第7話 虎退治


邦人は狭い岩間に立ち上がり、革パンツ、次に靴下と革ブーツを履く。革ジャケットの内ポケに、スリーブにしたスマホをしまい着込み、革グラブとバイザーを上げたメットを身に付けた。


ゆっくりに見えるが1分程で着替え終わる。その間、岩間の入口方向から目を離さない。今夜は少し外、岩間に入ってすぐ、そして奥の邦人手間の三ヶ所に火を焚いている。


着替え終わり暫くジッと待つ。

ひょっとして去ったか?と思った時、表の焚火の灯りの中に、巨大な四足獣が一頭姿を現した。オレンジと黒の縞模様に頬を縁取る短い白毛。それは体長3m近いベンガルトラ…大虎だった。顔の隈取りが恐ろしい。


火を回り込んで入り口に迫る虎は、一瞬珍しそうに火を眺め、次いで焚火に照らされた岩間の中を慎重に覗き込んだ。奥まで侵入出来るか考えているのだろう。


>木槍、鞭GET!


テリトリーボスが大きな猛獣であった事に、寧ろ邦人は感謝していた。苦労して用意した罠仕かけが使えるからだ。これが山猫や黒豹などスマートな個体だったなら、岩間最奥部まで侵入してくる。そうだったら投石と鞭で牽制し、目や口中を狙い貧弱な木槍で突きまくる、そんな闘いしか無かったろうからだ。


先日、食べもしない蛇を仕留めたのは、編み上げ蔦に蛇皮を被せ丈夫な鞭を作る為だった。蔦にはラードを染み込ませ、威力と耐久性を上げてある。


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ヘルメットで頭部が大きく見える邦人を、虎は新手の肉食獣とでも思ったのか、慎重だ。暫く匂いを嗅ぎ入り口手間をゆっくり歩く。一見邦人に関心が無い素ぶりだ。やがて邦人の視界である岩の隙間から見えなくなった。


すると大岩の側面をガリガリ引っ掻く音がして、邦人はゾッとした。上から来られては計画が狂ってしまう。邦人は炎を飛び越え入り口迄駆け出し、入口外に蒔材を投げ音を立てる。すぐ引き返して一番奥の焚火を踏み消すと、元の位置である最奥部に戻った。これで外からは殆ど邦人は見えないだろう。


足音と物音に気付いた虎が、スッと左横から入口に姿を見せた。しかしまた関心が無いように通り過ぎようとする。ブラフはもうたくさんだ。邦人は数cmの小石を投げ、虎の尻に命中させた。ビクッと虎が前に抜けると、転身し今度は一瞬で顔を覗かせた。


「ゴッラァア!」


ドスを効かせた声で挑戦の叫びを上げると、虎は目を見開き岩間奥を見つめた。本気か?と言った表情だ。そこに邦人はまた小石を投げ、それは顔に当たり、虎は面食らった猫に似た表情でビクッと顔を引っ込める。二度の小石投石は、邦人の攻撃が大した事ない、虎にそう思わせ同時に苛つかせる為の行為だ。


「来いよ!オッラァアア!」

「グルルォオオ…!」


遂に虎は怒り、邦人に応じて雄叫びを上げた。一呼吸置いて、再度雄叫びを上げながら虎は焚火を飛び越え岩間に飛び込んで来た。ほぼ助走無しで、岩壁に毛皮を擦りながら5m程を跳躍して来る。中間地点を超えたところで、虎は邦人が居ない事に気付いた…。


そこに真上右側から、横倒しの低木が虎の尾部に傾いで、斜めにゴドンと降ってきた。低木と言っても4m程の長さ、太さは根元で20cmはある。根元から1m置きに3箇所大きな岩が蔦でしっかりと括り付けて有り、一番後ろの根元と石が、虎の長い尾を踏み潰した。虎の尾は長く、体長の半分程も有る。


虎は苦鳴を上げ前に…進めないので上に跳躍しようと試みる、が今度は真上左側から同じ物が降ってくる。パニックになった虎は、跳ね除けようと必死に捥がくが狭さで体制が悪い。強烈な力で一瞬低木を跳ね上げるのだが、それは弾むだけで虎の背から無くならない。


その虎の顔前、長い前脚辺りに、火の付いた茅束が落とされた。熱の痛みに面食らった上、煙を吸わされ、虎は嘔吐く(えづく)様に咳込んだ。凄まじい肺活量に、藁束は一瞬で吹き飛ぶ。しかし、目を閉じ咳込む虎の眼前に、藁束はまた投入された…。


>梯子GET!


邦人は大岩上にいた。

二度目の投石と同時に、小さな木梯子を一息に登ったのだ。最奥部の鹿皮包みが燃えないか気にしながらも、邦人は継ぎ火が移った茅束を、煙に閉口しつつ虎の顔辺りに落とした。別に虎を仕留めようとしていた訳では無い。テリトリーボスは出来る限り痛め付け、邦人と闘うと割に合わないと学習させようとしただけだ。


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今回、邦人の罠仕掛けはシンプルだ。

猛獣を隘路に誘い込み、後退が難しく岩肌を登りにくい状況を作る。そうしておいて煙攻めで体力を消耗させ、最後は火攻めにして、火傷で大ダメージを与えるというものだった。今の邦人の装備では、まともな方法では頑健な大型獣にダメージなど与えられない。


この作戦のキモは、敵を入口から誘い込む事だった。横合いから岩上に登られたら仕掛けが使えずアウトだ。それと初回で罠に掛ける事。警戒され過ぎ戦場が広いフィールドになったら、余程の僥倖が無ければ逃げる事すら叶わないからだ。


虎はライオンと同じく100mの草地を5、6秒で走破する。豹や山猫なら4、5秒程だ。逃して執拗に狙われたら、罠素材を集めに外出も出来なくなる。


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虎は喚き咳込みながら暴れている。

仕上げだ。薪や炭に鹿のラードを塗りたくった物を虎の背中辺りに落とし、その上から火の付いた茅束を2つ落とす。茅束はこれで終わりだ。


岩間中に、虎の低い咆哮が轟く。

蔦が燃えて、低木に括った岩は外れてしまうだろうが、ダメージは充分与えられた。仕掛けが解け、虎は岩肌を這い上るか、後退して入口から脱出しようとするだろう。もし這い上がろうとしたら、今度は重い石での投石や、木槍と杖や鞭で前脚や顔面を狙い、出来るだけ追加ダメージを与えるつもりだ。一番攻撃効果の高い鞭を握りしめ、邦人は身構えた。


鞭は恐ろしい武器だ。

鞭打ち刑を多くの人は知っているだろう。痛いだけでヌルそうと思いがちだが…。翻る先端部がきちんと当たると、音速を超える衝撃で脆弱な人間の肌など一撃で裂ける。同箇所に数撃で肉は弾け飛び骨が見える。まともに10回も喰らえば、ダメージ以前に痛みに耐えられずショック死する者も多いと聞く。


かつて鞭打ち100回は実質死刑だった。尤も、使う鞭や力は振るう者次第なので、刑罰事情によっては手加減もあったらしいが…。


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邦人の予想に反し、虎の背中辺りの罠木が燃え始め、それは罠木全体にゆっくり拡がっていった。きちんと打ち落とさなかった枝葉が燃えたのだ。ここで邦人は岩間から梯子を引き上げると岩の外側に立てかけ、梯子を伝い降りた。


表面的かも知れないが虎はかなりのダメージを負った。脱出したらもう攻撃に拘らず逃げる、と邦人は考えたのだ。ならば茅束を追加し、少しでも多くダメージを与えたい。邦人は、茅の根元に風で横倒しに拭き集まった枯れ茅や枯れ草を、手で寄せ集めて茅束を作った。急ぎ梯子を登ってそれを暴れる虎の上に落とす。三度程繰り返し様子を見る。


火勢は大した事がないものの、火は低木全体に拡がり、枯れ茅が出す真っ白な煙がモクモクと岩間を埋める。邦人は鞭を構えて、這い上がって来るであろう虎を待ち構えたが、虎は暴れるばかりで這い上がって来ない。やがて物音が弱まっていった。


煙が収まってくる。まだ所々燃えている低木の明かりで、邦人は一旦降ろしていたヘルメットのバイザーを上げ岩間内部を慎重に覗き見た。虎はあちこちの毛皮が焦げ爛れ、仰向けになり、ぞれぞれの脚で石壁を掴もうと足掻いていた。背後から来る火と煙から逃れようと、横転して無理矢理前方に進んだらしい。結果、高い身体能力が災いして岩の隙間に嵌り込んだのだ。腹の上に岩が三つ乗っており、生きているが呼吸が小刻みで浅い。


四足動物は体構造上、前進に比して後退する能力が弱い。それに加え罠木がつっかえ棒になったので、火熱を避けようと身を捩りながら煙の少ない低所に突き進んだのだ。うつ伏せなら…土を掘って呼吸を維持出来た筈だ。パニックに陥った虎は、選択を誤り岩間にドハマった。


だが、まだまだ虎は体力を余している、調子に乗って腹の上にでも降りれば、邦人など前脚の一掻きで抱き込まれ切り裂かれるだろう。


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「ついてない虎だな…。」


こうなっては倒すしかない。

邦人は落ち着いた身運びで、虎を燻し殺す茅束を集めに、大岩に立て掛けた粗末な梯子を降っていった。


…邦人が虎の死亡を確信出来たのは夜明け頃だった。梯子を使い岩間の最奥部に降り立つ。そこには幾つも落とした茅束の灰が数cmも積もっていた。これ以上拠点内を不衛生にしたくはないが、虎の顎門に杖を突っ込み喉をポケットナイフで切り裂いて、もしもの復活が無い様にする。鹿皮袋を中身ごと担ぎ、虎の遺体を踏み越えて、邦人は沼に向かった。


水を飲み水浴し食事を摂って、その後拠点内の岩を退けて虎を解体するつもりだ。拠点内が凄い臭いになるだろうが、300kg近い虎を水辺迄引き摺って行くのは邦人独りでは無理だ…。


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