せられた空気には、舞台裏で漏れてくる舞台の光を明かりにして活動している軽音部の部室をも飲み込むほどの闇が漏れ出ていた。

「こ、この話はやめにしよう。とりあえず、実は秋村は音楽経験者でしたってことだろ?」

「まあ、そういうことだ」

 闇が一瞬にして彼の中に引っ込んだのを見て柿原は胸を撫で下ろした。まいちゃんが口を開いた

「じゃ、じゃあ、始めましょうか。まず、秋叢先生、あ、むらが難しい方の叢の、作家さんの方の秋叢さんに。小説、見せてください」

「色々ありすぎて本題を忘れるところだった。はい、これ。『逢瀬ノ涙』って言う作品」

「ありがとうございます! 今日はこれで以上です」

「あのさ、柿原。これ今日俺必要だったか? お前に代わりに渡しておいてもらうこともできなくはなかったよな」

「う〜ん。よく考えた結果、いらないな」

「…………」

 舞台裏の高いところにある窓から指してくる西日に気がついた。少しの沈黙があったあと、部長らしい人が解散の指示を出した。この部活は最後までゆるい部活だな、と秋村は思った。カバンの中にあるタオルを首に勢い良く掛け、秋村は席を立った。

「帰ろっか?」

「だな」

「ですね」


      ***


 僕達は今、帰り道の坂を下っている。脇に抱えたカバンがファスナーの少し空いているところから呼吸している。それとほぼ同じように、俺は呼吸をしている。前の方では、のんきに柿原が手に持ったカバンをぶらぶらと前後させながら歩いている。その足取りは軽い。自分の仕事が終わったからだろうか。そして隣では、リュックサックを上下させているまいちゃんが楽しそうに歩いていた。赤いリュックサックは、肩にぎりぎりかからない程度の黒髪とマッチしていた。隣に歩いて見てわかったが、まいちゃんはちょっと俺より背が低くて、制服だけにとどまらない一年生らしい初々しさがにじみ出ていた。

「そういえば、秋村」

 柿原がこちらを振り向いた。

「ん? どうした?」

「さっきオッケーって言ってくれたよな。まいちゃんとペアになること」

「まあ、一応ね」

「まず、ありがとな。本当に助かる。お前も見て思っただろ? まいちゃんは高校一年生の男子の中にとどまらず、俺達の学年の中でも話題になっている、いわば学校のマドンナだ。小説を書いているお前にも、見た瞬間その言葉が出てきたはずだ。そうだろ?」

「そうだけど……」

 隣を見ると、まいちゃんはまんざらでもない顔をしていた。

「まあ、お前部活に入ってないから暇だろ。ボツになったとはいえ、小説を書き終えたならなおさらだ。明日から毎日部活に連れて行くから、親御さんによろしく言っといてくれ」

「別に、いつも図書室で本読んだり食堂でのんびりしていたから、このぐらいの時間までだったら全然かまわないけど。親に言うほどでもないし」

「やっぱりお前さ、クラスでは敢えてあんな誰ともかかわらない感じで……」

「何の話かなー? まあ、そう思うならそう思っておいた方がいい」

「正しいかどうかを聞いてるんだけどなー」

 それから俺らは目を合わせて、笑いあった。

「仲いいですね、お二方」

「いや、今は俺達の普段の立場が逆になっていたからさ。こいつがボケて、俺がツッコむ」

「別に僕はボケてる気はないんだけどね」

「そうなんですか。なんだか想像できちゃいます」

 そう言うまいちゃんの目には幾分かの悲しみの色があったのを、僕は彼女の横顔から感じられた。


「じゃあ、俺ここだから。まいちゃんはもっと先だったっけ」

「そうです。じゃあ、先輩。お疲れ様でした!」

「じゃあな、柿原」

「おう、明日からまたよろしくな」

 そう言って、柿原は家の扉を開けて、中へ入っていった。それを見届けて僕とまいちゃんは帰り道を再び歩き出した。

「いいですよね。二人の関係」

「ん?そうかなぁ……まあこれまでの人生の中ではいい方かな。そんなに心を通わせられる人がいなかったから」

「そうなんですね……あの、秋村先輩。ちょっと公園寄っていきませんか?」

 まいちゃんは少し遠くに見える公園を指した。

「いいけど、遅くなってなにも言われない?」

「全然、問題ないです!」

 二人は帰り道の途中にある長月公園に入った。その公園はそこそこの広さで、五人対五人でサッカーができる程度のものだ。遊具は大きめのアスレチックとブランコ、砂場と馬の乗り物と言った、どこにでもあるようなものだった。そして、そこに集う人々もどこかにあるようなテンプレート人間たちだった。ちょっと早めに帰ることができたのだろうサラリーマン、散歩ついでに寄ったであろうおばあさん、あとは鳩がぽっぽと鳴いていて、カラスがカーカー鳴いていて。よく見る当たり前の風景だった。しかしまた僕らも、事実関係はともかく、『放課後に密な会話をする高校生カップル』というレッテルを貼られてしまうのであろうが。まいちゃんはブランコに座って、ゆっくりと漕いだ。僕はなんとなく隣のブランコに座って、その姿を眺めた。私服を着たら本当に小学生に見えるような雰囲気なのに、どこかしらに見える高校生の風貌がほんの少しの違和感を感じさせていた。でも、可愛いとはこのような子を言うのだろう。こんな時、「まいちゃん、もしかしたらクラスでモテる方?」なんて聞いたらこちらに気があるのかも?なんて思わせて距離をとられるかもしれない。だから僕は、こうやって眺めることしかできない。でも黙っていたら飽きさせてしまうかもしれない。

 ふと、考えるのをやめて、隣をもう一回見ると、まいちゃんはぼけーっと周りを見ていた。その視線を追ってみても、別段特別なものはなかった。

「あの……秋村先輩。私、前までパーカッションやってたんです」

「え、でも前ドラム叩いたときって、ボロボロだったんじゃなかったっけ。その話聞いて、てっきり管だと思ったんだけど」

「ええ、でもコンクールで失敗しちゃって、そのミスのせいで、コンクールではあまりない、途中で演奏が終わってしまうっていう非常事態が発生してしまって」

「もうそこからリズム感覚が……」

「そうです。もう死んでしまってるんです。私の中のメトロノームは。でも、私は音楽が好きなんです。だからどうしてもやめられなくて、でも、私はもう吹奏楽部に入るのが怖かったんです。全員の努力を、自分の失敗で潰してしまうのが。だから私は軽音部に入ったんです。全員で出るコンクールなんかない、もう周りから刺すような目で見られない軽音部に」

「そうか」

「おかしいですよね、そんなの。一回音楽を捨てた私がまた、楽器を触るなんて。ホントはそんな権利、あるはずないのに。でも、私はもともとドラムを趣味程度で叩いたことがあるという程度で、センスがなかったんだと思います。ずっと鍵盤系とか、一番多かったのはタンバリンですかね。あんまり覚えてないです。忘れたかったんで」

 まいちゃんはしみじみとつぶやいていた。その目は笑っておらず、辺りには悲壮感が立ち込めたように感じられた。

「私、それから立ち直れなくて、みんなも励ましてくれたんですけど、特にその時の親友の如月きさらぎ早希さきって子も、私と同じぐらいでかいミスしちゃって。彼女はもっと早く立ち直って引退になる文化祭の演奏で一番のソロを吹ききったんですけど。早希も私を励ましてくれてたんです」

 するとまいちゃんは、彼女の真似をした。

「まいちゃんはさ、緊張しなかったことってある? 絶対ミスもしないで何かやりきったことはある? 私はそんなことないよ。絶対にここはこうじゃなかった、とか、ああまたこの音が裏返った、とかさ。絶対ないんだよ。これさえなければ、私のミスがなければ絶対もっと上に行けた、なーんて、思ってるんでしょ。」

「って、もちろんそう思ってました。でも、私はやっぱり立ち直ることができなかった。彼女が交通事故で死ぬまでに」

 すっとまいちゃんに戻ったのに気づき、彼女は人の特徴をよく掴み、どんな感情にでも自分の意思でなれるのだと思った。

 僕もよく知る人物の名前が、まさかまいちゃんから出てくるとは思いもしなかった。さっきの自分の吹奏楽経験という隠していた私情の指摘のこともあり、彼女は侮れない存在だと改めて思った。

 如月早希。僕が中学生だった頃、つまりまだ吹奏楽を続けていた頃、彼女は部内の同級生の内、唯一小学生の頃から親しくあった人物だ。しかし、中学二年生の秋に起こった校区の大改正のため、引っ越してしまった。当時はずっと仲が良かった人が引っ越した悲しみを日々痛感していたのだろうが、案外早く風化していたようで、ついさっきまで忘れていた。でも、思い出した途端に悲しさと虚しさ、そして彼女の優しさに溢れた笑顔が想起された。しかし、以前チャットアプリで彼女は、

「もし、私のことを死んだと思っている人がいたら、それはそのまま放っておいてあげて」と送られてきたのを今思い出した。「どういうこと?」と送ったが、それっきり彼女との連絡は途絶えてしまった。

 まいちゃんとはどのような関係なのだろうか。

「……あのさ、まいちゃん。如月早希は、僕も会ったことがある。僕がまだ、トランペットを触り始めた頃に、一緒に楽器を始めた。でも、中学二年生のとき、まいちゃんも知っているだろうけど、大規模な校区の見直しがあって、僕は彼女と違う学校に転校した。彼女はとてもうまいサックス奏者だった。でも、彼女は生きている」

「私達の心のなかで」

「……そうかもしれない」

 今は真実を伝えないほうがいいのかもしれない。まいちゃんがどれほど彼女のことを知っていたかを僕は知らないから。そして、彼女と僕の仲も考慮して、だ。

「彼女が死んでから、私の中のメトロノームは更に狂って、そのネジを何処かに落としてしまったみたい。それまでは私は叩くのが怖かっただけで、今は叩くのは怖くないんですけど、叩いても自分がなにをやっているのかがわかんなくなって。全くリズムもわからなくなってしまって……こんな私でもまた、音楽を続けられるでしょうか」

 その目は夕日に映えないほど暗く、オーラはこれから来る夜よりも黒いように見えた。彼女は普段見せている姿で、決してこんなことはなかったのだと堂々としているのだろう。そう思うと、心がきゅっと締まる思いがして、身が引き締まる思いがして。

「彼女がもし、この世の中のどこかで今も生きていたとしたら、どう言うと思う?」

「それはもちろん、『続けてほしい』って言うと」

「だったら、続けるべきなんじゃない?」

「あのですね、彼女は死ん……」

「わかってる。こういう言葉がよくドラマとか感動物の作品で言われている、『〇〇は生き続ける、私達の心のなかで』とか、『あいつはまだ生きているんだ。四十九日がすぎるまではこの世の中を浮遊し、みんなのことを見ている』とか。僕は如月早希を知っている。そして、まいちゃんは彼女を知っていて、今も彼女を追いかけている。少なくとも、今はまいちゃんの目に見えるところにその背中はないけど。僕は彼女が完全に忘れられたときこそ、彼女は誰かの中で死んでいるんだと思う。だから君の中で彼女が訴え続ける限り、彼女の背中が感じられる限り、君は続けるべきじゃないのか?」

「でも、私はもう叩けないんですよ。何も」

「だったら地道に頑張っていけばいい。まいちゃんはまだ一年生なんだから、三年間ゆっくりやればいい。叩けるまでは他の楽器や、ボーカルもある。大丈夫。君には柿原がついている。あいつが認めるってことは、才能がすごいってことだ」

「でも、私はっ……」

「でもでもでもでもうるさいなぁ。やると決めたらやる。もう僕は逃げられないんだから。目の前で逃げられたら自分が馬鹿らしくなる」

 僕はまいちゃんの肩をポンポンと叩いた。そして、昔のことを思い出した。まいちゃんの姿が、かつての友に重なって見えた。僕は不意に立ち上がり、先程までの丹色から勝色に移った空を仰いだ。こういう時、物語の主人公はなにかを求めて空に手を伸ばして、空気を握る。もちろん空気は実体を持たないから、その手は空を切る。しかし、そこには何かしらの感触を感じて、いつか出会える、もしくは降りかかる出来事を予測するのだろう。しかし、こんな現実の世界でそんなことをすることはない。僕はただ、空を仰ぐだけだった。


 それを木の陰から見守っていた柿原は、含み笑いを浮かべて去っていった。

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