第5話 鹿狩り…テリトリーボスの予感

…と先客がいた、雄鹿だ。時折フェイントの様に首を上げ、周囲を警戒しながら水を飲んでいる。一部袋が残った角が見事だ。邦人は視界に鹿を捉えるとすぐに身を低くし石になった。石になるとは動きを停め風景の一部になる事だ。


絶好の素材且つ食料だが、厄介な事に立派な角だ。周囲を見渡すが子鹿や雌鹿はいない。雄鹿は好戦的、咬合力は強くその角は丈夫で鋭利、蹄の一撃が直撃すれば人の肋骨など簡単に折れてしまう。


しかし…しかし鹿だ。怪我のリスクは有るがリターンは大きい。肉は美味く栄養充分で、皮などサヴァイヴァル素材は豊富だ。幸いニホンジカ程度の大きさだった。これが肩高2m近いエルクなら、邦人は今の武装では挑まなかっただろう。



小湖の水鳥達が騒がないよう警戒域ギリギリまで這って忍び寄る。今の邦人は真っ黒な大蜘蛛の様だ。そうして水を飲む鹿の頭越しに、大きく弓なりに小石を投げた。


馬もそうだが鹿は視野が300度以上有り、ほぼ真後ろ以外死角は無い。


鹿の前方5m程の小湖に、小石はトポンと音を立てて落ちた。周囲の水鳥が飛び立ち、鹿は石の落ちた方向に正対し首をもたげる。邦人はそのタイミングで立ち上がり、低い姿勢のまま鹿に真後ろから急接近した。


不意打ちは成功した。

肩に構えていた杖を両手でフルスイングし、体重のかかった片側後脚の関節を、真横から砕く勢いで殴打する。一声鳴いてそちら側にバランスを崩す様子に構わず、続けて反対側の後脚関節を真横から殴打する。


鹿は腰砕けし座り込み、邦人に首を向け、痙攣する後脚と前脚を使って向き直ろうとするが上手くいかない。その隙に、邦人は立ち上がろうと捥がく後脚に執拗な追撃を加える。…遂には左後脚が折れ、鹿は泥地に角が引っかかり首が捻れた姿勢で、岸側邦人の方に横転した。鳴きながら、荒い呼吸で泡を吹いている。


ここで邦人は一瞬周囲の脅威が無いか確認し、肩に掛けていた邪魔な蔦を背後に放り投げる。脚部攻撃に失敗したら、角に蔦を絡ませて水中に引き摺り込むつもりだったのだ。


足掻き、強い首の力と身体を振って元に起き直ろうとする鹿。邦人は続けて前脚の関節を狙う。膝を丸め動いてるので中々ダメージを与えられない。それでも打擲を加え続ける事で起き上がりが妨げられ、鹿にはダメージが蓄積された。時折、後脚も追撃する。


気道が捻れ呼吸が不十分な為、鹿は動きが弱々しくなってくる。胸の動きが明らかに小さい。頃合いと見た邦人は、今度は捻れた喉を杖の細い方で突き始める。咽頭部の出血と嘔吐で窒息死させる狙いだ。鹿は赤い泡を吹いて弱々しく咳き込み涙をボロボロ流し、時折痙攣しながら糞尿を漏らし始めた。


尚も喉を突まくり5分後、やっと鹿は動きを止めた。折れたもの以外全ての脚が、ゆっくり折り畳まれていく。


肩で息をし汗だくになった邦人は、ようやくバイザーの曇ったヘルメットを脱ぎ革ジャケットの前を全開にして思う存分深呼吸する。手汗でヌルヌルする革グラブを外し、ヘルメットを置いてから水辺に歩み寄ると、今や血だらけの杖と共に表面を軽く濯いだ。


格闘時間は合計20分程だった。思い出して放置した兎を見にいくと、まだ二羽とも生きていたので回収する。鹿が手に入って今更だが、薄い兎皮は柔らかく紙やタオル代わりに適していると考えたからだ。


>鹿一頭GET!


水辺に戻ると、中はヌルヌルの革パンのジッパーを緩め体温と呼吸を静めながら、時折杖先で鹿を突く。それから5分程して息が整ってきた頃、やっと邦人は鹿が死んだと判断した。心臓が停まった筈の獲物が再起し逆襲するなど、野生動物にはよくある話なのだ。ポケットナイフで鹿の胸を軽く開き、杖で肋骨の隙間から心臓を探って傷付け血抜きを始める。また手を洗う。


邦人はジャケットを脱ぎ置き、シャツを脱いで水場で汗を濯ぐと、昨日同様シャツをフィルターにして大量に水を飲んだ。渇きが癒えると、今度はシャツに染み込ませた水分を頭から被り、汗を流す。本当は全裸で水浴したいが、リスクを考え我慢し、近くの粗朶を集め泥地で火を起こした。


絞ったシャツを着その上からジャケットを着込み、革グラブも着ける。もう一度深呼吸して戦闘の強張りを解してから、邦人は鹿と兎の解体に取り掛かった…。


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鹿刺しが食べたいが邦人は諦めた。ビタミンなど栄養豊富な血液も飲みたいが諦める。


アラスカで鹿狩りをした事のある邦人は、A・B型肝炎は予防摂取で終生免疫を得ている。しかしC・D・E型は終生免疫を得られるワクチンが未開発だった。インターフェロンすら確保出来ていない今、野生生物の生食は危険だ。


目や口その他傷口から各種ウィルスが入る恐れを懸念して、邦人は解体をフル装備で行った。暑さと、まだ熱い血や内臓の発する強烈な臭気に閉口しながら、石ナイフと必要部はポケットナイフで解体に勤しむ。


石ナイフは、水辺にひと抱えの石を運び、それで研いで面を揃え刃を立てた。金属と異なり脆いが、心得が有れば短時間で研げる。さすがに丈夫な鹿皮を綺麗に割くには向かないが、皮剥ぎ等には充分利用出来た。


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>鹿肉GET!


タン、ハツ(心臓)、レバー、リブロース…。道具不充分で本職ではない邦人は、それでも6kg程の肉を確保する。ハツとレバーは腐敗しやすいので、その場でよく焼いて食した。


鹿肉は兎肉より肉の香りが立ち美味かったが、やはり塩が欲しい。この地・島に他に人がいるか不明だが、海は有るだろう。装備が整ったら、高所を探して地形類推し海を目指そう。頑健な歯で肉を咀嚼しながら、邦人は決めた。


>弓弦素材、小物入れ、鹿ラード、兎皮GET!


内臓も必要部位を裏返してよく水洗いする。と言っても、小腸、膀胱、睾丸袋程度だ。毛皮から刮いだラードも確保し、ついでに兎の皮剥ぎもしてそれに詰める。


>鹿皮、鹿角、骨材GET!


鹿角は頭骨を煮込むか、鋸やカッターで切り落とさないと綺麗に取れない。今回は頭骨を石で割って無理矢理確保した。肉類は軽く洗って泥や汚れを落とし、鹿皮に包んだ。大腿骨と肋骨も2本確保する。


一通り終えたところで昼過ぎになっていた。作業とジビエに汗だくになった邦人は、先ずヘルメット外部を洗い、そこにスマホ、ZIPPO、タバコ、ポケットナイフを入れ獲物の横に置く。ジャケットとグラブも同様にした。


そうしておいて、少し離れた水場に分け入り、パンツ・ブーツに付いた血や体液を洗い流し、ついでに汗も流す。邦人は、頭と顔もよく流した。思い付いて兎の皮紐を取り出し、それを使って歯と歯茎を刮ぐ様に磨く。


鹿の匂いが染み付き、猛獣を呼び寄せる事を恐れたのだ。清潔を保ち病を防ぐ目的も有ったが…水は心地良く快適だった。


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水に身体を浸していると、葦原がガサガサ音を立て、狐や鼬の様な生き物が数頭現れた。邦人を警戒しながら、離れた水辺に廃棄した鹿の骨肉や内臓に齧り付く。当然虫達は、飛ぶものも這うものも寄って集っている。


一瞬杖を強く握り締めた邦人は、ホッと息を吐いた。獅子・虎・山猫や狼など、こちらに襲い掛かって来る様な強敵では無かったからだ。それに小動物達がいれば、強敵は小さいものから襲撃する可能性が高い。


猛獣達は思いの外賢い。

エサの心配が無く腹が満ちて入れば、真横を鹿や山羊が通っても素通りする。狩をする場合も、脅威度の判っている倒し易い獲物から狙う。ちょっとした怪我が死に繋がると本能で解っているからだ。


しかし縄張り荒らしは別だ。

それはエサの分配と繁殖の機会が減る事を意味し、つまりは生存を脅かす敵・ライバルだからだ。一旦敵認定されると、明確に勝てないと理解させない限り、倒すか縄張りを出て行くまで襲撃し続ける。


「さて、どうするか…。」


邦人はテリトリーボスがいると考えている。いなければ、もっとその辺に鹿がたくさん見当たっただろう。


恐らくここのテリトリーボスは、昨日時点で邦人の臭い…存在に気付いていただろう。しかし脅威度も、留まるか通過するかも不明だったので放置していた。


だが今日は違う。

エサが集まる水場…テリトリーの要、狩場で鹿を倒したのだ。これを確認すれば、邦人は明確に脅威認定され敵と目されるだろう。近く臭跡を辿って威力偵察を仕掛けてくる筈だ。…邦人が強いか、弱いか。


勿論、対人戦闘経験が有る獣なら話は別だ。銃砲や弓矢など長距離攻撃、強力な防御外装、異常に鋭い牙で有る刃物。それらを知っている獣は、滅多な事では人間を襲撃して来ない。


水から上がった邦人は、熾火に枯れた葦を加え煙を立てて虫達を追い払う。シャツを絞って着、ジャケットを振り回して水切りし身に付けスマホなど小物をしまいこむ。勿論グラブも付けた。


杖を右手に、鹿皮で袋状に纏めた20kgを超える獲物を左肩に担ぎ、邦人は足早に一晩を過ごした大岩に向かった。鹿角は岩陰を探し置いて行く。


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